1/18 主日礼拝

「祝福の継承者イサク」 創世記26:1~25

 2015年の年間聖句「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」詩編81編11節

 ファミリー礼拝で、祝福の基であるアブラハムについてお話しをしましたが、今日は、その祝福を受け継いだ、イサクを通して、主の御声を聞かせていただきたいと思います。


今日の中心の御言葉は、4節です。

「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。 」

  26章にはアブラハムに与えられた祝福の約束が、どのようにしてイサクに継承されて行ったかが記されています。

 今日の中心の御言葉には、主の3つの約束が記されています。

①子孫の繁栄の約束 4節「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし」

②約束の地を与える約束  4節「これらの土地をすべてあなたの子孫に与える」

③地上の諸国民の祝福の約束  4節「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」

  この約束は、神様が、ファミリー礼拝でお話ししたアブラハムに約束された約束と同じです。創世記15章5節

「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、アブラハムは死んでしまい、歳月は流れました。そこに生きている人達も変わってしまいました。けれども、神様の約束は変わることはなかったのです。人は変わっても、神様は、真実にその約束を守られるお方なのです。そして、アブラハムに約束された祝福は、イサクに受け継がれていったのです。

  では、どのような人に神様は、このような素晴らしい約束を与えられるのでしょうか。今日は4つのことを、信仰の継承者イサクから学びたいと思います。


(1)神様の祝福は御心に従う人に与えられる。

   パレスチナには、良く飢饉が襲われることがありました。アブラハムも飢饉にあいましたが、その時はエジプトに下って行きました。

 イサクはまず、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところに行きました。そして、それからエジプトに下って行こうとしたようです。「飢饉のときは、当時米蔵と呼ばれていたエジプトに」と言うのが当時の自然な考え方でした。

  しかし、この時、神様がイサクに現れて、こう語られたのです。

2節

「そのとき、主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」

 人間的に考えると、アブラハムのようにエジプトに行くことが、一番安全なことのように思えました。しかし、どんなに安全に見えても、もし、神様の御心でないならば、そこには祝福はないのです。主の御心の土地が最善の土地なのです。

  リチャード・バックスターがこう言いました。

「何でも御心のままに、

 いつでも御心のままに、

 どこでも御心のままに」

 私達も、イサクのように、この世の常識がどうであろうと、また、自分の願いがどうであろうと、「何でも」「いつでも」「どこでも」神様の御心どおりに従うものでありたいと思います。

 神様が、イサクのようにそこに止まれとおっしゃるならば止まれば良いのです。

  また、神様が行けとおっしゃるならば、どんなに困難が予想されても行けば良いのです。なぜなら、神様に従って行くなら、神様も私達と共にいて下さるからです。

そして、そこにこそ、神様の豊かな祝福があるのです。


(2)神様の祝福は私たちの弱さや失敗にも関わらず一方的に注がれる

  7~11節にイサクがアブラハムと同じ失敗をしてしまったことが書かれています。

 創世記12章で、アブラハムとサラが飢饉のためにエジプトに行った時、自分の身を守るために、妻のサラを自分の妹だと偽ったことが書かれていますが、ここでイサクも、その土地の人に妻リベカのことを聞かれると、リベカが美しかったので、リベカのゆえに自分を殺してしまうのではないかと思って、「わたしの妹です。」とウソをついてしまったのです。

  ところが、ペリシテ人の王アビメレクにそのことが知られてしまい、叱責されることになってしまいました。この時も神様がご介入して下さり、リベカを守って下さったのです。

  アブラハムもイサクは完全に人間ではなく、人を恐れてウソをついてしまうような臆病な人でありました。にもかかわらず、神様は、そんなに臆病で、父親が犯した失敗を繰り返すような人々を見捨てるような事はなさいませんでした。

 そうではなく、その罪を犯して入るただ中にご介入して下さり、罪によって祝福を失わないように守って下さったのです。そして、一方的にイサクに恵みを与えて下さったのです。

  これは、神様の恵みというのは、私達の行いによって与えられるのではなく、ただ一方的な恵みとして与えられるものだということを表しています。

  神様の祝福というのは、私達にそれを受ける価値があるから与えられるのではありません。また、これをしたから、あれをしたからといってその行いによって与えられるもでもありません。ただ、神様の愛のゆえに一方的に与えられる祝福です。

 アメリカのミシガン州、エナーバーに「失敗博物館」と呼ばれる博物館があるそうです。そこには新商品として発売された後、消費者の需要がなかったために消えていった11万余の商品が展示されています。

