今年の山形南部教会の御言葉は、詩編81編11節です。
今日はまず、この御言葉を、聖書を開いて読んでみましょう。
「わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」
ここに、「あなたがたをエジプトの地から導き上った神。」とあります。
「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」と素晴らしい祝福を約束してくださった神様は、「あなたがたをエジプトの地から導き上った神。」です。
これは、「出エジプト」の出来事を現しています。
そこで、今年の御言葉から「出エジプト」の講解説教をするように導かれました。これから、礼拝で出エジプトを通して、主の御声を聞かせていただきましょう。
「出エジプト記」は、いつ、誰が書いて、今のような形態になったのか不明ですが、一番有力な説は、モーセによる大量の文書によって編纂されたという説です。
1章から19章までは、イスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地カナンに向かう出来事が詳しく書かれています。
この出エジプトの出来事は、イスラエルの歴史にとっても、聖書全体において語られる神様の救いの計画においても、最も重要な出来事です。
そして、それは、新約の光に照らすと、私たちの救いを表すものでもあります。罪の奴隷であった私たちが、イエス・キリストの十字架の血潮によって、救われ、神の子とされました。
みなさんは、救われた時の喜びを覚えておられるでしょうか。
私は、クリスチャンホームに産まれましたから、幼い時に通い、中学生になる前のイースターに洗礼を受けました。その時の、喜びも忘れることが出来ませんが、高校時代に自分の罪に悩み、どうすることも出来なくなってしまった時、こんな罪深いわたしの罪のために、イエス様が十字架にかかってくださったということを心から信じた時の喜びを、今でも忘れることが出来ません。
みなさんにも、救われた時の忘れられない喜びがあったのではないでしょうか。その原点に立ち返って、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」 と約束してくださった。神様の素晴らしい祝福に与るものとさせていただきましょう。
今日から、その出エジプト記から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
1章の1節に、イスラエルの子でエジプトに移住した者の名前が、記されています。
1~5節
「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。」
ここに書かれているように、イスラエルの子たちで最初にエジプトに移住したのは、70人でしたが、神様は彼らを祝福してくださり、ヨセフが死んだ後も、イスラエルの人々は、子どもを産んで、「おびただしく数を増し、ますます強くなって、国中に溢れた。」と6~7節には書かれています。
そのような、イスラエルの民に、大きな試練が襲ってきました。
しかし、その試練の中で、神様は素晴らしい御業を成して下さったのです。その神様の祝福について3つの事を見ることが出来ます。
(1)新しい王による試練の中の祝福
ヨセフは、エジプトの大臣となり、この国を治めるようになりましたが、そのヨセフの死に、治世も変わり、ヨセフを知らない新しい王様が、エジプトを支配するようになりました。
このようにして、ヨセフでなければ、治められなかった時代は終わって、ヨセフの家族、イスラエルの民と言えば目の上のこぶのように、忌み嫌われる時代になったのです。
その時に、新しいエジプトの王は、イスラエルの民を警戒してこう言います。
9~10節
「国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
ヨセフを知らない王が新しいエジプトの王に即位してから、イスラエルの民は大きな危機を迎えました。
しかし、どんな試練が襲ってきても神様の、祝福は変わることがありませんでした。
7節には
「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」 と書かれています。
そこで、新しい王は、さらに強制労働の監督を置いて、重労働を課して虐待しました。
それでも、神様の祝福は、豊にイスラエルの民に注がれました。
12節には、
「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった・・・」 と書かれています。
神様は、神の子が試練に遭う時、その試練に増される祝福を与えて下さるのです。試練が大きければ、大きいほど神の恵みは、それに増して大きく与えられるのです。
岩橋武夫さんのお証しです。岩崎武夫さんは、1898年3月16日、大阪で生まれ育ちました。彼は、早稲田大学に入学し、すべてが順調にいっているかのように思えました。ところが、1917年の春のことです。網膜剥離によって彼の目は見えなくなってしまったのです。
