先週の火曜日から木曜日まで、奥多摩バイブルシャレーで、教職セミナーが行われました。
今回の教職セミナーのテーマは、「弱く見える部分が、かえつて必要なのです。」で、丸谷真也先生が、講演をしてくださいました。先生は、牧師でもあられ、臨床心理士でもあられる方で、牧会について専門的な立場から教えて下さいました。
その中で、一番心に残っているのは、、弱い人も強い人も、助けられる人も助ける人も、お互いにとって祝福に与るのが、キリストの体である教会ですということでした。
神様は、教会に弱く見える部分を置いてくださり、そのような部分を通して、教会を聖潔、成長させてくださるのです。だから、教会には「かえって」弱く見える部分が必要なのですと教えられました。
フィレモンへの手紙には、愛の人フィレモンと、そのフィレモンに対して罪を犯して逃亡したオネシモと、そのオネシモに福音を伝えたパウロの3人の姿が書かれていますが、この箇所を読むと、その3人共神様の素晴らしい祝福に与ったことが解ります。
11節
「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」
パウロは、フィレモンに宛てた手紙で、1~3節で挨拶を書き、4~7節でフィレモンの愛に感謝していろところを先週は見てきました。
そして、いよいよ、手紙の本論に入っていきます。それは、フィレモンのところで盗みを働き、パウロのところに逃げて来た、オネシモへの執り成しの手紙です。
まず8~9節をご覧ください。
「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、
むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。」
パウロは、フィレモンに対して、恩師として語ることもできましたし、使徒の権威をもって、遠慮なく命じることもできたはずです。しかし、パウロは、そのような子弟の関係や、使権を用いずに、フィレモンの愛に訴えてお願いしているのです。
それも、9節には「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。」
と語っているように、自分が弱い老人であり、キリスト・イエスの囚人であることを認めて、謙遜に謙って、フィレモンに懇願しているのです。
この手紙には、オネシモについて、3つの角度から書かれています。第一は、オネシモの過去の姿です。(11~14)そして、第二番目は、オネシモの現在の姿(15)、そして、最後は、フィレモンに見てもらいたい、オネシモの将来の姿(16~17)が書かれています。
(1)オネシモの過去の姿
11節
「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」
オネシモは、フルギヤ地方出身の奴隷でした。オネシモという名前は、原語では「役に立つ者」という意味があるそうです。多くの奴隷達が、奴隷として売る時に、これは「役に立つ者」ですよと名前が付けられて、売られていったそうです。
ところが、11節の最初に「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でした。」と書かれているように、役に立たない者になってしまったのです。
オネシモが、どのような罪を犯したのか、よく分かりませんが、18節に「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」
とパウロが言っているところを読むと、オネシモは盗みを働き、フィレモンのところから、逃走してしまったことが解ります。
そして、その姿は、私たちの姿を現しているのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストを信じる前は、自分の力では、罪に打ち勝つことができない罪の奴隷でした。悪いことと解っていて、それを辞めようと思ってもつい罪を犯してしまう「わかっちゃいるけど、辞められない」というのが私たちの姿ではなかったでしょうか。
そして、それは、限られた人だけではありません。ローマ3:23には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と書かれていますが、アダムとエバが、神に背いたその時から、すべての人に罪が入り込んで、罪の奴隷となって、滅びに向かっているのです。
今、エボラ出血熱が世界の問題になっています。海外から帰ってきて発熱して、エボラ出血熱の可能性が少しでもあると、指定された病院に入院することになっているそうです。
今から約二〇〇年前に、ドイツのハンブルグで、コレラの大流行があり、市民の大半が死亡してしまった事がありました。その原因を調べてみると、この町の水道の水源地にコレラ菌が入ったことが解りました。そこで、繁殖したものが水道管から流れて、各家庭に流れ、これを飲んだすべての人が病気にかかってしまったというのです。
人間の罪もこれによく似ています。
