主日礼拝 3/16

「神の奇しき救いの計画」 ローマ11:1~12

 今日は、武藤博文兄のお証しを感謝します。東日本大震災がなければ、与えられなかった出会いでしたが、神様が、このような素晴らしい出会いを与えて下さったことを心から感謝します。これから、福島での生活もいろいろな戦いがあることと思いますが、同じ主を見上げて、祝福の中を歩ませていただきましょう。

 

今日の中心の御言葉は12節です。

「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 

  9章では、神様はイスラエルを恵みによって選ばれたことが書かれていました。そして、10章では、神の恵みによって選ばれたにもかかわらず、救い主イエス・キリストを信じない、イスラエルの不従順と不信仰が書かれています。

 神様は、全人類のために、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。それにも関わらず、イスラエルの民はその救い主を受け入れようとはせず、ファリサイ派の人々や律法学者は、イエス・キリストをねたみ、十字架につけて殺してしまったのです。

 

 神のひとり子を十字架につけたような罪を犯した、イスラエルの民は救われるのでしょうか。それが、今日の聖書の箇所の大きなテーマです。

 

 今日の聖書の箇所から3つの事を学びたいと思います。

 

(1)イスラエルの民に与えられる救いの恵み

1節

「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」

  神様は、御自分で選ばれたイスラエルの民が、不柔順で不信仰だからといって、彼らを見捨てられたのでしょうか。

 その問いに対して、パウロはちゅうちょなく「決してそうではない。」  と答えています。そして、自分自身を例に挙げています。「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」

  パウロは、イスラエル人で、アブラハムの子孫で、ベニヤミン族の者でした。そして、旧約の神こそが本当の神で、十字架にかかりよみがえられたイエス・キリストを信じているキリスト者は、神を冒涜する者だといって、キリスト者を迫害し、滅ぼそうとしていたのです。

 パウロは、そんな罪深い私でさえ、救われて今は、イエス・キリストの愛を伝える者と変えられたのですから、神様は、イスラエルの民を見捨てられるようなお方では、決してありませんと言っているのです。

 

 イザヤ49:15~16

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

  ここには、「女が乳飲み子を忘れることがあろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないことがあろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたがたを忘れることは決してない。」と神様のイスラエルの民に対する絶対的な愛が記されています。それも、「あなたを、手のひらに刻みつける。」というのですから、神様の愛の確かさが現されています。

 神様は、神様が選ばれたイスラエルの民を決して忘れるような方ではありません。自分の手のひらに、私たちの名前を刻みつけるほど、確かな愛をもって愛しておられるのです。

 

 その具体的な例として、パウロは自分のことと比較してエリアのことを上げています。

2~4節

「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」

 

 このエリアのことは列王記上18~19章に書かれています。

 エリヤは、バアルの預言者と戦って、勝利を得ますが、王妃イゼベルによって命を狙われると、一人でホレブの山に逃げ孤立してしまいます。そして、この世に自分以外にまことの神様を礼拝する者はいないと考えたのです。

 しかも、エリアはバアルの預言者によって命を狙われていましたが、自分が殺されてしまったら、もはや神様を礼拝する者は誰もいないと考えていたのです。

 ところが、神様は生きておられます。神様はエリアにこう語られたのです。

列王記上19:15

「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

  まことの神様を信じる者は、自分以外にいないと孤独に悩んでいた、エリアにとって何と心強い言葉だったことでしょうか。

 パウロは、その御言葉を引用して、4節で「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」と確信をもって語っているのです。

  それは、今の時代も同じです。イスラエル人の中で、イエス・キリストを信じてるクリスチャンは2%にも及びません。

 ユダヤ人は、神の御子であるイエス・キリストを十字架で殺しましたが、神様は、イスラエルの民を見捨てられることはないのです。

 神様は昔も今も、イスラエル人も異邦人もすべての人が救われるように、パウロやエリヤ、そして、神を信じる7000人を備えて下さっているのです。

 

(2)心かたくななイスラエルの民

7~8節

「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。」

  イスラエルの民は、神の御前に立つ資格として、行いによって、点数をかせごうとしましたが、結局行いによっては救われませんでした。

 その結果、少数の者だけが、行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われましたが、他の者たちは、心を閉ざしてしまいました。心も、目も、耳も、神様との関係において何の役にも立たなくなってしまったのです。

8節は、イザヤ書29:9の引用です。

 そして、9~10では、詩編69:21~27の御言葉を引用して、

「ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」と言っています。

  この呪いとも思えるような御言葉は、実は、イスラエルの民が行いによって救われることはないことを現しています。

 「食卓」というのは、地上の繁栄を現していますが、それは、「罠」「綱」「つまずき」となって返ってきます。

 それは、戦後の日本を表しているような気がします。戦後日本は、経済大国を目指して歩んできました。その結果、経済的には繁栄しましたが、それで本当に幸せになったのでしょうか。

 

 去年の9月の国連によるアンケートによると、世界で最も幸せな人が住む国は、ヨーロッパに一番多く、1位はデンマーク、2位はノルウェー、3位はスイスでした。ちなみに、アメリカは17位、そして、アジアでは、シンガポールがトップで30位、タイが36位。その後、韓国41位、台湾42位、で日本は何と43位でした。そして、今一番経済成長している中国は93位です。これを見ると、人の幸せというのは、冨によるのではないことが解ります。

 それでも、日本人は、経済に救いを求めて、歩み出そうとしています。

 どうして、経済大国である日本に幸せを感じる事が出来ないのでしょうか。それは、神様との交わりの道、神様と心や、目や、耳が閉ざされて、イエス・キリストにつまずいているからです。

 

 それでは、どうすれば良いのでしょうか。

 パウロはその答えを12:2でこう答えています。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

  自分の力やこの世の冨やものによるのではなく、「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」という主の御言葉に従うことです。そこにこそ本当の幸せがあるのです。

 

(3)神の奇しき救いの計画

11~12節

「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 

  イスラエルが、心を奪われ、目を奪われ、耳を奪われたことは、わざわいというよりは、むしろ恵みでありました。

 「禍を転じて福となす。」という言葉がありますが、イスラエルの民が、心をかたくなにしたことによって、その救いの業は異邦人に広がっていきました。それには、神様の御計画がありました。それは、異邦人が救われる姿を見て、イスラエルの民にねたみを起こさせて、イスラエルの民も救いの恵みに与らせるためでした。

 ここに「神の奇しき救いの計画」があります。神様の御計画は、人間の道順をたどりません。神様の計画は、他の方向へ向けられていったのです。

 

12節

 「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 

 パウロにとって、イスラエルが罪を犯すことも、失敗することも、嬉しいことではありませんでした。しかし、神様はこれらのことを「世の富」「異邦人富」とされたのです。さらに、素晴らしいのは、その異邦人の救いを通して、一歩進んで、イスラエルの民全部を救いに与らせて下さるなら、どんなに素晴らしいことでしょう。

 この世のどんな職業も、民族も、肌の色も差別せず、すべての人が救われることが、パウロの祈りであり、心からの願いでありました。そして、それこそが、神様の心からの願いなのです。

 

 東日本震災から3年が過ぎました。3/11には、各地で追悼記念の集会が行われました。私は刑務所の「キリスト教集会」に行っていましたので、特別な集会に出ることは出来ませんでしたが、その日、山形刑務所の「キリスト教集会」でも、黙祷をささげ、祈りの時を持ちました。

 3年前のあの東日本大震災の後、被災を受けた聖教団宮城聖書教会の、田中時雄先生からいただいた葉書を思い出しました。その葉書には、小さな字でその時の状況が詳しく書かれていました。

 田中時雄先生は、あの地震が起こった日、自治会長をしておられたので、車に乗って「津波がやって来ます。すぐに避難してください。」と町内会の人たちに呼びかけておられたそうです。ところが、その内津波がやって来て、教会の一階部分が津波の被害に遭いました。一度は、津波の中を胸までつかって逃げようと思ったのですが、冷たくて、心臓が苦しくなったので教会に帰りました、そして、先生の家族は教会の二階で、電気もガスも水もない中で生活をし、4日経って自衛隊に救助されたそうです。

 先生の家族はそのまま、避難所に連れて行かれました。そこには、家族を失った方や、家毎流されてしまい、帰る家もない人たちが大勢いました。

 4日も経って入りましたから、体育館は人でいっぱいです。300人程の人たちが非難していましたが、先生たちに割り当てられた場所は、入り口の一番風の当たる寒い場所でした。出入り口なので、人が出入りする度に冷たい風が入って、なかなか眠るのも大変でした。

 ところが、みんなが、先生家族の横を通っていきます。そして、ペットの犬も一緒だったので、「かわいいですね」とか、「なんていう名前ですか」と話しかけてきます。これまでは、みんなと話す機会はあまりなかったのですが、そのようにして、避難所の人たちと仲良くなることが出来たのです。

 25年間その地で、伝道をしてこられたのですが「私は教会の牧師の田中です」とみんなに言う機会はありませんでした。ところが、この3日間で300人の人たちに、自己紹介をし、教会の話をし、中には「どうして、教会の牧師になったのですか。」と聞いてくる人もいたので、救いの証しや献身の証しまですることが出来たというのです。

 

 この大震災が起きなければ、そのように先生が福音を伝える機会は与えられなかったのです。この大震災を通して、いろいろな教会が、新聞やテレビで教会が取り上げられ、宣教の業が進められてきました。

 

 神様の御業は、私たちの考えを超えています。そして、様々な出来事を通して、すべての人が救われるように御業を進めておられるのです。

12節

 「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 

  ユダヤ人も異邦人も、すべての人が救われることが神様の御心です。

そのことがⅠテモテ2:1~4にはっきりと書かれています。

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」

 

  神様の御心は、すべての人々が救われて真理を知るようになることです。そのために、私たち一人一人を用いていただこうではありませんか。

 

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Illustration by c-awase