彼は、大変悩み苦しみ自殺を試みますが、愛する母親の「何でもいいから生きていておくれ。お前に死なれては、どこに生きがいがあるものか。」と言う言葉によって、目覚めさせられ、母親の愛に応えて新しく生きていこうと決心をしたのです。
1918年、彼は大阪私立盲学校に入学しますが、この時、聖書に出会い、ヨハネによる福音書9章にある「生まれつき盲人」の話しを通して目が開かれたのです。
ヨハネ9:1~3
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
この御言葉を読んだ時、岩橋さんは、今の苦しみは、苦しみに終わるのではなく、神の業が行われるためであると、希望が与えられたのです。
彼は、この時「苦しみや失敗、悲しみや病気、罪までも試練の現実は、過去の結果ではなく、実は明日へのより良き、将来のために用意された者である。」と悟り、イエス・キリストを信じて、母親と一緒に洗礼を受けたのです。
岩橋武夫さんは、その後、社会活動においても、信仰においても活躍され、中でも身体障害者福祉に力を注ぎました。そして、1934年12月18日、アメリカのヘレン・ケラーを訪問し、日本の障害者支援体制の呼びかけを要請し、1935年には、大阪に世界で13番目になる日本ライトハウスを創設したのです。
さらに、賀川豊彦を中心に展開されていた「神の国運動」に加わり、日本各地で講演活動を行い、信仰と伝道に関する著作を残しました。
1954年10月28日に、彼は天に凱旋しますが、その墓碑には、こう書かれているそうです。
「その解き放つ心・・・日本の盲人の世界に光輝く、タケオ・イワハシ」(ヘレン・レラー)
岩橋武夫さんは、人生の暗闇を通りましたが、そこにも、神様の祝福がありました。というよりも、そこを通らなければ、得ることの出来ない祝福をいただいたのです。
11~12a節
「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった・・・・。」
イスラエルの民は、エジプトの新しい王に、虐待されましたが、そこにも神様の祝福がありました。そして、その苦難を通して、神様の素晴らしい繁栄と祝福に与る事が出たのです。
私たちの人生にも、試練や苦難が襲って来ることがあります。しかし、神様は、私たちを愛しておられます。そして、その試練や苦難は「神の栄光が表されるため」のものです。その苦難や試練を通らなければ、得ることの出来ない祝福を与えてくださるお方なのです。
ヘブライ12:11
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
(2)神を畏れた助産婦
エジプトの王は、そのように祝福されたイスラエルの民を、忌み嫌うようになり、イスラエルの民を酷使し、「粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって、彼らの生活を脅かすようになりました。
そこで、エジプトの王が考えたことは、ヘブライ人がこれ以上増えないように、助産婦に、子どもが生まれたら性別を確かめさせ、男なら殺し、女ならば生かしておくという恐ろしい政策を考えたのです。
そこで、まず、一人シフラと、もう一人はフアとい助産婦にそのことを命じました。
ところが、この二人は、神を畏れ、王様の命じたことに背いて、男の子をも生かしておいたというのです。
17節にその事が書かれています。
「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」
二人の助産婦が、神様を畏れるが故でした。そのように神を畏れて、人を恐れない者を神様は必ず祝福してくださるのです。
箴言16:6
「慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。」
韓国のある病院での出来事です。この病院は、立つか倒れるかという深刻な時代を迎えていました。そこで、その日、病院の職員全員に、ストライキを行うようにと指令が下ったのです。それに逆らうことは、病院の経営者に背くことですから、誰の目から見ても、将来の出世の道を妨げる最も愚かなことでした。
ところが、クリスチャンのアン・スヒョンという一人の将来有望な研修医がいました。彼は、その日祈の中で、病院に残る決心をしたのです。
彼は、みんなに批判されましたが、彼は、医者は患者のそばにいてこそ意味があるという信念がありましたし、それが神様の御心だと確信していたのです。
彼は、人の目と評価を気にしませんでした。その日は、徹夜をして、食事の時間も惜しんで、ガン病棟をまわりました。
患者さんは、彼に心から感謝して、彼が看たガン末期の高齢の女性は「この若い医者は、私を助けてくれた。」と言い広めたそうです。
その医者は、1日の業務の後、患者を一人一人訪ね、眠っている患者たちの枕元で、その患者さん達が生き抜くことが出来るように、切に祈ったのです。
