主日礼拝 8/17

「生きるにしても、死ぬにしても」 ローマ14:1~12

  今日、岡  恵美神学生の証しを感謝します。岡  恵美神学生は、直接献身に導かれて、神学院で学んでいますが、すべてのクリスチャンが、献身をしなければなりません。なぜなら、私たちが献身をする前に、イエス様があの十字架上ですべてを捨てて、私たちを救ってくださったからです。

 

今日の中心の御言葉は、8節です。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

この御言葉には、クリスチャンの生きる目的がはっきりと記されています。

 

(1) 信仰の弱い人を受け入れなさい。

1節

 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」

  「信仰の弱い人」というのは、イエス・キリストを信じて、キリストから離れようとしている人でもありません。しかし、教会の中で起きる様々な出来事に躓いてしまう人たちのことです。

 当時のローマのキリスト者の中には、いろいろな考え方をする人たちがいました。

①菜食主義者

 2~3節

 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 レビ記11章には、食べて良い物と、食べてはならない物のリストが挙げられています。

レビ11:1~5

 「主はモーセとアロンにこう仰せになった。イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。・・・・」

 ユダヤ人の中でも最も厳格な宗派は、エッセネ派でした。彼らは、エッセネ派の共同体だけで食事を採りました。食事の時には沐浴をして、特別な衣類を着ました。食事は祭司たちによって準備され、そうでなければ、彼らは食事をしなかったのです。

  しかし、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは、それらの律法から自由にされたのです。

 その事が、はっきり現されているのが、使徒言行録10:9~16(P232)です。この箇所は、ペトロが見た幻です。

「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」

  この出来事を通して、ペトロは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救われるという確信が与えられるのですが、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは律法から自由にされ、ユダヤ人だけではなく、私たち異邦人もすべての人に、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救いの道が開かれたのです。

  ローマの教会には、キリスト者になったにもかかわらず、律法に従って、食べて良い物と、食べてはならない物を区別している人たちもいました。

 また、イエス・キリストによって律法から自由にされたのだから、何を食べても良いのだと、野菜や肉を自由に食べている人たちもいました。

 またこの時代には、肉を食べることを避けて、野菜だけを食べる菜食主義者がいたことが2節を読むと解ります。そして、お互いの立場の人たちが、食事のことで、争ったり、裁いたり、躓いたりしていたのです。

 そのような様々な立場にある人たちに対して、3節でパウロはこう勧めています。

「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」

  パウロは、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない。」そして、「食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」と言っています。なぜでしょうか。それは、神様が、菜食主義者の人も、肉を食べる人も、受け入れてくださっているからです。

②召使いたち

4節

「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」

  この「召使い」というのは、「家の中の召使い」のことを言っています。家の中の召使いは、それぞれの主人のもとにいるので、同じ奴隷仲間の間では、平等の関係にあります。だから、その中の者が、同僚を裁くのは間違っています。なぜなら、仲間の召使いを裁く権利が彼らにはないからです。

 召使いが「立つ」のも「倒れる」のも主人の意のままです。

 そして、私たちの主は、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちがどのような罪を犯しても、また、どのような失敗をしたとしても、私たちを愛し、許してくださるお方です。

 その主人の心を心として、お互いに許し合い、愛し合うお互いでありたいと思います。

③日の問題について

14:5~6

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」

  モーセの十戒に安息日を聖とせよと命じられています。

出エジプト20:8~11(P126)

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

  旧約時代は、神様が7日目に休まれたので土曜安息でしたが、新約時代では、イエス・キリストがよみがえられたのが、日曜日だったので、日曜日が安息日と定められました。

 一週間の一番最初の一番大切な時間に、神様を礼拝することは非常に大切な事です。しかし、それが、形式的になってしまっては、それは空しいものになってしまいます。まして、日曜日に礼拝をできない人を裁くようになってしまっては、どんなに神様は悲しまれることでしょう。

  メアリー・スレサーという宣教師がいました。彼女は、奥地で孤独な3年間を過ごしました。その時、カレンダーがなかったので、ときどき曜日が解らなくなってしまったのです。彼女は日記にこう書いています。

「いつか私は礼拝を月曜日に行っていることに気がついた。そして、また日曜日に、月曜日だと思って、屋根でこつこつと働いていることに気がついた。」

 これを、聞いてみなさんは、どのように感じられたでしょうか。

 メアリー・スレサーの礼拝は、月曜日に行われたのだから、価値がないと思いますか?

また、日曜日に働いたのだから、とにかく戒めを破ったのだと考えもしないと思います。

 パウロは、主の日が聖別されなければならないことを大切にしています。しかし、それが形式化してはいけないことを主張しているのです。

 私たちが礼拝すべき方は、特定の日ではなく、すべての日の主であられるお方です。

 礼拝にとって一番大切なのは、日にちや時間ではなく、霊と真をもってささげる礼拝です。

ローマ12:1

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

  パウロは、1節で

 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」

  とローマの信徒達へ勧め、菜食主義者も、召使いたちも、日を大切にしている人も、

また、そうでない人たちも、神様が私たちを受け入れてくださったように、互いに受け入れ合い、批判してはいけないと言っています。

 人は、大きな石には躓く事はあまりありません。小さな石、例えば、食事のことや、人の言葉や、何気ない行いに躓いてしまうのです。

 私たちの教会にも、いろいろな考え方や、いろいろな感じ方をする人たちがいます。100人いれば、100通りの考え方や感じ方があります。その違いを、批判したり、裁いたりするのではなく、ありのままの相手を受け入れ、愛し合い、仕え合っていきましょう。

