中心聖句 v24
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」
カールバルト、ドイツの新神学者
ある時、インタビューを受けました。
聖書を研究なさって一番の発見はなんですか。新神学を巻き起こした20世紀の神学者は何を言うのか、みな期待をしました。そのときです。バルトはこう答えました。
聖書ははっきり語っています。私の最高の発見は
イエスキリストがこの私を愛していてくださっているということです。
今日初めていらした方も、道半ばのかたも、長い信仰生活を送って来られた方にとっても
主イエス様が今日もあなたを愛しておられることをおぼえてください。
今朝の聖書の箇所は少し難しい感じがしますが、聖霊さまの助けによって読み進めたいと思います。先週、神様の主権について学びました。それに対する反論から始まっています。
v19だれが神の御心に逆らうことができようか。
神様がすべてお決めになります、そして神様が御心のままに行われます。とすれば、人間には何の過ちもなく、罪の責任もない、神様がすべて決定されるはずなのに、人間に責任を問われるのは、どうしてですか、神様のほうがおかしいといったのです。
私たちも、ときに、自分が正しくて、神様が間違っているかのように考えるときはないでしょうか。神様が生きて働いているのなら、なぜ、こんなことがおこるのかと。神様を信じた後も、願う道が閉ざされるとき、なぜ、神様は何をしておられるのだろうと考えるときもあるかもしれません。なぜ、なぜ、なぜ。未解決の課題は、それぞれがもっています。なぜで、進んでいくと苦しくなります。そして信仰がわからなくなります。
祈りが解決のカギです、祈りの中で私たちは、何を祈ってもいいのです。なんと祈ってよいかわからない時にも、聖霊様が言い難き嘆きをもってとりなしてくださるからです。なぜですかと言って、ときに涙して祈り、正直に心の内を打ち明けるとき、神様と親しくなります。本音で神様の前に出るときに、神様が導いてくださいます。そうすると祈りが、次第に
変わってきます。なぜから何をに変わります。このことで、何を神様は教えてくださろうとするのですか。神様のご計画はなんですか。私を愛してご自身の御子をも惜しまずに与えてくださった神様は、見捨てることも見放すこともなさいません。
本文に戻りますが、罪をも神様のせいにする人に、たいして、使徒パウロは、
v20「神に口答えするとは、あなたは何者か。」新改訳聖書には、こうあります。いい逆らうあなたはいったい何ですか。いづれにしても厳しい言葉です。しかしそのあとにこう続きます。
造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
今日はここから三つのことをお話します。
1、神様は焼き物師で、私たちはその手の中にある粘土です
旧約聖書エレミヤ書18章1~6節をお開きください。(p1210)
ここでは、陶工ということばが使われていますが、同じいみです。
陶器師、焼き物師は神様で、わたしたちは、粘土です。
v6「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」
神様は、私たち一人ひとり、作品一点ものとしてつくってくださいました。うちにも芸術家がいます。鉄人やテキスタイルデザイナーがおられます。時間をかけて作られた入魂の作品展を見に行くのは楽しいものです。それらはオリジナルデザインの手作り、最高の作品です。聖歌295になしたまえなが旨という賛美があります。
いのりのことばです。
1、なしたまえ、ながむね すえつくり、陶器師である、わが主よわれはただなが手の うちにある土くれ
2、降る雪のごとくに わがうちをきよくし
ながむねのまにまに ねりたまえ わが主よ
神様は単なる焼き物師では、ありません。神様はもっとも深い意味において
一切の主導権をお持ちです。そして私たちにとって良いと思えることも、
思えないことも用いて、わたしたちが神様の聖さにあずかるものとしてくださるのです。今、あなたには、苦しみがおありでしょうか。どうすることもできず、一人悩んでおられるでしょうか。あなたを造られたかみさまの前にでましょう。
神様の手のなかで、それは意味があることとなります。わたしたちの、たとえ失敗と思えるようなこともです。私たちの人生の私たちにとってプラスも、マイナスも、神様にあってはすべてはプラスです。どんなことでも神様は益としてくださいます。
憐れみとはなんでしょうか。
