ある人が、クリスチャンの人生を、刺繍に譬えました。大きなじゅうたんを刺繍する時、いろいろな色を組み合わせます。鮮やかな青や赤、黄色の糸もありますが、時には、暗い黒い糸や、灰色の糸も組み合わせます。刺繍は、裏返して縫いますから、裏だけを見ていると、その模様が解りません。
それと同じように、私たちの人生にも、黒や灰色の糸があって、神様が私たちを愛してくださって、最善のことを成して下さるのに、こんなことが私の身に起こるのか、解らないことがあります。
しかし、じゅうたんの刺繍が完成して、表にひっくり返された時、黒や灰色の糸のお陰で、鮮やかな青や赤の糸が、浮き上がって見えます。それと同じように、私たちの人生にも、なければいい、できれば避けて通りたいと思うような暗闇、試練や苦しみやを通してでなければ、得ることの出来ない祝福を神様は与えて下さるのです。
今日の中心の御言葉は、19,20節です。
「ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
ここに「あなたたちはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民のために、今日のようにしてくださったのです。」
神様は、私たちを愛しておられます。そして、たとえ、周りの人たちが、私たちに対して悪をたくらむようなことがあったとしても、神様はそれを善に変え、最善の御業を成し遂げてくださるお方です。
その神様について、50章15節以下から神様について3つのことを学ぶことが出来ます。
(1)罪を許してくださる神
父ヤコブの葬儀が終わり、ヨセフとその兄弟たちは、エジプトに帰ってきました。そこで、ヨセフの兄弟たちは何をしたと思いますか。亡き父の思い出を語り合ったのでしょうか。それとも、今後の自分たちの歩みについて話し合ったのでしょうか。
そうではありませんでした。ヨセフの兄弟たちは、父が亡くなった今、ヨセフが自分たちを復習するに違いないと恐れたのです。
そのことが、15~17節に書かれていますのでご覧下さい。
「 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。」
ヨセフが、17歳の時、父ヤコブが、ヨセフだけをえこひいきして、愛しているのを妬みました。そんなある日、ヨセフは二つの夢を見ました。
一つは、畑で束を束ねていると、いきなり束が起きあがり、まっすぐに立ち上がりました。すると、お兄さんたちの束が、集まってきて、ヨセフの束にひれふしたのです。
もう一つは、太陽と月と11の星が、ヨセフにひれふしたと言う夢でした。
それを兄たちに話すと、兄たちの妬みはますます大きくなり、ある日野原にやってきたヨセフを殺そうとしたのです。
けれども、その時に兄のユダがそれをとどめ、穴の中に入れました。その時に、奴隷商人がやってきたので、ヨセフを奴隷として売ってしまったのです。兄たちは、その日からずっと、自分たちが犯してしまった罪に対して、ずっと良心のかしゃくに苦しんでいたのです。
ですから、父ヤコブが死んでしまった今、きっとヨセフが自分たちに復習するに違いないと考えたのです。
ジョン・カルビィンが「良心のかしゃくは、この世ながらの地獄である」と言ったそうです。
最近、動物の虐待がよく報道されて心を痛めることがありますが、ある本に、野良猫を殺してしまった一人のコックのことが書いていました。
ある日、そのコックが調理場にいくと、一匹の猫が調理場をめちゃくちゃに荒らしていたのです。そのコックは、カンカンに怒って、怒りにまかせて、その野良猫を釜戸の火の中に投げ込んで殺してしまったのです。
同僚がそれを警察に訴えたので、その国の法律によって動物虐待の罪のために逮捕されてしまいました。
ところが、そのコックは、その夜、猫を殺してしまってから、はじめてぐっすりと眠ることが出来たというのです。彼は、猫を殺してから、良心のかしゃくに悩まされて、一睡もしていなかったというのです。そして、逮捕されて留置所の中ではじめて、寝ることが出来たというのです。
人間の罪の恐ろしさというものを知らされますが、彼らは、その良心のかしゃくのために、苦しめられていたのです。そのような兄弟の姿を見て、17節には「これを聞いて、ヨセフは涙を流した。」とあります。どうして、ヨセフは涙を流したのでしょうか。
それは、ヨセフの方ではとっくの昔に、兄弟たちの罪を一つ残らず許していたのに兄たちが、そのことを解ってくれていなかったからです。
ヨセフは兄たちが自分にした仕打ちを全て許していたのです。それにもかかわらず、兄弟がそれを信じないで、このような申し出をして、悩み苦しんでいる姿を見て、ヨセフは泣いたのです。
この兄弟たちとヨセフの関係は、私たちとイエス様との関係に似ているのではないでしょうか。
ヨセフが、兄弟たちの罪を一つ残らず許していたように、イエス様は、全人類の贖いとなって下さり、十字架にかかって死んでくださったのです。そして、イエス様はあの十字架上で、「完了した」と贖いが完成したことを宣言してくださいました。
それにもかかわらず、この世の人は、それを信じないばかりに、いつまでも、自分の罪や良心のかしゃくに悩み苦しんでいるのです。そのようなこの世の人たちの姿を見て、イエス様も涙を流しておられるのではないでしょうか。
イエス様は、十字架の血潮によって、救いの業を完成してくださいました。その素晴らしい恵みを信じて受け入れるだけしか救いの道はないのです。
その救いの道を知らずに自分の犯してきた罪に対して良心のかしゃくに苦しんでいる人が、私たちの廻りにもたくさんおられるのではないでしょうか。その方々に、この救いの恵みをお伝えしましょう。
(2)最善を行われる神
18節で、兄弟たちは、ヨセフの前にひれ伏して「このとおり、私どもはあなたの僕です。」と言っています。ヨセフが17歳の時に見た夢が、ここで最終的に実現したのです。けれども、ヨセフは、このことが、自分によるものではなく、神様によるものであることを誰よりもよく知っていました。
そこで、ヨセフは兄弟たちにこう言うのです。19~21節をご覧下さい。
「ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
特に、20節をご覧下さい。