 この博物館は、大変な人気があります。多くの企業の研究者たちが続々と押し寄せるのです。研究者たちは失敗から新しいチャンスを見つけようとして、その博物館を訪れるのです。成功するためには、失敗の原因を知る必要があるからです。

 ある人が、私たちにとっての「失敗博物館」は、聖書だと書いていました。聖書には、偉人たちの失敗がたくさん記されています。良いことだけではなく、その人の罪や失敗が、赤裸々に書かれているのです。しかし、それは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。

 私たちは、聖書の人物の失敗から学ぶことができます。また、偉大な聖書に書かれている人々も失敗をしたと知ることで、希望を持つこともできます。

 アブラハムもイサクの失敗をしてしまいました。しかし、神様は彼らを決して見捨てることはありませんでした。それどころか、彼らを悔い改めに導き、整えられて一方的に祝福を与えられたのです。

 その神様は、決して私たが、どんなに取り返しのつかない失敗をしたとしても、見捨てられるようなお方ではありません。私たちが、どんな失敗をしても、また弱く足りなくても、一方的な祝福を与えてくださるお方です。その神様を信じ、信頼して祝福の道を歩ませていただきましょう。


(3)神様の祝福は低いところに注がれる。

 MSR+では、2年くらい前からイサクプロジェクトという井戸掘りのボランティアをしています。震災の津波の被害で、井戸の塩分濃度が高くなり、ビニールハウスなどでは仕えなくなってしまいました。そこで、良い水を求めて、井戸掘りをしています。

 なかなか、うまくいかず、試行錯誤の連続ですが、それでも、良い水が出てくると、大変喜ばれます。

  15~25節には、イサクの井戸掘りのことが書かれています。

  ペリシテ人は、イサクが祝福されて行くのを見て、ねたむようになりました。そして、イサクの父アブラハムが掘らせた井戸をことごとくふさいで、土で埋めてしまったのです。

  けれども、イサクは、このようなペリシテ人に対決しようとはしませんでした。それは、神様の祝福がそれにまさるということをイサクは知っていたからではないでしょうか。イサクは、ただ黙々と井戸を掘ることに専念します。

 そして、16節でアビメレクに「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われると普通だったら、弱い方が出て行けと言っても不思議ではありませんが、何にも文句を言わずに、そこを立ち去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだのです。

 ところが、そこのあったはずのアブラハムの時代に掘られた井戸は、ペリシテ人にふさがれていました。それでも、イサクは井戸を掘り、その井戸を父アブラハムが名付けた通りの名前をつけました。

 イサクの試練はそこにとどまりませんでした。その井戸から水が豊かにわき出て入るのを見つけた、ゲラルの羊飼いがやって来て、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争ったのです。

  そこで、またイサクは新しい井戸を掘りました。そこでも争いが起きたので、シトナ(敵意)という名前を付けたのです。

 そこから、移ってもう一つ井戸を掘りました。するとこの井戸には、争いが起こらなかったので、その井戸をレホボト(広い場所)と名付けて「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言いました。

 イサクは井戸を掘り続けました。不当な仕打ちを受けても、掘った井戸を奪われても、掘った井戸のために争いが起こっても、ただひたすら井戸を掘り続けました。

 この姿は、イサクの謙そんを表しています。イサクはどのようなことが起こっても人と争わずにひたすら井戸を掘り続けたのです。そのようなイサクに対して、神様はレホボト(広い場所)「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と豊かな祝福をお与えになったのです。 

  私達の信仰生活も井戸を掘ることが大切です。神様の祝福は低いところに注がれます。信仰の井戸は深ければ深いほど、きれいな水が豊かにあふれるのです。

 そして、そのような生涯を送られた最大の模範が、イエス様です。

フィリピの信徒への手紙2章6~10節(P363)

「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 神様は、神の身分でありながら、この罪の溢れる地上に来て下さり、へりくだって、十字架の死という一番低いところにまで下りて来て下さったのです。

  そして、9節には「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられました。」とあります。

 井戸を掘り、一番低いところまでへりくだるならば、神様はその謙遜な者に豊かな祝福を与えて下さるのです。

  私達もイサクのように人と争わず、どこまでも井戸を掘り続ける生涯を送らせていただきましょう。


(4)神の祝福は、主が共におられることを知らせる

  28節をご覧下さい。

「彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。」 ここに「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」とあります。

  これは、素晴らしい言葉ではないでしょうか。

 どうでしょう。私達の周りの人が、皆さんを見て、「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」と言われるでしょうか。

