主日礼拝 6/15

「神によろこばれるいけにえ」 ローマ12:1~2

 今日は、父の日に川上義也兄のお証しを伺い感謝します。川上義也兄のお父様長一さんが、信仰を持つことによって、今、この子どもたち、また、孫の代までその祝福が広がっています。そして、その祝福は、更に豊かに子々孫々へと受け継がれていくことでしょう。

  私の父が、「私には父親として、何も残してやるものはないけれども、イエス様を伝えることができたことは、最高の財産だった。」と言った事がありました。私も、父親として子どもたちや孫たちに、受け継ぐものでありたいと思わされました。

 

 数学者であり神学者であるパスカルがこう言いました。

「人間には、神でしか埋める事のできない心の空洞がある。」

 神様は、私たち人間を、神様と交わりを持つために創造されました。ですから、人が神様を求め、神様を礼拝する事はごく自然な事です。

 そして、パスカルが言っているように、私たちは神様に礼拝をささげる事によって、私たちの心の空洞は満たされるのです。だから、私たちにとって礼拝は命なのです。

 

今日の中心の御言葉は1節です。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

  このローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙ですが、この手紙は大きく二つにわれる事が出来ます。1~11章は、教理的な事で、福音の豊かさが書かれています。そして、12~16章は、救われたクリスチャンの実際的な生活について書かれています。

 パウロは、その実践的なことを語りはじめる一番最初に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言っています。

 パウロは、1~11章で、イエス・キリストの十字架と復活について語り、人間の行いによって救われるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるという一方的な神様の恵みについて書いています。

  そのように神様に愛され、一方的な恵みが注がれているのだから「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言って大切なことを命じているのです。

神様の一方的な愛と恵みを土台として、礼拝をささげるのです。

ローマの信徒への手紙12章1~2節から、3つの事を学びたいと思います。

 

(1)聖なる生けるいけにえとして献げる礼拝

  今日の中心の御言葉は1節です。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

  礼拝とは、私たちの罪を赦し、一方的な愛を注いでくださる神様に、感謝と賛美をささげる事です。

1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」とあります。

  イエス様が、救い主としてこの地上に来られるまでは、イスラエルの民は、礼拝の時に生きた動物を神様にささげていました。自分たちが犯した罪を赦していただくために犠牲として、動物を供え物にしたのです。

 しかし、イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、御自分の体を神様への供え物としてくださいました。

 ですから、私たちは礼拝の時に、このイエス様に感謝と賛美をささげるのです。

 イエス様の十字架によって救われた私たちは、新しい命が与えられたので、もう自分自身のものではありません。私たちを心から愛してくださる神様のものとされたのです。礼拝の度毎にこのことを思いだし、私たちの生涯を神様におささげするが大切なのです。

それが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」るということです。

 そして、その礼拝は「生けるいけにえ」でなければなりません。

 言い換えると、礼拝は、生きた生活そのものでなければならないのです。

 礼拝とは、教会の礼拝プログラムだけを意味しているのではありません。

詩編113:3をご覧下さい。

「日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように。」とあります。これは、「朝起きた時から、夜寝る時まで、主の御名が賛美されるように」と読むこともできます。

 また、太陽は、東から昇って、西に沈みますから、東から西まで、全地で主の御名が賛美されるように」という意味でもあります。また、私たちの人生の最初から最後の一息まで主の御名が賛美されるようにというふうにも読めるのではないでしょうか。

 礼拝は、人生の一部ではなく、人生そのものなのです。

 神様に用いられた器は、仕事場や家庭に置いて、また戦場や獄中でも神様を賛美していました。また、床についてからでも神様を賛美していたのです。賛美は、私たちが目を覚ました瞬間から、夜の活動を終えて目を閉じる瞬間までささげられるべきものです。

 私たちのあらゆる活動は、賛美と感謝をもって行われる時、礼拝となります。

 マルチン・ルターは「牧場で働く者は、神の栄光のために乳搾りをするのだ。」と言いました。

 それは、私たちの生活全てに当てはまるものではないでしょうか。「勉強をする者は、神様の栄光のために勉強をするのだ。」「仕事をする者は、神様の栄光のために仕事をするのだ。」「家事をする者は、神の栄光のために家事をするのだ。」

 そして、神様の栄光のためになされる全ての事は、神様への礼拝なのです。

 それでは、神様の栄光のためにするには、どうすればいいのでしょうか。

 それは、全ての事を主イエス様のためにするように行う事です。

コロサイ3:23(P372)をお開き下さい。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい。」とあります。

 主イエス様に対してするように、全ての事を行うというのが、生き方を通して主を礼拝する秘訣です。今取り組んでいる仕事を神様へのささげものとして、神様の御臨在を意識しながら、心から行うなら、その仕事は礼拝となるのです。

 今日は、父の日ですが、心から妻に恋をした一人のお父さんの証しをしたいと思います。

 リックウォーレンが、こんな御自分の証しを書いておられます。

 先生が、初めて奥さんに出会った時、一目惚れをしてしまいました。その時以来、いつでも、彼女の事を考えるようになってしまったそうです。朝ご飯食べている時も、車を運転している時も、スーパーマーケットのレジで自分の番を待っている時も、ガソリンスタンドでも、彼女の事を想い、一時も忘れる事が出来ませんでした。

 さらには、彼女のことを独り言で言ったり、彼女の好きなところを考えては胸がいっぱいになりました。

 ですから、何マイル離れていても、また別の学校に通っていたにも拘わらず、先生は、いつも奥さんと一緒にいるように感じていたそうです。

 先生は、このことを「私は彼女に夢中になっていたのです。そして、それが礼拝なのです。すなわち、主イエスと恋に落ちるいう事です。」と締めくくっておられます。

 彼女の夢中になると、いつでもどこでも彼女の事を考え、彼女のために何でもしようと思います。それと同じように、主イエスと恋に落ちるなら、いつでもどこでもイエス様の事を考え、全ての事を主の栄光のために行おうとするのです。それが、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」です。

 主イエス様と恋いにおちいり、主日礼拝から始まる、毎日の生活の中で「神に喜ばれる聖なる生ける礼拝」をおささげしましょう。

 

(2)この世に倣ってはならない

2節

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

ここに、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」  と書かれています。口語訳聖書では 「あなたがたはこの世と妥協してはいけません。」と訳されています。

  私たちは、日曜日に礼拝をささげますが、月曜日から土曜日までは、学校や家庭や職場などこの世で生活する事になります。

 そして「この世」では、サタンが何とか、私たちを神様から遠ざけようと、あらゆる手を尽くして誘惑してきます。そのような生活の中で、「この世に倣ってはいけない。」

「この世と妥協してはならない」と言っているのです。

  西洋のことわざに、「悪魔はしばしば4つの言い訳をもって人を惑わす。」

第一に「これは小さな事だから」

第二に「誰でもすることだから」

第三に「まだ、若いから」

第四に「たった一度だけだから」というのがあるそうです。

 私たちは、このような誘惑に負けてしまって、つい周りに合わせてしまう弱さがありますが、それは神様の御心を悲しませてしまう事なのです。この世に倣う生活をすると、この世のできごとや人の意見に影響されて、神様の御心を行う事が出来なくなってしまいます。

 そのような誘惑についてパウロは2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と言っています。神様が何を求めておられるかを知って、それにしっかりと従う事、これが、神様が私たちに望んでおられる事です。

 そして、誘惑にあった時、私たちが出来る最善の策は、神様の助けを求める事です。

詩編50編14~15節(P883)

「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前は栄光を輝かすであろう。」

 誘惑を受ける時、神様を呼ぶ事です。そして、神様に心から依り頼むのです。そのように主に依り頼む時、私たちの信仰は、強められていきます。

 

 ある男の子が、集団でいじめにあいました。ある男が「家から、お金を持って来いというのです。」仕方なく、家の方に行くと、彼らも付いてきました。しばらく歩いて、玄関の前に着くと、急にそのいじめっ子たちが、おどおどし始めて、後すがりし始めたのです。

 何が起こったのか、最初、その男の子には解りませんでした。そして、ふと前を見ると、たくましい筋肉隆々のお父さんが、そこに立っていたのです。

その父親が「何か、私の息子に用事かい?」と聞くと、そのいじめっ子たちは、顔色を変えて、「いいえ、何も用事はありません。」と言って、一目散に逃げて帰ったのです。

 これは、一人の男の子の話ですが、この父親の姿は、信仰の世界にも共通するのではないでしょうか。サタンは、子どもたちを、神様から引き離そうとあらゆる誘惑にやって来ます。しかし、そのような時に、父親が、前に立って、楯となって信仰を守り通すことは、大切な事です。

 川上義也兄にとって、お父さんの長一さんの信仰が、川上義也さんの信仰を守ったように、父親の信仰の姿は、子どもたちを守るのです。

 私たちは、誘惑に弱く、この世に倣いやすい者です。しかし、私たちの心に主が共にいて下さるなら、主御自身が誘惑に打ち勝つ力を与えて下さり、この世に倣う者ではなく、キリストに従う心を守ってくださるのです。

 そのようにして、私たが、主の力によって誘惑に打ち勝つ時、さらにキリストに似たものと造り替えられていくのです。

 たとえ信仰生活の中で転んでしまっても大丈夫です。決してあきらめないで、再び立ち上がってください。

試練を耐え忍ぶ人には、素晴らしい栄光の約束が与えられているのです。

ヤコブ1:12

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」  この世の試練に耐え忍びながら、神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」ものとさせていただきましょう。

 

 (3)心を新たにして自分を変えていただく

2節

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 この世に倣わないために必要なのは、心を新たにして自分を変える事です。

 それは、自己中心な心を捨てて、神様中心の心にしていただくという事です。私たちのかたくなな心、愛のない冷たい心、罪に汚れた心を心から悔い改めて、聖霊に私たちの心を占領していただく事です。

 トマス・クックの「新約の聖潔」の中で、「神に占領されたたましい」についてこういう例話が書かれています。

「わたしの手の中に、一片の鉄があるとしましょう。

 その鉄は話が出来ると想像しましょう。鉄は「わたしは固く、冷たく、黒い。」と言っています。しかし、わたしはその鉄を火の中に入れました。火が鉄に入り、すばらしい変化が起こり始めます。鉄が鉄であることをやめたわけではありませんが、黒さはなくなり、冷たさはなくなり、固さもなくなりました。鉄は新しい経験に入ったのです。

  もし、その鉄が話すことが出来たら、それは、鉄自身の栄誉ではなく、鉄片を光り輝かせている火に栄誉があると言うでしょう。

 火を取り去れば、たちまち、鉄は冷たくなり、固くなり、黒くなってしまいます。火が違いをもたらしたのです。

 信仰者の場合もそれとよく似ています。

 キリストなしでは、固く冷たく黒い鉄のように「罪ある人間であり、売られて罪ある者」(ローマ7:14)にすぎません。しかし、聖霊の火によって私たちが燃やされる時、この世の不純物はすべて取り除かれて、神様の光と愛と力に満たされるのです。

 この変化は、鉄に対する火の効果よりも、さらに素晴らしいものです。私たちは罪からの解放ばかりでなく、平和と勝利の新しい経験をすることができるのです。」

 私たちは、神様の愛にとどまり続けるなら、私たちも愛の器になることが出来るのです。

 そして、私たちを神のようにならせるただ一つの方法は、キリストの十字架の愛です。  人がどんなことをしても、その人を愛し続ける愛です。

 私たちが、キリストのの十字架によって赦されているように、私たちも人を赦すのです。 私たちが愛されているように、神と人とを愛すのです。

 そのように、キリストの十字架の愛にとどまり続けるなら、私たちは、火の中の鉄のように、光と愛と力に満ちた完全なクリスチャンとして歩み続けることが出来るのです。

 聖霊の火の中を、イエス様の光の中を歩ませていただきましょう。そうするなら、私たちは心を入れかえて、

「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」  清い器にしていただく事が出来るのです。

1節

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 礼拝は、日曜日だけささげるものではありません。毎日、いつも神様の事を思って生きる、神様第一の生活をする、それが私たちの礼拝なのです。今日遣わされて行く、その場所で、朝も昼も、どのような事をしている時にも、私たちの「体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」て、心からの礼拝をささげましょう。

 

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Illustration by c-awase