10/26 主日礼拝

「栄光が世々限りなくありますように」 ローマ16:17~24

  先週の金曜日に、みなさんにお祈りをしていただいて、90歳になられた山形南部教会の前任牧師黒田愛子先生を訪問してきました。

 今回は私と家内の二人で、車で訪問しました。山形南部教会のことをお話ししますととても喜ばれて、「こんなわたしのために、わざわざ山形から来てくださってありがとうございます。山形南部教会のみなさんによろしくお伝えください。」と山形南部教会の祝福のために祈ってくださいました。

  また、昨日は淀橋教会110周年記念礼拝に出席をさせていただき、日本のキリスト教会を代表する先生方や、クリスチャンの方々の祝辞を伺い、また、世界一のメソジスト教会の名誉牧師のキムソンド牧師のメッセージをお聞きし、大きなチャレンジを受けて帰って来ました。集会の後、多くの先生方に、山形南部教会の方々によろしくお伝えくださいと言われて帰って来ました。


 16章は、「よろしく」の章です。1~16節にはパウロが今までお世話になってきた人たちの名前をあげて「よろしく」という言葉が15回も出てきます。そして、今日読んでいただいた17節以下には、このローマの信徒への手紙を書くにあたってお世話になった人たちに「よろしく」という言葉が3回書かれています。


今日の中心の御言葉は27節です。

 「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」


  ローマの信徒への手紙から主の御声を聞かせていただいてきましたが、今日で最後になります。パウロは、最後にローマの信徒に大切な事を勧告し、この手紙を書くために労してくれた人たちの名前をあげて、感謝し、最後に祝祷をもって、神様に栄光があるようにと祈ってこの手紙を終えています。

 今日は、ローマ16:17~24を読んでいただきましたが、この箇所を3つに分けて御言葉を取り次ぎたいと思います、


(1)パウロのローマの信徒への勧告

17~18節

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」

  パウロは、このローマの信徒への手紙を終わるにあたり、彼らに大切な勧告をしています。

 ここには、遠ざからなければならない2つの事が書かれています。

①異端の教え

 初代教会は、どこでも偽教師によって、分裂を引き起こされる危険性がありました。それは、ローマの教会も例外ではありませんでした。ですから、パウロは17~20節で、強い言葉で、異端の教えによって、教会が分裂することがないようにと厳しく勧めているのです。いただきましょう。異端は「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。」  と書かれているように、教会がイエス・キリストと使徒たちによって伝えられた教えと違うことを教えて、キリスト者を誘惑して、教会を分裂させようとするのです。そのような「異端から遠ざかりなさい。」とパウロは勧めているのです。


 異端の特徴は、聖書の他に、神の言葉があることです。 もう一つの特徴は、イエス・キリストの十字架と復活を完全に信じていないということです。

 ですから、その聖書と福音を、いい加減にしてしまうと、教会は一致することができません。それは、要のないせんすと同じです。

 最近の人は、せんすをあまり使わないので、分からないかも知れませんが、扇子は、たくさんの骨がありますが、それが、束ねられて、真ん中が金具で止められています。その金具が要です。

 その金具が取られてしまうと、骨がバラバラになって、その扇子は壊れてしまいます。

 教会も、この扇子に似ています。もし、教会が聖書や福音をはっきりと信じないで、いい加減にしてしまうと、信徒は一致することができません。

 だから、そのように聖書や福音を信じないような異端から「遠ざかりなさい」と言うのです。


②教会内の不一致です。

 教会の一致は、教会の力です。しかし、教会の分裂は破滅を招きます。だから、パウロは、17~18節で強い言葉で勧告しているのです。

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」

  特に、18節の最初の言葉をご覧ください。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。」とあります。教会の一致を乱す人は、「わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」人です。教会の中で起こる問題で、一番大きな問題は、両方とも良い考えである場合です。どちらかが、間違っていれば、それはやがて解ることです。しかし、両方とも、神様のために良かれと思ってやっている場合、自分の考えこそが正しいと、ぶっつかりあうのです。


 フィリピの教会がそうでした。フィリピの教会には、エポディアとシンティケという二人の女性がいて、どちらも素晴らしいクリスチャンで、熱心に教会に仕えていました。ところが、その熱心さがあだになってしまったのです。どちらも、自分が正しいと思っていましたから、自分の考えを譲らず、ついには教会が分裂してしまうような大変なことになっていたのです。