アダムが最初に、神様から「善悪の知識の木」から取って食べてはならないと言われていたその木から取って食べて、神様に背いた時から、人類の中に罪が入り込みました。そして、その罪は、カインとアベルに、また子々孫々と受け継がれていったのです。
そのような人間の姿をパウロは、ローマ5:12(P280)でこう書かれています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
ここには、アダムが罪を犯したたために、「すべてのひとが罪を犯したからです。」と書かれていますが、神様は、そのような人間を見捨てられませんでした。そのすべての人の救いのために、独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。
ローマ5:17~18でパウロはこう言っています。
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
一人の人によって罪が入り込んだように、神の独り子であるイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さったお陰で、すべての人が義とされて、命を得るようになったのです。
罪を犯して逃亡した、オネシモでさえ、神様は見捨てられませんでした。オネシモはその先、どのようにしてパウロのところに行ったのか解りませんが、ローマに投獄されていたパウロの所に行き、そこで、初めて福音を聞いたのです。
そして、福音によってオネシモは変えられて、パウロはオネシモのことを、10節では「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」、12節では「わたしの心であるオネシモ」と呼ぶような、まさに名前の通り「オネシモ」(役に立つ者)と変えられたのです。
11節
「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」
イエス・キリストの十字架と復活の福音だけが、役に立たなかった私たちを、造り変えて、役立つ者と変えることができるのです。
(2)オネシモの現在の姿
15節
「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。」
オネシモは、フィレモンに者を盗み、逃亡してしまいました。それ事態は、あってはならないこと、罰を受けなければならない罪です。しかし、神様は、そのような出来事も用いられて、救いの御業を成されるのです。
「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、」とありますが、フィレモンの人間的な目から見ると、人の物を盗んで逃げるなんてとんでもないやつだ。と言うことになってしまうのかも知れませんが、神様の目から見ると、オネシモを一時的にフィレモンのもとから引き離されて、罪の悔い改めに導くためであったと言えるのではないでしょうか。
そして、この言葉のように、オネシモは、フィレモンのもとを離れて、ローマの獄中にいるパウロの所に導かれて、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ心の中にお迎えして、もう一度、フィレモンの所に帰って、「あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。」とあるように、イエス・キリストを信じる良きしもべとして、フィレモンのもとで、これからずっと仕えようとしているのです。
イエス様を信じることによって、現在だけではなく、過去のことも良きに変えられ、永遠にキリストに仕える者として用いられるのです。
東京の下谷教会で牧師をしておられた菊地吉弥牧師は、青森で二号さんの子どもとして生まれました。学校でいつも「めかけの子」とののしられ、ばかにされていました。それが劣等感のもとになって、親をうらんだり、他人を憎んだりしていました。
ところが、そんなある日、キリスト教の牧師から聖書の中の「キリストと姦淫の女」の話を聞きました。
一人の女が、多くのユダヤ人から姦淫の罪を責められ、律法によって石打ちの刑に合おうとしているのを、キリストが助けたうえ、その女を責めないばかりか、殺気立つユダヤ人に向かって「なんじらのうち、罪なき者、まず石を投げて打て」と言いました。すると、年を老いた者から、その場から立ち去り、最後には一人残らず立ち去っていったのです。
みんなが罪人だから、すべての人はお互いに責める権利などないのだという話しを聞いて、「自分の母だけが罪深いのではない、みんな罪人なのだ。」ということが分かったのです。その時に、めかけの子という肩身の狭い思いから解放され、イエス・キリストを救い主と信じたのです。
そして、そのイエス・キリストの愛を伝えたいと思い、伝道者になったのです。
オネシモは罪を犯したため、フィレモンの所から逃亡してしまいました。しかし、パウロの元で、福音を聞いて、造り変えられ、永遠にキリストに仕える者とされました。
菊地先生は、過去の自分をうらみ、他人を憎んでいましたが、神様は、その過去のつらい出来事も用いられて、イエス様を信じる者と変えられました。そればかりか、キリストの愛を伝える伝道者として用いられたのです。
