今日は、菊田恵子姉の証しを伺うことができ、感謝です。
実は、菊田恵子さんは、いろいろ悩みがあった時に、この御主人に「教会に行ったらいい」と言われて、教会に初めて来たのです。イエス・キリストを信じて救われて、喜んで教会に来ておられましたが、ある時から仕事が日曜日だということもあって、しばらく教会にこれなくなってしまいました。この素晴らしいクリスチャン恵子さんでさえも、神様から離れてしまった時があったのです。
しかし、神様の愛は変わらず、決して恵子さんを見捨てられませんでした。やがて、恵子さんは、その主の愛の招きに応えて、教会に帰ってこられました。そして、今では、教会の役員として、ホサナの校長先生として、また日曜日の昼食係としてなくてはならない存在となられ、心から感謝しています。
今日の中心の御言葉は、29節です。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
「神の賜物と召しとは、変えられることがない。」(口語訳)
イエス・キリストによって救われた者は、決して賜物と召しは変わることがないのです。
11章でパウロは、イスラエルの民の救いについて語ってきました。そして、その結論が今日読んでいただいた、25~36節に書かれています。
この聖書の箇所を3つに分けてお話しをしたいと思います。
(1)イスラエルの回復
イスラエルの歴史は、神様が彼らを選び、エジプトから救い出し、共にいて祝福してくださったにもかかわらず、神様に背き、罪を犯し続けました。それが、旧約聖書の歴史です。
しかし、それにもかかわらず、神様はイスラエルの民を愛し続け、神の独り子であられるメシア(救い主)をこの地上に送って下さいました。しかし、彼らはその救い主をも受け入れず、民衆がイエス様を救い主として迎入れようとしている姿に、心をかたくなにしてねたみを起こし、ついには、イエス・キリストを十字架につけてしまったのです。
では、これからイスラエルの民はどうなるのでしょうか。イスラエルの民は神様から見捨てられたのでしょうか。
パウロは、11:1でこう言っています。
「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」
パウロは、ここで神は御自分の民を退けたのであろうか。決してそうではない。と語意を強めて語っています。
それでは、イスラエルの民はどのようにして救われるのでしょうか。
その奥義が、25~27節に書かれています。
「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」
まず、パウロは異邦人に対して「自分を賢い者とうぬぼれないように」と戒めています。この言葉は「知ったかぶりをしないように」という意味です。自分たちだけが救われて、イスラエルの民を軽蔑したり、見下げたりすることのないようにと言っているのです。
そして、パウロは大切な「神の秘められた計画」を異邦人に伝えます。
新共同訳聖書では「秘められた計画」と書かれていますが、新改訳や口語訳聖書では「奥義」と訳されています。
この言葉は、英語の「ミステリー」という言葉が出来た「ムステーリオン」というギリシャ語が語源です。
この「ムステーリオン」という言葉は、人間の自然の能力には隠されていますが、神様の啓示によって、見ること、また聞くことを表しています。
その神様の「秘められた計画」「奥義」が、25~26節に書かれています。
「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」
神様の御計画は、私たちの考えをはるかに超えた、壮大な「秘められた計画」です。
神様は、イスラエルの民が心をかたくなにして救い主を信じなかったため、福音は異邦人へと伝えられました。そして、異邦人がイエス・キリストによって救われて、ローマの教会が建てあげられたのです。しかし、パウロは、それで終わりではなく、イスラエルの民がこのようにかたくななのは、異邦人全体が救われる時までで、異邦人全体が救われた時、全イスラエルが救われるというのです。
神様は、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われることを願っておられるのです。
イエス・キリストの十字架には、すべての人を救う力があります。
内村鑑三は、日本で有名なキリスト者の一人でしたが、彼にはキリスト者としての悩みがありました。
内村鑑三は、23歳の時アメリカに渡り、アメリカでキリストの伝道者になることを決心しました。新島 襄の勧めで、彼は、アーモスト大学のシーリー先生にお世話になることになりました。
内村鑑三は、何年も前からあることで悩んでいました。そのことに気がついたシーリー先生は、ある時、彼を呼び出して、彼の抱えている悩みについてたずねました。
内村鑑三は、「わたしは、講演で神の愛を説教しながらも、通っている教会の冷たい人間関係を苦々しく思ったり、街でスリにあって憤慨したり、心の中がちっともきよくないことで自分を責めていました。内村は、聖書を読んでも、祈ってもきよくなれなません。」と、シーリー先生に打ち明けました。
シーリー先生は、内村鑑三に尋ねました。
「もし、鉢植えの花の成長を見たいために、水をやってから毎日根を掘り返したら、花はどうなりますか?」
内村は、「枯れてしまいます」と答えました。
シーリー先生は、内村がきよくなりたいあまり内面ばかり見つめて、自分の罪を見つけては失望していることを指摘しました。
そして、シーリー先生は、一枚の十字架に掛られたイエスの絵画を指差して言ったのです。「神は君の罪を赦そうとしておられるのに、君は罪を赦していただこうとしない。君は、自分の罪ばかりを責めている。主イエスを見上げなさい。」
内村はこのとき本当の罪の赦しを悟ったのでした。
ヨハネ3:14~16をご覧ください。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエスさまは、ご自分をこの青銅の蛇にたとえられました。それは、自分の傷、罪、弱さを見続けるのではなく、十字架につけられた主イエスを見上げる、すべての人が癒され、聖潔られるためでした。
ユダヤ人は、律法による行いによって救われると信じて、自分の姿や人の姿を見ていましたが、そこには救いがありませんでした。
しかし、イエス・キリストを信じるものは、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われるのです。
神様の御計画の中に、異邦人の救いだけではなく、ユダヤ人の御計画も含まれているのです。何と、壮大な御計画でしょうか。
(2)取り消されない神の賜物と招き
28~29節
「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
福音というのは、律法による行いによって救われるのではなく、ただイエス・キリストを救い主として信じる信仰によって救われるという一方的な神様からの恵みです。
しかし、ユダヤ人はその福音に躓いて、ユダヤ人は異邦人を迫害するようになったのです。
ユダヤ人は、初代教会を迫害し、キリスト者を迫害することによって、神様と敵対するようになってしまいました。
しかし、神様は、アブラハムをはじめ、先祖たちと契約を結ばれて、イスラエルを選民として立てられました。神様は、御自分が選ばれた民に対して、その愛を取り消されるようなお方ではありません。
28b~29節でパウロはこう言っています。
「神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
神様から、選ばれた民は、決してその愛から漏れることはありません。29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」と書かれている通りです。
私が、山形南部教会に遣わされて、26年になります。その間に救われて洗礼を受けた受洗者は、66人です。その中には、引っ越して別の場所で良い証しをしておられる方もおられますが、多くの人が教会から離れてしまいました。
私は、牧師として、自分の愛のなさや無力さを感じます。そして、主の御前に悔い改めなければならないと思っています。
しかし、今日の御言葉には、素晴らしい約束が書かれています。
29節
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
イエス様は、その一人一人を命を捨てて救って下さったのです。命がけで救って下さった一人の魂を決して見捨てられることはないのです。
30~32節にはこう書かれています。
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
神様は、かつては不柔順であった異邦人を救って下さいました。その神様は、ユダヤ人をも決して見捨てられず、愛しておられます。神様はすべての人を憐れんでおられ、救われることを願っておられるのです。
先程、菊田恵子さんのことをお話ししましたが、菊田恵子さんだけではなく、今教会を離れておられる方の中にも、連鎖祈祷日には、一緒に祈っておられる方がおられます。また、久しぶりにお会いすると、「私は、毎晩夜寝る時は、娘と祈っています」と話してくださった方もおられます。また、病気のために教会に来られなくても、主は共にいて下さって、お守り下さっているのです。
29節
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
神様は、一度救われた者を、決して見捨てられず、弟子たちを愛し抜かれたように、一人一人を愛し抜いてくださるお方なのです。
今日招詞でへブライ人への手紙13:5(P419)が読まれました。
「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。」
神様は 「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と約束して下さっています。この神様の愛がある限り大丈夫です。その御手にお委ねして、もう一度、教会を離れている方々がイエス様の元へ立ち返るように祈り続けましょう。
(3)栄光の主なる神
33~36節は、頌栄です。
パウロは、異邦人の救いと、ユダヤ人の救いという大問題を、ローマの信徒に向けて書いた後、神様に賛美をささげずにはいられなかったのです。
33~35節
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
「」の御言葉は、イザヤ書40:13~14、の引用です。
イザヤ40:13~14
「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」
神様の知恵と知識は底知れず深く、神の定と、神の道を理解し尽くせる者は誰一人いないのです。
万有引力の発見で有名なイギリスの大科学者、アイザック・ニュートンにはこのような逸話があります。
ある時、ニュートンは機械技術者に太陽系の模型を作らせました。
その模型は、歯車とベルトの仕掛けで各惑星が動くという、とても精巧なものでした。
ニュートンが部屋で読書をしていた時、一人の友人がやって来ました。
彼は無神論の科学者でしたが、その模型を見つけると、それについているハンドルをゆっくりと回しました。
すると模型の各惑星がさまざまな速度で太陽の周りを回転するのでした。
それを見た彼は驚いて「すばらしい。実に見事だ。これは誰が作ったんだい」と尋ねました。
ニュートンは振り向きもせず「誰でもないさ。偶然に、ひとりでにできたのさ」と答えました。
すると友人はやや興奮して「ニュートン君、ばかにしないでくれ。こんな精密なもの、誰かが作ったに決まってるじゃないか」と言いました。
ニュートンは本をかたわらに置き、イスから立ち、友人の肩に手を置いてこう告げました。
「造り主なる神様だよ」
また続けてこう言いました。
「これは、壮大な太陽系の粗末な模型でしかない。
この単なるおもちゃが設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても君は信じない。ところが君は、本物の壮大な太陽系が設計者も製作者もなく出現したという。いったいなぜそんな不統一な結論になるのか、説明してくれたまえ」
このようにしてニュートンは、宇宙を創造された方がおられるということを友人に納得させたのです。
「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)
私たちが出来ることには、限りがあります。ニュートンが、太陽系の模型を造りましたが、その模型と、本物の太陽系とは、比べようがありません。神様は、この太陽系を造られたお方です。そして、銀河系にはこの太陽系のような宇宙が一億個以上、そして、宇宙にはその銀河系のような宇宙が一億個以上あると言われています。その宇宙のすべてを造られ、支配しておられるのが、私たちの神様です。
そのように、私たちの知恵や知識には、限られたものです。しかし、神様の救いの御計画は、壮大で私たちには知り尽くすことが出来ないほど、素晴らしいものです。その主の御計画を覚えながら、心から主を賛美いたしましょう。
最後に36節を一緒に読みましょう。そして、私たちの祈りとしておささげしましょう。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」
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