 周りの人が、私たちを見て「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」と言われるようなクリスチャンになりたいと思いませんか。

  イサクはそのようなクリスチャンになったのです。

  この言葉を言ったのは、アビメレクでした。このアビメレクという人は、すでにお話しをしたように、イサク憎んで追放した人です。その彼が「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」と言っているのです。これは、素晴らしいことです。


 アビメレクは、イサクが何度も何度も、井戸を奪われて、苦しめられて来たことを知っていました。けれども、イサクは何もつぶやかず、また争わないでひたすら井戸を掘り続けたのです。そして、いかなるときにも神様を信頼したのです。そのような、イサクを神様はいつも祝福して下さいました。

  そのようなイサクの姿を見て、アビメレクは、イサクに主が共におられることが、はっきりと解ったのです。

 2006年10月にアメリカのペンシルバニア州のニッケルマインズという村で、実際に起きた事件です。キリスト教の団体アーミッシュの小学校に男が侵入し、銃を乱射しました。この悲劇で5人の女の子が犠牲になりました。犯人の男は自殺しましたが、彼には妻も子どももいました。

 事件の直後、犯人の奥さんと子どもたちは、家に閉じこもっていました。夫が犯した犯罪によって、自分たちがどんな目に遭うのか恐れて、絶望の中おびえていたのです。

 しかし、アーミッシュのとった態度は意外なものでした。

  被害に遭ったアーミッシュの牧師は、事件のあったその日に犯人の家を訪ね、一家の大黒柱を失った遺族に対してお悔やみを伝えました。「私たちは、あなたがたを恨んでいません。許しています。」と伝えたのです。

 それから、被害者の家族は、自分たちの子どもが銃で殺されたのですから、どんなに辛かったか分かりませんが、彼らは、加害者の家族のことを心配して、次々にその家族の所にやって来て、この試練や苦しみを一緒に乗り越えようと、抱きしめて慰めの言葉をかけたのです。犯人の奥さんは、その姿に非常に驚き、アーミッシュの人々を通して、神様の愛に触れて涙か止まりませんでした。

 どうして、被害に遭った家族が、同時に犯人の家族の所にやって来て、許しと慰めの言葉をかけることができたのでしょうか。

 牧師はこう言っています。「私たちは話し合って、許すと決めたわけではありません。みんなが同じ行動をとりました。私たちが、許すことは初めから決まっていました。なぜなら、神様が私たちを赦して下さり、愛して下さっているからです。」

 神様の愛に動かされたアーミッシュの人々の姿は、まさに、「主が共におられること」を証ししました。そして、その神様の愛によって、絶望と苦しみの中にある家族を慰め、癒やしたのです。

 イサクは、ペリシテ人に井戸を埋められ、ゲラルの羊飼いに井戸を奪われても、争わずに井戸を掘り続けました。そのような姿を通して、主が共におられることを証したのです。

 イサクのことを、ある学者は、聖書に出てくる人物で最も目立たない人物の一人であると言っています。そのように、イサクは聖書の中ではめだたない、地味な人物だったかも知れません。

  しかし、イサクは、井戸を掘るという目に見えない、深いところに思いを向けた、謙遜な愛の器でした。

 私達も、偉大でなくても、神様に用いられて、信仰の担い手となることができるのです。平凡に見えても、忠実に井戸を掘り続けるならば、永遠に涸れることのない命の泉を掘り当てることができるのです。

 そして、何よりも、イサクはアブラハムに与えられた神様の祝福をしっかり継承し、次の世代にバトンタッチして、十分に与えられた使命を全うしたのです。

4節の御言葉を読みましょう。

「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。 」

  アブラハムに約束された祝福は、イサクに受け継がれていきました。

 今年も、1月2日と3日に箱根駅伝が行われました。あの箱根駅伝は、箱根ケズィックの行われる小涌園の前を走るので、楽しみにしています。

 大学生が、母校のタスキを繋いで全力で走っている姿、中には、体調を崩してフラフラになりながらも、何としてもタスキを繋ごうと走っている選手の姿に感動します。

 神様は私たちに、信仰の祝福というタスキを委ねて下さいました。この素晴らしい約束のタスキを次の世代に繋がせていただきたいと思います。

 最後に、もう一度今年の年間聖句を読んでお祈りしましょう。

「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」詩編81編11節

 神様の祝福は、私たちだけにとどまるものではありません。祝福のタスキを次の人に繋ぎ、満ちあふれる神様の祝福を見せていただきましょう。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase