主日礼拝 3/9

「良い知らせを伝える者の足」ローマ10:14~21

 昨日、東北芸術工科大学で、関根一夫先生の「いてくれてありがとう。」という講演会がありました。私は、今日の準備のために行くことが出来なかったのですが、その講演会では、一人一人の存在がどんなに素晴らしい者なのかが語られました。

 そして、関根一夫先生は、キリスト教の伝道者でもありますから、サインをする時には、「あなたは高価で尊い人です」と御言葉を引用して、サインをさせれていたと聞きました。

 イザヤ書43章4節には新改訳聖書では「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と書かれています。

 まず、みなさんにお伝えしたいのは、ここにおられるお一人お一人が、高価で尊いかけがえのない存在であるということです。どれくらい高価で尊い存在であるかというと、それは、私たちの救いのために、神の御子であられるイエス・キリストが十字架で命を与えて下さるほど高価で尊いのです。

 けれども、多くの人が、自分がそんなに素晴らしい存在であることを知らずに生きています。なぜ、そんな大切な事を知らないのでしょうか。それは、その事を伝える人がいないからです。

「あなたは高価で尊い」人ですよ。神様があなたのことを愛していますよ。「いてくれてありがとう。」と伝える人がいなければ、そのことが解らないのです。

 

今日の中心の御言葉は 15節です。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

 

 パウロは、9章で救いに選ばれた者と、滅びるままに捨てられる者が、神様の主権の内にあることを書いています。しかし、パウロは紙の選びについて語る時、冷たい心でいる事はできませんでした。パウロは、イスラエルの民が救われることを心から願っていたのです。

 そこで、今日の箇所で、パウロは良い知らせを伝える者が起こされるようにと心から願っているのです。

  今日の聖書の箇所を三つに分けて御言葉を取り次がせていただきたいと思います。

 

(1)主の名を呼び求める者に答えてくださる神

14節

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

  14節のはじめに、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。」  とあります。神様は、呼び求める者を救って下さるお方です。

  今日読んでいただいた1節前の12節に 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」とそのことがはっきり約束されています。

 この「呼び求める者」というのは、ヨエル書2:32の引用です。そして、パウロはこの御言葉を引用する時には、よみがえりのイエス・キリストを現しています。

一カ所聖書を開いてみたいと思います。

使徒2:17~21

 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

  この御言葉は、ペンテコステの日にペトロが語った説教の一部です。

 21節に、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」とヨエル書2;21が引用されていますが、イエス・キリストの十字架と復活を信じて、その救いを呼び求める人は救われると約束されています。

 

新聖歌252番の「やすけさは川のごとく」は非常に有名な曲で、この曲には神様が与えて下さる深い平安が歌われています。

 しかし、この歌詞は、深い苦しみの中で生まれた曲で、これを書いたホレイショ・スパフォードは、現代版ヨブと呼ばれています。

 彼は、弁護士として成功し、医科大学の教授でもあり、神学校理事で、世界的な伝道者ムーディと親しい友人でした。

 ところが1871年のシカゴ大火災で全財産を失ってしまい、この災難の直前には息子を失くしていました。彼らには休息が必要でした。

 そこで1873年、彼は妻と4人の娘と一緒にヨーロッパ旅行へ行く計画を立て、後から追いかけるつもりで、妻と娘たちを先に船に乗せました。妻と娘たちを乗せた旅客船は、港を出航しました。ところが7日後、その船が大西洋の真ん中で大型船と正面衝突し、スパフォードの娘たちは皆、海に沈み、妻だけが救助されたのです。

 この知らせを受けたスパフォードは、目の前が真っ暗になりました。妻を迎えに船に乗り込み、娘たちが沈んだ海の上を通った時、彼は痛みと悲しみで一晩中神様に泣き叫びました。