神様があなたを祝福するといった神様の側からの一方的な約束です。イエスキリストの十字架によってあなたと結ばれた契約があります。それは何があってもあなたを見放さず見捨てないという約束です。たとえ失敗して怒られることがあっても、その約束をどこまでも守り続けること、それが神様のくださる憐れみです。
ここには、憐れみの器と対照的に述べられている言葉があります。それは怒りの器です。
v22を読みます。神様の怒りが注がれている器、考えるだけで怖いです。
滅びることになっていた者とは、実にこのわたしです。神様のことを考えず、自分中心に行動するとき、不安になります。そして神様の声を聴かずに、心を頑なにして、自分のやりたいように生きてきました。けれども、ある日ある時、神様が声をかけてくださいました。怒りの器から、憐れみの器へと恵みによって変えてくださるのです。
私が神学生の時に哲学を教えてくださった小田島先生は、わたしのことを、わたくすはとおしゃる先生でした。悪いことに私たちはそのまねをして遊んだものでした。
岩手県出身、明治44年1911年生まれの先生は、講義もすばらしいものでした。今はもう天に召されましたが、神学生時代にお話しくださいました。
仙台の旧制第二高等学校在学中、土井晩翠先生の書生になり、働きながら学んでいました。ある時、疲労で倒れ、入院。呼吸困難となり初めて酸素吸入をして、自分はこのまま死ぬかもしれないという恐怖におそわれました。いま、死んではだめだ、わたしは
何の拠り所も持っていないと思いました。その後、土井晩翠師の長女照子さんは27歳、結核で自宅療養をしていましたが病が急変し、最後の時を迎えていました。
自分の臨終のときに、照子さんは落ち着いていて、一人一人を枕元に呼んでお礼の言葉をいい、私にも言われたがただおろおろするだけでした。号泣する友人たちに、
「私のためにどうぞ、泣かないでください、わたしは一足先にイエス様の身元に行くのですから。泣く方はどうぞ廊下で」その夜、父親にテニスンの英語の詩を読んでもらいました。人生の別れの時,水先案内なる主が、天つ港に安らかに着くことができるように守り導いてくださいと内容です。そして、今日まで守られたことを主に感謝し、みなさんが決してわたしをほめませんように。私の知っている罪も知らざる罪も、一切の罪を赦してくださいますように。家族をお守りくださいますように、世界に平和が来ますように。主のみ名によってアーメンと祈りました。そして、賛美のうちに静かに天に召されていきました。心を打つ深い祈り、自分にはこんな力はない、この驚くべき力、希望の力、平安はどこからきたのかと思いました。
これはキリストの力に違いないといって、この信仰を求めようと決心し、聖書を買って読み始めました。やがてイエス様を信じ、新しい人生を歩み始めるのです。そして先生はキリストの憐れみをうけ、憐れみの器として、大いに用いられました。
あなたも神様に愛されて赦されている憐れみの器です。
そして神様の憐れみと愛を運ぶ器として、あなたを用いられるです。あなたでなければ届かないひとがいるのです。
3、あなたは、今日から、今から新しく生きることができます
このみ言葉を握りしめてください。
ローマ9:24 v24を読みます。
私たちとは、キリストを信じる、キリストの教会を指します。
召し出してくださったとは、あなたを選んでくださったという意 味です。
ヨハネ15:16にはこうあります。新約聖書p199
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
神様は、あなたを愛して、あなたを選んでくださいました。
なぜ、あなたなのでしょうか。なぜわたしなのでしょうか。
先日あった第8回ケズィックコンベンションで講師のエイメス先生が繰り返し
語られました。Why him? Why you? Why me?
神様は、弱い私たちを通して働かれることを願われました。理由はありません。
ただ愛するがゆえにです。コリントの信徒への手紙一1:26~28 p300
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
祈り
神様、怒りの器であった私を、イエス様の十字架の地によって救いへと導いてくださったことを感謝します。与えられた使命を果たし、福音の前進のために用いてくださいアーメン
コメントをお書きください
misamisa (月曜日, 03 3月 2014 10:56)
好美牧師の説教を日曜礼拝ではじめて聞きました。心にとても響き感動致しました有難うございます。
自分では、どうしても解決できない悩み苦しみ、誰にでもあるんだと
改めて思いました。
祈りの時を有意義な時になるように、邁進していきます。