 そのようなフィリピの教会に対して、パウロは手紙を送っています。

 フィリピ2:1~5(P362)

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」

  神様は、教会が一致することを願っておられます。そして、そのためには、イエス・キリストを見上げ、キリストの愛によって愛し合うことです。そうするなら、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」とパウロが言っているように、私たちは一つになり、相手を自分よりも優れた者と考えて、自分のことよりも他者のことを考えることができるのです。


 オランダの古い物語です。

 二つの瀬戸物が並んで海を泳ぎながら、「お互いに衝突すれば、お互いに沈没する」と言って、お互いに注意して、目的地まで着くことができたという物語です。

 そのように、私たちクリスチャンも、互いに衝突したり、仲たがいなどをしてしまうと、お互いに沈没したり、割れてしまいます。互いにそのような危険から遠ざかって、愛の共同体を築き上げていきましょう。


アウグスティヌスは、

「大事においては一致を、小事においては自由を、すべてのことにおいては愛を」と言っています。聖書の御言葉と、福音によって私たちは一致しましょう。そして、細かいことにおいては、自由に自分のことよりも相手のことを考えましょう。そして、すべてのことに於いて、キリストの愛をいただき、愛の教会を建てあげていきましょう。


17節

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」


(2)宣教の業に携わった人たちへの感謝

 テモテ、ルキオ、ヤソン、ソシバトロ。そして、この手紙を代筆した、テルティオの挨拶が続いています。

21~22節

 「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。」

  ここには、パウロがこのローマの信徒への手紙を書くにあたって、協力した人たちへの感謝が記されています。

 パウロの働きは、一人の力によって成し遂げられたのではありませんでした。パウロの周囲には、たくさんの同労者がいました。このローマの信徒への手紙もまた、多くの協力者によって完成することができたのです。

 この手紙を代筆したのは、ティエティオであることが、22節に書かれています。

 23節にある「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです」  とありますが、ガイオというのは、コリントの市民で、パウロから洗礼を受けた人物で、コリントの教会の中心的な人物だと言われています。パウロは、ガイオの家に滞在していた時に、手紙を作成することができました。

 23節の後半にある「市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。」  と書かれていますが、エラストと兄弟クアルトは、コリントの教会の会計をしていましたが、パウロはその兄弟の助けも受けていたのです。

 そのように、イエス・キリストによって伝えられた福音は、弟子たちによって、伝えられ、多くの人々を通して、伝えられてきたのです。


 復活のイエス・キリストが召天された後、どのようにして福音が伝えられてきたのかという物語があります。

 天使の一人がイエス様の所に行ってこう言いました。

「あなたは、下界にいる人間のために苦しまれたに違いない。」イエス様は「そのとおりです。」とおっしゃいました。天使は「彼らはみな、あなたがかれらのためになされたことを知っていますか。」

 イエス様が「いや、まだ知りません。今までのところパレスチナで、わずかの者がそれを知っているだけです。」と言うと、天使は「では、彼らがみなそれを知るようになるために、何をされましたか。」と尋ねました。

 イエス様は「なるほど、わたしはペトロ、ヤコブ、ヨハネに人々に告げることを、そして、その人からさらに他の人へと、すべて最大の範囲の最果ての人までもこの福音を、聞くまでそれを仕事とするように依頼しました。」と答えました。

 天使は、人間がどんなに罪深く、あわれな被造物であるかを知っていたので、イエス様を疑い深く見つめて言いました。「そうでしょう。しかし、もし、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが忘れてしまったらどうなさいますか。もし、彼らが、それを伝えることが嫌になったらどうなさいますか。そして、20世紀になって、人があなたの愛の物語を、怠って他人に語らなかったらどうなさいますか。他の計画を立てておられますか。」

 すると、イエス様が答えました。

「他の計画は立てていません。わたしは彼らを信頼しています。」


 イエス様は、十字架で死なれ復活されて、私たちに福音を与えて下さいました。そして今やすべての人に伝えるように、そのキリストの命をかけて、与えて下さった大切な福音を信頼して委ねて下さっているのです。