 ところが、絶望し、泣きながら祈っていた彼に突然、驚くべき主の臨在が臨み、それまで体験したことのない平安が心に宿ったのです。すべての苦難と絶望を覆うほどの神様の圧倒的な臨在と、この世を超越した心の平和を受け取ったのでした。

 朝になると、彼は神様が下さった霊感によって、詩を書き下ろしました。

それが「やすけさは川のごとく」です。この聖歌は、彼が神様の栄光を経験して書いた詩です。

 

安けさは川のごとく

1、安けさは川のごとく、心浸す時

    悲しみは波のごとく、わが胸満たす時

    

    全て安し、御神、共にませば

 

12節

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」

  どのような、苦しみの中にあったとしても、主の名を呼び求めるならば、救われるのです。

 

(2)御言葉を宣べ伝えることによって

 それでは、どうすれば、その救いに与ることが出来るのでしょうか。人が救われるために必ず必要な事があります。それは、誰かが福音を伝えなければならないということです。

パウロは、その事を14~17節で書いています。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 

 ここに、たくさんのクリスチャンの方がおられますが、クリスチャンの方は、誰かから福音を聞いて救われたのではないでしょうか。私みたいに親がクリスチャンであったという方もおられるかも知れません。また、友だちに誘われて来た方もおられるでしょう。また、クリスチャンの書かれた本を読んでここに来られた方もおられるかも知れませんが、とにかく誰かから福音を聞いたり、伝えられたからこそ、信仰を持つことができたのではないでしょうか。

 神様は、愚かだと思える宣教という業を通して、人々を救いに導かれるのです。

  神様は、全能のお方ですから、何か大きな奇跡を起こしたり、御自身の姿を現されて人々に信仰を持たせることもできたでしょう。しかし、神様は、イエス・キリストを信じる一人一人を用いられて、宣教という働きを通して人を救いに導かれるお方なのです。

Ⅰコリント1:18~21

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

  パウロは、その御言葉を宣べ伝える人の素晴らしさを、15節でこう書いています。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

  この「 」で書かれている言葉は、イザヤ52:7の御言葉の引用です。「良い知らせ」というのは、英語では、GOOD NEWS ですが、「イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪が赦され、神様と共に歩み、永遠の命が与えられる」という福音です。この「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか。」神様は、この福音を伝える人を心から喜んで下さるのです。

 

 ある宣教師が、始めてインドの伝道をすることになりました。彼はインド人と同じように、裸足で熱い砂の上を歩いて伝道をしました。すると、数日もしないうちに、足の裏の皮がはげて、真っ赤に腫れ上がってしまいました。

 その姿をインドの三人の紳士が偶然見つけて、その宣教師の姿にキリストの愛を感じて、彼の話しを聞くようになり、イエス・キリストを信じるクリスチャンになったのです。そればかりか、彼らも福音を伝えるようになって、三ヶ月の間に、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じる人たちが700人も起こされたというのです。

まさに、この御言葉のように、「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか。」と書かれている通りです。

  この宣教師は、足の裏の皮がはげて、血を流しながら、神の愛を伝えましたが、イエス・キリストは十字架上で、全人類のために血を流されました。そして、命を捨てて私たちに対する愛を示してくださったのです。そのキリストの愛を、私たちも「良い知らせを伝える者の足」として伝えさせていただきましょう。

 

 今日は、岡  恵美姉は、直接伝道献身に導かれて、これから牧師になるための学びが始まります。けれども、神学生や伝道師・牧師など特別な人だけが、福音を伝えればぞれでいいというのではありません。

 イエス・キリストを信じるすべての人が、良い知らせを伝える証し人です。そして、神様はイエス・キリストを信じるすべての人を必要としておられるのです。信徒は信徒として、神学生は神学生として、牧師は牧師としてです。そして、あなたにはあなたにしか行けない場所、出来ないことがあるのです。その遣わされた場所で、この素晴らしい福音を伝えさせていただきましょう。

 

(3)福音を聞いても従わないイスラエル(16~21)

16~17

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

16節は、イザヤ53:1の引用です。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」

  パウロは、この御言葉を引用して、イスラエルには御言葉が宣べ伝えられたので、それを信じなかった責任はイスラエルの民にあることを明確に語っています。

 この御言葉はイエス様がヨハネによる福音書でも引用しています。

  ここでも、イエス・キリストが多くのしるしを行われたのを見ても信じないで、かたくなにしたユダヤ人について語られています。

ヨハネ12:37~40

 「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」」

 イエス様は、ここで、イザヤの時代と同じように、イスラエルが福音を聞いても信じなかったと語っています。

18

「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」

  この「 」で、詩篇19:4をしています。この言葉は、神様の栄光が自然の中にくまなく現されているあらわされていることを歌ったものです。

 この御言葉を引用することによって、イスラエルの民全体に福音が伝えられ、彼らは確かに聞いたはずだと語っているのです。にも関わらず、イスラエルの民はイエス・キリストを信じなかったのです。

  福音を伝えることは、私たちの責任です。しかし結果は神様にお委ねすれば良いのです。御言葉が語られると、その御言葉は決して無駄に終わることはないのです。

 

 スコットランドの田舎の教会で、礼拝が終わった後で、長老たちが牧師と話し合うために残りました。

 長老たちは、牧師が辞任することを希望していると話しました。彼らは、牧師は年を取りすぎていて、職務を満足に果たすことは出来ないと感じていたのです。

 彼らは、自分たちの主張を裏付けるために、会議の席で厳しい質問をしました。

「先生、先生の在職中に何人の人が洗礼を受けましたか?」

 牧師はすまなそうに「私の知っている限り一人です。それも少年でした。」と答えました。

 みんなが帰ったあと、老牧師はさびしい気持ちで教会墓地を歩き回っていました。すると、後の方で、誰かが着物のスソをひっぱったのです。振り返ってみると、彼の働きの実である少年がそこに立っていたのです。

「やー。ロバートくん。何か用かね。」と話しかけると、この少年が真面目な顔で

「先生、ボクは宣教師になりたいと思っています。先生、ぼくが宣教師になるために準備を助けてくださらないでしょうか。」

 今、この教会を去ろうとしていた老牧師にとって、何という慰めだったことでしょう。彼の働きは、無駄ではなかったのです。

 それから、何年か経って、ロンドンのエクセター・ホールという大きなホールで、集会がありました。その大きな建物には、入り口まで聴衆が一杯でした。アフリカから帰ってきたロバート・モファット(1795~1883)が講演をしようとしていたのです。

 彼は、アフリカのクルマンで伝道を始めると、その地の全部族がキリスト教に改宗したのです。それだけではなく、その地方のベチュアナランド語による聖書の翻訳をなしとげ、聖書を自分たちの言葉で読むことが出来るようにしたのです。

 このアフリカの輝ける星となった偉大な宣教師こそが、かつて老牧師の唯一の実となった少年だったのです。

 アフリカ伝道というと、リビングストーンは非常に有名ですが、このリビングストーンは、この少年だった娘の夫です。

 彼の娘の夫となったリビングストーンは、このモファットによって、アフリカ伝道を決心して、アフリカの奥地に福音を伝えたのです。

  一人の老牧師の働きが、一人の少年を救い、その少年によってアフリカにリバイバルの業がなされていったのです。

 私たちが福音を伝えるならば、その労は決して無駄になることはないのです。

 

Ⅰコリント15:58

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

  私たちが、イエス・キリストの愛を伝えることは、決して無駄になることはないのです。

 

18節

「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」

  神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。そして、そのキリストの愛をすべての人が知ることが出来るように、私たち一人一人を、「良い知らせを伝える者の足」として用いていただきましょう。

 

最後に今日の中心の御言葉 15節を読みましょう。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」


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Illustration by c-awase