 みなさんに祈っていただいて、8月9日に家内の従兄の結婚式が行われました。その前の日にお二人と、私と家内とで、カウンセリングの時を持ちました。

  その時にも話した、私の失敗談を話したいと思います。

 私と家内が結婚して、一番大変だったのが最初の半年くらいでした。私は、九州男児なので、「自分の考え方」があって、「その考え方に着いてこい」みたいなところがありました。ところが、自分の考え方を押しつけても、うまくいくはずがありません。半年くらい経つと、家内が本当につらそうな顔になってしまいました。

 そんなある日、家内と公園を散歩をしながら、お互いに今までのことをいろいろ話しました。

 その時に、そうだ、神様がありのままの私を受け入れてくださったように、家内をありのままで受け入れれば良いのだと示されたのです。すると、心に平安が与えられて、今まで、自分のこんな小さな円に押し込もうとして苦労していたのが、ありのままのお互いを受け入れようと決心した時から、同じ所は勿論ありますが、違うところも受け入れて豊かな楕円のようになったのです。

  神様は、ありのままの私たちを愛してくださっています。その神様の愛を覚えながら、互いに、許し合い、受け入れ合い、愛し合って素晴しい教会を建てあげさせていただきましょう。

 

(2)生きるにしても、死ぬにしても

7~9節

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

   ここに人が生きる目的があります。

 クリスチャンは、イエス。キリストの十字架の死によって、罪が赦され、神の子とされました。そして、イエス・キリストの復活によって、新しく生まれ変わったのです。

 ですから、クリスチャンは、生きるにしても、死ぬにしても、主のものです。ですから。わたしたちの生きる目的は、キリストのために生きることです。

 その事がはっきりすると、律法主義に陥ることも、放縦に陥ることもありません。わたしたちはキリストによって、真の自由が与えられています。そして、キリストの愛に満たされるならば、愛は律法を全うするからです。

 フローレンス・ナイチンゲールのことはみなさんも良く知っておられると思います。

 彼女は、17歳の時に、看護婦になるように神様からの使命をいただきました。彼女は、その召命に従って、看護婦になり、ロンドンのある私立病院の監督になりました。

 ところが、その様なときに、1853年にクリミヤ半島で戦争が起こり、ロシア人がトルコに侵略してきたのです。戦争は長期化し、多くの犠牲者が出ました。

 この多くの犠牲者達のために、何かできないだろうかと思ったナイチンゲールは、死を覚悟して、看護婦38人を連れて戦場に行ったのです。

 最初の内は、軍隊の足手まといだと言われて、冷たく扱われましたが、野戦病院で、死ぬことを覚悟で、多くの怪我をした兵隊や、病気の兵隊の看病に当たったのです。この彼女たちの存在を通して、多くの兵隊達が助けられました。

 やがて、戦争が終わり、そのナイチンゲールの功績がたたえられました。そして、多くの新聞社などが彼女のもとにやってきたそうです。ところが、彼女は、いつも丁寧に断ってこういったそうです。

「わたしがしたことで、褒められるようなことは何一つありません。わたしのことで、賛辞を受けるようなことがあるならば、それらは私を遣わしてくださったイエス様が、栄光をお受けすべき事なのです。」

 ナイチンゲールは、全ての栄光を神様に帰したのです。

  わたしたちも、生きるにしても、死ぬにしても主のために歩ませていただきましょう。

 

(3)神の裁きの座に立つ時

14:10

「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」

 パウロは、自分の兄弟を裁いたり、侮ったりする人たちを戒めています。やがて、わたしたちは、みんな真の審判者である神様の御前に立たなければなりません。そのことを知っている人は、この世において、自分の尺度で人を裁くようなことはしないはずです。

  私たちは、人を裁く権利はありません。なぜなら、神様こそが私たちを裁かれるお方だからです。私たちは、裁き主ではなく、裁かれる者だからです。

11節

「こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」

『 』で書かれている御言葉は、イザヤ書45章23節の引用ですが、パウロはこの御言葉を引用して、このことを証明しています。

 ボクシングのヘビー級世界チャンピョンだったジョージ・フォアマンの証しです。彼もついに試合に敗れ、王座を明け渡す時がやって来ました。彼は極度の疲労から、死ぬほどの苦しみ味わいました。

 その苦しみの中で、彼はある声を聞いたのです。「お前は神を信じているのだろう。それなのに、なぜ、死ぬのが恐いのか。」彼は「持っているお金を寄付するから、オレを助けてください。」と答えました。

 すると、「わたしが欲しいのは、お金ではなく、あなた自身だ。」という返事が返ってきたのです。そして、十字架に架かられたキリストが、敗戦のショックと肉体疲労の極限にあったフォアマンの心の目に映し出されたのです。彼は、この時生きて働いておられる神様と出会ったのでした。

 フォアマンは、引退して牧師となり、青少年のために更正施設を建設するというビジョンが与えられました。そして、その費用を工面するために、10年後にカムバックしたのです。

 パンチには往年の迫力はなく、動きも機敏とは言えませんでした。ところが、世界ヘビー級チャンピョン王座に挑み、みごとに再び王座を手にしたのです。45歳最年長の世界王者でした。

 作家のノーマン・フェラーはこう言っています。

「今のフォアマンほど、友好的で優しい人物はいない。彼は死をも恐れぬ何かを獲得した。」現在、フォアマンは、牧師として働き、「死をも恐れぬ何か」を語り続けています。

12節

「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」

  わたしたちは、やがて、主の御前に立つ時が来ます。「その時には、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」その準備ができているでしょうか。

最後に8節を読んでお祈りをします。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

 ここに「従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります。主のものとして、大切な信仰生活を歩ませていただきましょう。

 

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Illustration by c-awase