 そのイエス様の信頼に対して、私たちは何ができるでしょうか。

 パウロのように命がけで福音を伝えることでしょうか。また、

 ティエティオのように、パウロの代筆をすることでしょうか。

 ガイオのように家を開放して、キリストの愛をつたえることでしょうか。

 それとも、会計をしていたエラストと兄弟クアルトの兄弟のように、献金をしたり、教会の奉仕をすることでしょうか。それぞれできる事は違いますが、福音を伝えるために、私たち一人一人を用いていただきましょう。


(3)栄光が世々に限りなくありますように(頌栄)

25~27節はパウロの祝祷です。

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

  そして、この祝祷は、パウロがこれまで書いてきたローマの信徒への手紙のエッセンスでもあります。

 ここには、大切な言葉が3つ書かれています。

①わたしの福音

25節でパウロは「わたしの福音」という言葉がを使っています。これは2:16の御言葉と同じです。

「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

  パウロは、ここでも「わたしの福音」という言葉を使っています。それは、パウロだけの特殊な福音という意味ではありません。すべてのクリスチャンに与えられた福音ですが、また、「わたしの福音」という意味です。

 良く、子どもたちに、「イエス様は、誰のために十字架にかかって下さったの?」と質問します。すると、「みんなのため」とか「ぼくたちのため」という答えが返ってきます。確かに大正解ですが、しかし、それが「わたしのため」ということが心から解ると、イエス・キリストの十字架の愛が、更に豊に迫ってくるのではないでしょうか。神の子であるイエス・キリストが、「わたしのために」十字架にかかって下さったのです。

「僕こそ、十字架の釘」という賛美がありますが、まさに、誰の罪のためでもない「僕の罪のために」イエス様は、十字架にかかって下さったのです。そして、その十字架によって神様は救いの業を完成してくださいました。だから、ローマの信徒への手紙の中心的な主題は「信仰義認」ですが、ただ、信じるだけで、私たちは救われたのです。

 その深い愛をもう一度「わたしの福音」という言葉から、覚えて心からの感謝をささげましょう。

②イエス・キリストについての宣教

25節に「わたしの福音という言葉に続いて「イエス・キリストの宣教」という言葉が書かれています。宣教は、ギリシャ語では「ケリュグマ」という言葉ですが、これは、この世に向かって福音が、前進していくという意味があります。そして、この宣教の業が前進していく時、今まで隠されていた奥義が明らかにされていくのです。(エフェソ3:5~6)

  福音は、「わたしの福音」であると同時に、ユダヤ人だけではなく、異邦人も全世界のすべての人の救いのためのものであるという奥義が明らかにされたのです。

 そこで、パウロは、ローマ10:14~16(P288)でこう語っているのです。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

  「わたしの罪のために十字架にかかってくださった」イエス様は、全世界の人々の救いのために、命を与えてくださったのです。その素晴らしい福音を、私たちを新任して、委ねてくださったのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」  とあるように、私たちを良い知らせを告げる者の足として用いていただきましょう。

③栄光が世々限りなくありますように

27節

「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

  「この知恵ある唯一の神に」というのは、独り子の十字架によって、全世界の人々を救いに導くという、知恵です。

 イエス・キリストの十字架と復活によって、一方的な恵みとして私たちの救いの道が開かれました。そして、その福音は、イエス・キリストの宣教によって、使徒たちにより、また、イエス・キリストの贖いによって救われた多くのクリスチャンたちによって、伝えられ、このローマの信徒への手紙に書かれている救いの業が、2000年経った今、私たちの内に成されているということは何と素晴らしいことでしょうか。そして、私たち信じる者すべてに永遠の命が与えられているのです。

 そして、それは、すべて神様の一方的な恵みによるものです。

 ですから、私たちは、パウロが、27節で最後に「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」と祈りでこの手紙を終えているように、私たちも「栄光が世々限りなく、唯一の神様にありますように、」と栄光を主に帰す者とさせていただきましょう。

 パウロは、「アーメン」「しかり」と言ってこの手紙を終えていますが、私たちも最後にアーメンとは、「まことに」「たしかに」とという意味です。心からの祈りをもって、このローマの信徒への手紙を終わらせていただきましょう。

27節

「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

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Illustration by c-awase