神様は、現在だけでなく、私たちの過去も、将来も代える事のできるお方です。
(3)オネシモの将来の姿
16~17節
「その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」
ここには、パウロが、フィレモンに見て欲しい、現在のオネシモの姿が語られています。15節で、オネシモがフィレモンのもとを離れたのは、フィレモンがオネシモを「永遠に取り戻すため」だったとお話ししましたが、それは、「もはや奴隷としてではなく、・・・・愛する兄弟として」取り戻すためでした。
ここで、一つ注意していただきたいのは、16節に「もはや奴隷としてではなく」と書かれていることです。ここでパウロは、オネシモを「奴隷ではなく」とは言っていないのです。もちろん、オネシモはイエス・キリストを信じましたから、オネシモとフィレモンとは兄弟姉妹です。だからと言って、オネシモがフィレモンの奴隷でなくなったわけではありません。
この世の秩序としては、フィレモンは主人であり、オネシモは奴隷です。しかし、主にあっては、身分はどうであろうと、愛する兄弟姉妹だと言っているのです。
17節
「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」
パウロは、ここで、自分のことを「仲間と見なしてくれるのならば、オネシモをわたしと思って受け入れてください。」とお願いしています。
これは、パウロのオネシモに対する愛であり、また、イエス・キリストの私たちに対する愛でもあります。
イエス様を信じると、すべての罪が赦されますが、それで、過去に犯した罪が帳消しになるわけではありません。罪は赦されても、その償いはしなければならないのです。
パウロにとって、フィレモンが一人の奴隷を失ったこと、また、その奴隷が盗みを働いたことは、決して無視されるべきものではありませんでした。
オネシモは、フィレモンの元に返った時、身をもって誠意を示して、仕えることによって罪を償わなければなりませんでした。
しかし、それは、オネシモ一人ではとても、負いきれないほどのフィレモンに対する、損害と負債でした。パウロはそこまで考えて、18~19節でこう言うのです。
「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。」
パウロは、フルギアの一人の奴隷のために、経済的なことも、すべて引き受けると言っているのです。ここに、パウロの愛があります。
そして、そのパウロの背後には、まさに永遠の滅びに向かっていた、私たちの罪のために十字架にかかってすべての償いを払って下さった、イエス・キリストの愛があるのです。
ローマ3:23~26
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
イエス・キリストが、私たちがどんなに働いても支払うことのできない負債を、あの十字架で負ってくださったのです。それは、私たちを義と認められ、神様の栄光のために用いられるためです。
アメリカ、サンフランシスコのチャイナタウンに、3人の兄弟がいました。
一番上のお兄さんは、木で家具や十字架を作って、弟と妹を養っていました。しかし弟がギャンブルにはまり、抜け出せなくなってしまったのです。
ある日、借金を作ってしまった弟は、借金を返そうとしてお兄さんからお金をもらい、そのお金でまたギャンブルをしました。運良くお金をもうけることができました。ところが、その帰り道、ついてきたやくざとケンカになり、うっかりやくざを殺してしまったのです。
返り血を浴びたまま家に走って帰ってきた弟は、「助けてくれ」とお兄さんに言いました。家は警察に包囲され、自首するようにと叫んでいます。
するとお兄さんは、木の十字架を弟に握らせ、弟が着ていた血のついた服を着て、外に走り出たのです。警察が止まれと命令したにもかかわらず走り続けたため、お兄さんは銃で撃たれて死んでしまいました。警察は死んだのが殺人を犯した弟ではなく兄だと知り、兄が罪を代わりに負ったということで弟の罪を赦したのです。
その後、弟の人生は完全に変わりました。ギャンブルをやめ、兄の代わりに木の十字架を作り、生活も美しく変わったのです。
11節
「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」
オネシモは、パウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じたことによって、すべての罪が赦され、「役に立たない者から」フィレモンにとっても、パウロにとっても「役に立つ者に代えられました。」
イエス様は、私たちのためにも、十字架にかかってくださり、過去の罪も、現在の罪もすべて赦され神の子とされ、将来私たちを神様の栄光のために役に立つ者と変えて下さいました。
その恵みを感謝して、オネシモのように心から神様と人とに仕える者とさせていただきましょう。
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