そして、彼のこのような行動は、患者さんたちを癒やし、起き上がらせるという奇跡を生んだというのです。
その彼の机の前には、こう書いた紙が張っているそうです。
「CORAM DEO」コラム・デオというラテン語です。それは「主の御前で」と言う言葉です。
「神の御前に」「神の御前に」という言葉を読む度に、彼には、神様を畏れ敬う心が与えられました。
「神の御前に」どうあるべきかという問いかけが、彼を、たとえどのような処分を受けることになったとしても、人を恐れず、患者さんを愛し、いのちを守るという、行動をさせたのです。
私たちはどうでしょうか。「神の御前に」という思いが、私たちを神様に心を集中させ、神を畏れ敬う心を与えるのです。
17節
「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」
王の命令に背いてまで、嬰児虐待の罪を犯さなかったシフラとフアのように、私たちもどのような人をも恐れずに、神様だけを畏れ、従う者とさせていただきましょう。
(3)助産婦の祝福
神様は、主を畏れる者を愛して、豊かな祝福をもって報いられます。
この時、権力者であるエジプトの王の知恵よりも、平凡な助産婦の知恵の方が、まさっていました。
二人の助産婦が、ヘブライ人の男の子を殺さないのを知って、助産婦に「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」というと、彼女たちは堂々とこう答えました。
19節
「助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
そのように神様を畏れる助産婦には、知恵が与えられ、神様は、20~21節には、こう書いています。
「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」
神様は、助産婦達が、「神を畏れていたので、」彼女たちに子宝を与えられました。彼女たちの家族が祝福されたのです。
イスラエルの民もまた、二人の助産婦のお陰で、数を増し、甚だ強くなったのです。
クリスチャンの一人の信仰は、家庭だけでなく、国全体に祝福をもたらすのです。
この二人の助産婦の信仰を黙想しているうちに、杉原千畝(ちうね)さんのことを思い出しました。彼は、ロシアの正教会で洗礼を受けましたが、早稲田大学在学中に、早稲田教会に通っていました。
杉原千畝さんは、大学でロシア語を学び、その後満州に赴任して、ロシア語にたけた優秀な外交官として活躍していました。
その後、リトアニアの日本領事館になって、しばらくした1940年のある日のことです。ナチスドイツ軍からポーランドに逃れてきた大勢のユダヤ系難民が、日本領事館にやって来て、通過ビザの発行を求めました。
このままでは、ナチスドイツ軍に捕らわれて、ユダヤ人は、命の保証がありませんでしたから、杉原千畝は、何とがビザを発行したいと思いました。
しかし、日本の外務省に連絡すると、ビザの発行の条件を厳格に守るようにという返事しか返って来ません。
その時です。妻の幸子さんが、憔悴(しょうすい)しきった子どもたちの姿を見た時に、一つの旧約聖書の御言葉が、心に響いたのです。
哀歌2:19
「立て、宵(よい)の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て/水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ/あなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。」
その時に、千畝さんは、本国の命令に背いても、自分の責任でビザを発行することを決断したのです。ソ連政府や日本から再三ビザの発行を止めるようにと警告を受けましたが、彼は、一ヶ月間寝る間も惜しんで、ビザを書き続けました。
さらに、ベルリンに異動命令が出ると、汽車の窓から渡されたビザにサインをし続けたのです。
そのために、彼は、外交官を止めさせられてしまいますが、彼のこの行動によって、何と2000世帯、6000人のいのちが救われたのです。戦後、杉原千畝のこの行動は、大きく評価され、国際的にも賞賛されるようになりました。
杉原千畝は、この緊急事態で、国をも恐れずに、神を畏れ敬い、ユダヤ人達の命を守ったのです。
20~21節
「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」
21節に 「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」 とあります。
この助産婦のように、この世の権力や、偶像を恐れるのではなく、ただ「神を畏れ」
敬って、「民は数を増し、甚だ強くなった。」と書かれている素晴らしい祝福に与らせていただきましょう。
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