今日は富沢裕美さんのお証しを聞くことが出来、本当に感謝です。裕美さんはエルシオンの結婚式を通して救われ、キリストにつながる者とされました。そして、まだ、5ヶ月ですが、受付やホサナの教師として、また家庭の中で豊かな実を結んでおられる証しを伺い本当に感謝です。
今日は、ローマ11:22の御言葉を中心に「神の慈しみにとどまる」という題で御言葉を取り次がせていただきます
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
今日の聖書の箇所は、パウロがユダヤ人と異邦人の関係を書いているところです。 パウロ自身はユダヤ人でしたが、異邦人に対して福音を宣べ伝えました。そして、異邦人の中から救われる魂が起こされたのです。そして、パウロの心からの願いは、その異邦人の救いを通して、同胞であるユダヤ人が救いの恵みに与ることでした。
その、ユダヤ人と異邦人の関係について、4つのことをお話ししたいと思います。
(1)行いによる信仰の実
13~16
「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」
パウロは、異邦人が救われることによって、同胞であるユダヤ人たちがねたみを起こして救われることを願っていました。
そのために、異邦人たちが、イエス・キリストを信じる信仰を心と生活で証しをすることを心から願っているのです。
私たちも、イエス・キリストを信じる信仰を生活の中で証しをする者でありたいと思います。
アメリカのある軍隊で起きた証しを読みました。
戦場で兵士が負傷しました。その軍隊には、従軍牧師がいて兵士の牧会をしていました。その従軍牧師が、負傷した兵士を見ると、すぐに彼の所にほふく前進で這っていき、できる限りのことをしました。その牧師は、軍隊が退却した後も、負傷兵と一緒にとどまりました。日の照る真昼には自分自身も乾ききっているのに、自分の水筒から彼に水を飲ませました。夜、寒い霜が降りてくると、負傷兵を自分のコートで覆って体を温めました。そして、最後には、自分自自身を寒さから守る衣類を脱いで、彼を包んだのです。
すると、この負傷兵は、従軍牧師を見上げて言いました。
「あなたは、クリスチャンですね。」彼はこう答えて「そうであろうと努めています。」
負傷兵は「もしクリスチャンが、今、あなたがわたしになさったように他人のために行うのであれば、わたしにキリスト教を教えて下さい。わたしもクリスチャンになりたいのです。」と言ったそうです。
負傷兵が、クリスチャンになりたいと心から思ったのは、生活の中で生きているキリスト教の信仰でした。
異邦人が、キリスト教の信仰を心と生活で表したことを見て、いつかはユダヤ人が心動かされて、キリスト教を求めるようになることこそが、パウロの祈りであり、希望であり、幻でした。
私たちも、イエス・キリストを信じる信仰を、生活の中で証しをさせていただきましょう。
(2)ユダヤ人と異邦人の譬え
パウロは、16~21で、3つのたとえを用いて、ユダヤ人と異邦人の関係を書いています。
16節
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
16節には、二つのたとえが書かれています。
①麦の初穂と練り粉のたとえ
すべての食べ物は、食べる前に神様にささげられなければならないことが律法で定められていました。
ところが、麦粉の練り粉を献げようとする時、麦粉の初穂をささげれば、練り粉全体がきよいものと認められたのです。ですから、すべての練り粉をささげる必要はなかったのです。初穂のささげものは、全体をきよめたのです。
そのように、選民イスラエルが選ばれたことによって、イスラエルが祝福の源となったのです。
しかし、律法によっては人は救われませんでした。ユダヤ人は律法を守ることが出来ず、ついには、神様がこの地上に送って下さった独り子を十字架につけてしまったのです。
そして、その独り子であるイエス・キリストが、初穂として十字架で死んで下さったのです。
ヨハネ12:24でイエス様はこうおっしゃっておられます。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
一粒の麦は、地に落ちると、その麦は死んでしまいます。しかし、その種の栄養分を吸収して、根が出て、芽が生えて、やがて、豊かな実を結ぶのです。そのように、イエス様は、十字架で命を捨ててくださって、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。
②聖なる根です。
「根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
神様にささげた土地に、聖なる根を植える時も同じことです。小さな木の苗が植えられると、それは、神様にささげられたものでなければなりませんでした。そして、その苗から伸びた木や枝は、すべて神様にささげられたものとなったのです。そして、その木や枝がすべて献げられる必要はありませんでした。苗木がささけられたことは、木全体をきよいものとされたのです。
パウロは、このようなたとえを用いて、聖なる根として、アブラハム、イサク、ヤコブを選ばれた主は、聖別された根が、木全体をきよくするように、イスラエルの民の特別な聖別は、民全体をきよめられたものとするのだ言っているのです。
私たちも、みんな過去の霊的遺産によって生きています。
みなさんは、どのようにして教会に来られたでしょうか。私みたいに親がクリスチャンで、教会に一緒に来た方もおられるでしょう。また、家族や友人に誘われた方、キリスト教の本やチラシによって来られた方、その導かれ方は様々でしょうが、誰かによって信仰を持つことができたのではないでしょうか。
そして、その信仰は、旧約聖書の時代から受け継がれ、救いの業はイエス・キリストの十字架と復活によって完成しました。そして、その福音がエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てまで伝えられて、今私たちも、この素晴らしい救いの恵みに与っているのです。何と素晴らしい恵みでしょうか。私たちも聖なる根につながっている枝です。その枝を伸ばして、一人でも多くの方々にこの福音を伝えさせていただきましょう。
③オリーブの木
18~20には、3つめの譬えが書かれています。
「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」
オリーブの木は、地中海領域では、もっとも良く用いられている木です。預言者たちは、イスラエルの民をオリーブの木に譬えています。
何カ所か、開いてみたいと思います。
エレミヤ11:16a
「主はあなたを、美しい実の豊かになる/緑のオリーブと呼ばれた。」
ホセア14:7
「その若枝は広がり/オリーブのように美しく/レバノンの杉のように香る。」
オリーブの木に野生のオリーブの木が接ぎ木されました。丈夫な根に接ぎ木された枝は、すくすくと成長していきます。そのように、イスラエルの信仰と恵みの歴史が異邦人を守ります。
そして、まことの根は、イエス・キリストです。ユダヤ人も異邦人も、契約の成就であるイエス・キリストと結ばれて実を結ぶので、誇るべき事は何一つありません。救いは、神様から与えられた一方的な賜物です。
私たちの救いの根は、イスラエルの民です。そのユダヤ人がどうして折り取られてしまったのでしょうか。ユダヤ人が折り取られたは、彼らの不信仰によるものでした。
彼らは、神様が独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったにもかかわらず、救い主を信じて受け入れようとはしませんでした。それどころか、独り子であるイエス様を十字架につけてしまったのです。その不信仰の結果、聖なるオリーブの木から折り取られてしまったのです。
イエス様はヨハネ15章で、ブドウの木の譬えを語られています。
ヨハネ15:1~5
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
この譬えでは、神様が農夫で、イエス様がブドウの幹、私たちはその枝に譬えられています。
ここに豊かな実を結ぶ秘訣が書かれています。それはここに何度もイエス様が語られているように、ブドウの幹であるイエス様に「つながる」ことです。ブドウの木は、幹につながっているならば、栄養分を根から吸収して豊かな実を結びます。しかし、ブドウの木がブドウの幹から離れてしまったら、その枝は実を結ぶ事が出来ないばかりか、枯れて捨てられています。
それでは、どのようにして豊かな実を結ぶ事が出来るのでしょうか。
Oそれは、まず御言葉と祈りに生きることです。7節には
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」 と書かれています。
Oそして、愛の源であるイエス様にとどまり続けることです。
9~10
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
御言葉を心の内に蓄え、望みごとをイエス様に申し上げましょう。そして、愛の源であるイエス様にしっかりとつながって、豊かな実を結ばせていただきましょう。
(3)神の慈しみと厳しさ
22節
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
ここに「神の慈しみと厳しさを考えなさい。」とあります。神様は、決して変わることのないとこしえの愛のお方です。また、それとは逆に義のお方で、罪に対しては一点の罪も赦さない聖いお方です。