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
このヨセフの言葉は、ヨセフの生涯を良く表している言葉です。
ヨセフは、この言葉を言ったときに、自分の歩んできた、道程を思い出したのではないでしょうか。
兄たちに、奴隷として売られたこと。
エジプトで、ポテファルに心から仕えますが、その妻に誘惑され、その誘惑を拒否したために、投獄されてしまいます。
また、牢屋の中で、神様からの知恵をいただいて一緒に投獄された料理人の夢を解き、その通りに一人の料理人は、牢屋から出ることが出来ました。その時に、無罪で投獄されている私のことを伝えてくださいと頼むのですが、その料理人は、すっかりそのことを忘れてしまって、2年も投獄の期間が伸びてしまいます。
この世的に考えると、本当に不幸の連続と思えるような出来事ですが、神様は、それらすべてのことを用いてくださって、最善の御業を成してくださったのです。
そして、この神様は、ヨセフの生涯だけでなく、私たちの人生の最初から最後まで導いて下さるお方です。この神様にわたしたちの人生をすべておゆだねしていくならば、神様が私たちの人生を必ず最善にして下さるのです。
そのことを、パウロはローマの信徒への手紙8章28節でこう語っています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私たちには、将来のことはわかりません。けれども、神様はすべてをご存じで、今は、どうしてこのようなことが、私のみに起こるのだろうと思うような悪をも用いて下さって、素晴らしい「最善の御業」を成してくださるのです。
神様は、万事を益としてくださるお方、最善以下のことをなさらないお方です。
神様にあっては、辛い経験も、こんなにことがなければいいのにと思うような、不条理な出来事も、全てが益に変えられるのです。
この神様にすべてをおゆだねして、わたしたちも素晴らしい人生を歩ませていただきましょう。
(3)顧みてくださる神
ヨセフの生涯は、神様を人生の支配者として仰いでいくならば、複雑な人間関係も和解へと導かれていくということが、書かれています。
21節の後半に「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」とありますが、この「優しく」という言葉は、「彼らの心に」という意味があるそうですが、この言葉から、ヨセフの心と兄弟たちの心が一つにされていることが解ります。
ヨセフは、そのような兄弟たちに、自分の死が近いことを告げて、こう言います。
24~25節をご覧下さい。
「 ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
ここで、ヨセフは「神は、必ずあなたたちを顧みて下さいます。」と二度も繰り返しています。
この「必ず顧みる」という言葉は、強い表現で、「覚える」とか「訪れる」という意味があります。ここでヨセフは、いつも神様が自分の人生を覚えて下さり、自分の生涯の大切なときに神様が訪れて下さったことを、感謝を持って、心から兄弟たちに証ししたのです。
そして、これはヨセフの生涯の証しというだけではありません。このことは「創世記」全体の言おうとしていることです。「初め」をつかさどっておられる神様への信仰の告白と賛美が「創世記」の出発でした。そして、神様は、天地万物を造られただけではなく、一人一人を覚えてくださり、一人一人の生活の場に訪れてくださって御業を行ってくださいました。その創世記が終わるにあたって、ヨセフによって「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。」と告白しているのです。
神様は、この世の初めから終わりまで、全てを支配しておられる大能のお方です。
そして、そのお方の大能は、私たちには計り知ることが出来ません。
ある時、最大の教父であり、大神学者であるアウグスティヌスが、神様の大能について、しきりに考えながら、海辺を散歩していたそうです。ふと気が付くと、岸辺に一人の少年が小さなさじで一生懸命に海水をくんで、それを陸に注いでいました。
アウグスティヌスは、その少年に「何をしているの」と尋ねると、「海の水を全部くんでしまおうとしているのです」と答えました。そこで「そんな小さなさじで、海の水を全部くむことはできないことではありませんか。」と聞くと、少年は「私は神様から使わされた天の使いです。あなたが神様の大能について知り尽くそうとするのは、私が小さなさじで大きな海の水を全部くんでしまおうとするよりも、もっと難しいことです。」と言ったかと思うと、たちまち姿が消えてしまったという伝説があります。
この世の初めから、この世の終わりまで全てを支配しておられる天地の創造主が、私たちを顧みてくださるのです。
そして、私たち一人一人の人生を覚えてくださり、私たちの生活の中にまで、訪れてくださって、万事を益としてくださるお方なのです。そのお方に、私たちの人生を全ておゆだねできるということは、本当に素晴らしいことではないでしょうか。
ヨセフは、百歳で亡くなり、エジプトで彼のなきがらに薬が塗られ、防腐処置がなされて、ひつぎに納められました。
けれども、それで終わりではありませんでした。25節でヨセフが「わたしの骨をここから携えて上ってください。」と言っています。
それは、このエジプトの地が最終目的地ではなく、約束の地こそがヨセフの目指すところだということです。
私たちにも必ず、人生の終わりの時がやってきます。けれども、わたしたちが、この世での人生の終わりの時を迎えても、「神が、必ず顧みてくださるお方」であることを信じているならば、それは決して本当の終わりではないのです。私たちには約束の地が約束されているのです。
私たちを顧みて下さるお方が、私たちの人生の最初から最後まで覚えていて下さるということは、何と幸いなことでしょうか。
創世記50章25節を読みましょう。
「それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
神様は、私たちを、生まれたその時から、最後の一息まで顧みてくださるお方です。このお方に心からの感謝と賛美をおささげしましょう。