先程、みんなで「イエス様が語るなら」を賛美しました。
この賛美は、子ども達が大好きな曲でいつも、ホサナの祈祷会で歌っています。今日は「水が変わってぶどう酒になる」というお話しです。
これは、イエス様が一番最初になさった奇跡です。
水をぶどう酒に変えることの出来るイエス様は、苦しみを喜びに、嘆きを賛美に、死を生命に変えることのできるお方です。
イエス様は、弟子たちと一緒に結婚式に招かれました。そのころの御祝いは、とても盛大で、一週間から二週間も続く事があったそうです。
イエス様が、弟子達を選ばれた後で、ナザレから少し離れたカナという町で結婚式が行われました。イエス様と、弟子たちも結婚式に招待されてやって来ました。
テーブルには、お肉やお魚、野菜に果物、パンにぶどう酒。御馳走が一杯並んでいています。そして、みんなは結婚した二人を心から御祝いして御馳走を味わっていました。
ところが、楽しいパーティーの途中で、困った事が起きてしまったのです。結婚式の中で一番大切なぶどう酒がなくなってしまったのです。このままでは、みんなががっかりしてしまいます。台所でお手伝いをしていたイエス様のお母さんのマリアは、困ってしまいました。
その時に、イエス様なら何とかしてくれるにちがいない思いました。そこで、イエス様に「ぶどう酒がなくなってしまいました。何とかならないでしょうか。」と言いました。すると、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と不思議な答えが返ってきました。
「わたしの時はまだ来ていません」というのは、どういう意味でしょうか?それは、イエス様は神の子ですから何でもできない事はありません。でも、まだ御自分の力をあらわす時ではないとおっしゃったのです。
イエス様は、そう答えられましたが、マリアは、イエス様にお任せすれば間違いがないと思いました。そこで、お手伝いの人に、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」と頼んだのです。
この家には、ユダヤ人が、手を洗ったり足を洗ったり清めの儀式のために、6つの大きな水がめが置いてありました。イエス様は、その水がめをご覧になると、「水がめに水をいっぱい入れなさい。」とおっしゃいました。
今のように、水道があるわけではありません。その大きさは、100キロくらい入る大きさです。その大きな水がめを満たすのは大変な作業です。しかもイエス様は、ぶどう酒が必要なのに、水を満たしなさいとおっしゃったのです。そこにいた誰もが不思議に思った事でしょう。しかし、お手伝いの人は、言われたとおり、6つの水がめに水を一杯に入れました。つぶやかずに、うたがわずに、イエス様に従ったのです。
すると、イエス様は、「さあ、それをくんで、宴会の世話役のところに持っていきなさい。」と言われたのです。お手伝いの人は、だまってイエス様のお言葉に従いました。
するとどうなったでしょう。
世話役が飲んでみると、水がめの水は、それはそれはおいしいぶどう酒に変わっていたのです。お世話役は、びっくりして花婿を呼んでこう言いました。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
ぶどう酒を飲んだ世話役も、褒められた花嫁も、そのぶどう酒がどこから来たのかは知りませんでした。けれども、水をくんだ僕たちは知っていていました。どんなに驚いた事でしょう。
これが、イエス様が人々の前で最初に行った奇跡でした。この奇跡を通して、御自分が神である事を現されたのです。これを見た弟子たちは、イエス様がただの先生ではなく、驚くべき力を持った神の子、救い主である事を信じたのです。
この聖書の箇所から今日は、二つの事をお話ししたいと思います。
(1)イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださるお方
カナの結婚式で出された、ぶどう酒は、喜びや楽しみをあらわします。そこに集まった人たちは、結婚した二人を御祝いしながら、喜びの時、楽しい時を過ごしていました。 けれども、ぶどう酒がなくなったように、私達の人生にも喜びや楽しみがなくなる事があります。
けれども、マリアが、イエス様に助けを求めたように、私達もイエス様に祈るなら、水をぶどう酒に変えてくださる。悲しみや苦しみや悩みを、喜びや楽しみや感謝に変えてくださるのです。
ソチオリンピックがとうとう終わりました。
浅田真央選手の演技に、大きな感動を覚えた方も多いと思います。
ところで、皆さんはジャネット・リンというフィギュアスケート選手を知っていますか?
1972年、札幌オリンピックで活躍した、18歳のアメリカ人選手です。
この大会で、彼女は金メダル最有力候補でしたが、前半のショートの演技がうまくいかずに4位に終わってしまいました。強豪揃いの中、もはや逆転優勝など絶望的。彼女は悲しさのあまり、選手村の自室に駆け込んで泣きじゃくりました。
何時間かたち、泣きつかれた時のことでした。ふと我に返った時、彼女は神様からのささやきを聞いたのです。
「最終ゴールはメダルを取ることではない。滑りを通じて神の愛を世界に示すことだ」
はっとした彼女は、その神様の声を聞いた時、心の中に平安が与えられて、心が軽くなりました。
そして次の日のフリーの演技の時です。彼女は、おしくも尻もちをついてしまいましたが、その後もあふれるような笑顔で立ち上がり、4分間の演技を最後まで終えたのです。
この彼女のあまりにも純粋で愛らしい笑顔に、観客は魅了されました。彼女は結局、銅メダルに終わりましたが、彼女は世界中の人々から愛され、「銀盤の妖精」と呼ばれて、みんなの記憶に残ったのです。
ジャネット・リンはインタビューでこう語っています。
「練習ではあそこ(スピン)で転んだことなんて一度もありませんでした。あれは神が仕掛けたストーリーだと思います。どうすることもできないならば、私は笑顔であり続けるしかない。『神様が私に喜びを与えてくれ、私はその愛を見せようとした』。それ以外に説明ができません」
イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださるお方です。
「失敗は成功のもと」と言いますが、神様は失敗を成功に変えてくださるお方です。
また、苦しみを希望に、悲しみを喜びに、嘆きを賛美に変えてくださるお方です。
このイエス様を信頼して、神様の祝福の中を歩ませていただきましょう。
(2)最後に良い物をくださる神様
10節
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
当時の結婚式は長く続きますから、普通、披露宴では最初に良いぶどう酒を出して、酔いがまわったころには、質の劣ったぶどう酒を出すものでした。ところが、この時「イエス様は、最後に最高のぶどう酒を出されたのです。」
この記事を読みながら、神様が与えてくださる恵みも同じだなと思いました。
今日もこの後、聖餐式が行われますが、ぶどう酒にあらわされるように、イエス様は、私達の罪のために十字架で尊い血潮を流してくださいました。そのイエス様を信じるだけで、私達の罪は赦され、神の子とされたのです。
そして、最後に、私達には、「もはや死もなく、悲しみも、悩みもない」天国で、神様と共に過ごす事が出来る、天国が約束されているのです。
先日、役員会で、「遺言証を書きませんか。」と提案されました。
三浦綾子さんが、死を前にして、「私には大切な仕事がまだ残っています。それは、どのようにして死をむかえるかです。」とおっしゃいました。
神様は、私たちに永遠の命を約束してくださいました。その事を、生き様をもって、証し出来るのが、葬儀です。そのためにも、今、元気に内に、葬儀の時に、どの讃美歌を歌うか、愛唱聖句は何か、花はどんな花を飾るのかなど「遺言状」を書いておくことは、とても素晴らしい事だと思います。
最近、お父さんも息子も牧師をしている先生の証しを読みました。
そのお父さんの牧師先生は、長年にわたって、神様に忠実に仕えてこられましたが、ある時体調をくずして入院をしたところ、末期のガンだと診断されました。親戚もみんなクリスチャンでしたので、本人にも、家族、親戚にも末期のガンだということが知らされました。
先生には、病気の肉体的な痛みはありましが、神様がくださった、今までの人生の恵みを思い起こして、いつも感謝していました。
ある日のことです。家族がみんな集まった時に、先生の葬儀の話になりました。先生は楽しそうな顔をしていました。
「讃美歌は何にしようかな。」「どんな花を飾ろうか」「写真は、笑顔のものが良いな」と病室は笑いに満ちていました。
ちょうど、その時に看護師さんが入ってきました。「あらっ、楽しそうですね。誰かの結婚式ですか。」と思わず聞いてしまいました。すると、先生は「あはは」と笑って「私の葬儀をどのようにするかを話していたのですよ。確かに私にとっては、葬儀というより結婚式のようなものですね。」と話すので、看護師さんはびっくりしてしまいました。自分が死ぬのが分かっていて、こんなに楽しそうな顔をしている人を見たのは初めてでした。
それ以来、その看護師さんは、先生たちに興味を示すようになりました。先生は、自分たちはイエス様を信じていて、神様が素晴らしい人生を与えて下さったことを感謝していること、死んでも終わりではなく、永遠の命が与えられていることを話しました。
この看護師さんは「人生の最後の、死を真っ正面からとらえることのできるキリスト教こそが本物だ。」と確信して、教会に通うようになり、イエス様を信じるようになったのです。
10節
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
この世の人は、死んでしまったら終わりだと、死が絶望であるかのように言います。しかし、イエス・キリストを信じる私達にとって死は決して終わりでもなく、絶望でもありません。この世の全ての苦しみや悲しみ、痛みや悩みから解放されて、主と顔と顔とを合わせてお会いできる素晴らしい時です。
最後に、そのような素晴らしい恵みが約束されているのです。その素晴らしいゴールを目指して、最後まで、信仰の生涯を全うさせていただきましょう。
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すずきみちこ (水曜日, 06 2月 2019 16:09)
「いえすさまが語るなら」の歌詞を教えて頂けないでしょうか。メロディーはわかるんですが 歌詞を忘れてしまいました
岡摂也 (水曜日, 06 2月 2019 19:18)
1、イエス様が語るなら、
水がかわってぶどう酒になる。
イエス様が語るなら
水がかわってぶどう酒になる。
※
イエスよ、イエスよ、
私に語ってください。
清く、強く、用いてください。
2、イエス様が語るなら
死んだラザロはよみがえった
イエス様が語るなら
死んだラザロがよみがえった
※
以上です。
神様の豊かな祝福がありますように
3、イエス様が語るなら
あら海が静まった
イエス様が語るなら
あら海が静まった
※