「たての両面を見よ」ということわざがあるそうです。
昔、二人の騎士が一つのたての中に置いて「これは金のたてだ」「いや、銀のたてだ」と言い争い、はては剣を抜いて切り合いを始めたのです。ところが、馬に乗って戦っている内に、場所が入れ替わると、そのたては、一方が金で、もう一方が銀だということが分かったという話しです。
私たちが、神様を見る時も同じです。神様は、愛のお方で、どんな罪人でも、悔い改めてイエス・キリストを信じるならば、救いに与ることが出来ます。
しかし、その一方では、神様は聖なるお方で一点の罪も赦されない議のお方です。ですから、神様が聖なる方であられるように、私たちも聖くなければならないのです。
Ⅰペトロ1:15~16
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。」
とあるとおりです。
それでは、どうすれば、私たちが聖くあることが出来るのでしょうか。その秘訣が22節に書かれています。
「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
神の慈しみにとどまることです。言い換えるならば、キリストにつながり、聖霊に満たされることです。そうすれば、神様は、私たちを愛に満たして下さり、聖い器として用いて下さるのです。
(4)すべての者の主
最後にパウロは、ユダヤ人について語っています。
23~24
「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」と言っています。
イエス・キリストを十字架につけ、キリストを信じる者を迫害するようなユダヤ人でさえ、キリストに接ぎ木された救われる、神様には、それがお出来になるというのです。
そして、異邦人でさえ、救われてイエス・キリストと接ぎ木されたのであれば、元から、オリーブの木の枝であったユダヤ人は、「どれだけたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」とユダヤ人の救いについて語っているのです。
私たちの主は、異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、救い主です。そして、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、私たちはキリストという幹につながり、神様の慈しみに与ることが出来るのです。
今日は、母の日ですが、一人のお母さんの証しを最後にしたいと思います。
このお母さんは、潔癖症と言ってもいいくらいきれい好きで、汚いところには、決して近寄ることの出来ない人でした。
ところが、その姉妹が、50歳を過ぎて、都心のホームレスの人が多くたむろする教会で救われたのです。ホームレスの人を見ながらも、避けるように教会に通っていました。
ある日のことです。いつものように教会に向かって歩いていると、酒に酔って暴れている男の人がいました。彼はは、汚物にまみれて、悪態をついていたので、誰もが彼を避けて通っていました。ところが、その男の人の方を見てみると、誰が置いたのか、一輪の花がさしてある小さなガラスの瓶が置いてあったのです。
彼女は、その美しい一輪の花に吸い寄せられて「ここにイエス様がおられる」と感じたのです。
彼女は、すぐに教会に行って毛布を一枚つかむと、急いで引き返し、その男の人のそばに行って、毛布を差し出しました。すると、恐ろしい形相で暴れていた男の人がキョトンとした顔をして、彼女から毛布を受け取ったのです。
彼女は、汚いその場所に座って、福音を伝えました。不思議なことにあんなに暴れていた男性は、彼女が語っている間静かに耳を傾け、最後に彼女と一緒に、イエス・キリストを受け入れる祈りをささげたのです。
その時に、彼女は「汚い」と目をそむけ、避けていたこのような人でさえ、神様は愛しておられるのだと知りました。すっかり変えられた彼女は、それから多くのホームレスの人のために祈り、彼らを救いに導くようになりました。
神様は、すべての人の救い主です。
そして、どんな人でも、不信仰を悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、救われて、キリストとつながる事が出来るのです。
22節を最後にお読みします。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」
イエス・キリストは、私たち異邦人にとつても、ユダヤ人にとっても、すべての人の救い主です。不信仰を悔い改めて、イエス・キリストを信じ、しつかりと、神の慈しみにとどまって、豊かな実を結ぶ者とさせていただきましょう。
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