今日は、母の日です。母の日は、1905年5月9日アメリカのフィラデルフィアにに住む少女「アンナ・ジャービス」が、愛する母を失った時、教会にお母さんが大好きたった白いカーネーションを飾ったことから、始まりました。
やがて、この母の日が、アメリカ全体に広がり、1914年当時のアメリカの大統領「ウィルソン」5月の第二日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日となりました。
アンナが、その時に飾った花が、白いカーネーションだったことから、お母さんが天に召された方は、白いカーネーションを、生きておられる場合は赤いカーネーションを飾るようになったそうです。
日本では、1915年に教会で行われるようになりました。そして、クリスチャンの創業者、森永製菓がその働きを、日本全国に広げて今日に行ったいるそうです。
お母さんには、いつも感謝の心を忘れてはいけないと思いますが、つい感謝を忘れてしまう私たちにとって、この日は、とても大切な日だと思います。
誰でも、そうだと思いますが、特に幼子にとって、お母さんというのは、特別な存在です。お母さんのお腹の中から生まれてきたのですから、当たり前と言えば、そうですが、赤ちゃんが、お腹がすいたり、眠たくなったり、困った時に必ず探すのが、お母さんです。
そして、お母さんが一緒にいると、安心して、泣き止んで、落ち着きを取り戻します。
今日の中心の御言葉は、12節です。
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
お母さんは特別な存在ですが、私たちを造られ、私たちを独り子をも惜しまずに与えて下さるほどに、愛してくださる神様は、私たちにとって誰よりも特別な、かけがえのない存在です。そして、私たちにとって一番素晴らしい事は、この神様が共にいてくださるということです。
今日は、この御言葉を中心に、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。
モーセは、ミデアンに住むようになって、40年近い月日が経ちました。エジプトの王女の子どもとして40年過ごしましたが、富も権力もすべてを失って、ミデアンのエテロの元で羊飼いとして、荒野で40年間過ごしたのです。
この40年間は、モーセにとって、とても大切な時でありました。それまでは、王女の子どもとして、自分の力で何でもできると思っていましたが、すべてを失い、自分の弱さを知らされたモーセはただ、神様だけを頼りにする、謙遜な器に造り変えられたのです。
そんなある日、今まで経験のしたことのない出来事に遭遇しました。その出来事を通して、3つの事を学びたいと思います。
(1)あなたの立っている場所は聖なる場所である
1~2節
「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」
モーセが、羊の群れを荒野の奥に追っていき、神の山ホレブに行きました。すると、柴が燃え上がっていて、その中に主の御使いが現れたのです。モーセがそれを見ると、柴は燃えているのに、その柴は燃え尽きずにいつまでも燃えていたのです。
この燃え尽きない柴は、抑圧と苦しみの中で叫んでするイスラエルの民に取ってみれば、決して消えることのない、救いの象徴です。
そして、エジプト人に取ってみれば、さばきの象徴です。
モーセが、不思議に思って、3節で「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」と言って、近くに近づくと、、「モーセよ、モーセよ」 という神様の声が聞こえました。モーセが「はい」と答えると、神様はこう言われるのです。
5節をご覧ください。
「神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
ここで、神様はモーセに「足から履物を脱ぎなさい。」と言われました。靴というのは、モーセがこれまでずっと歩いてきた、全人生を意味します。くつを脱ぐということは、神様に出会う前のすべての人生を脱ぎ捨てて、全く違う人生を歩み出しなさいということです。神様に従おうとするなら、世のすべてのものは捨てなければなりません。この世の力や習慣では、神様の使命を果たすことが出来ないからです。
その後で、神様は、こう言われます。「あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
モーセの立っている場所は、特別な場所ではありませんでした。いつものように羊を連れて行く、荒野でした。しかし、その荒野で主とお目にかかる時、その場所が「聖なる土地」になるのです。
私たちは、今日、礼拝に神様との出会いを求めてきました。そして、ここには、確かによみがえりの主がおられます。ですから、この場所こそが「聖なる場所」なのです。
そして、その聖なる場所に立つために「足から履き物を脱ぎなさい」と命じられるのです。過去の肉的なすべてを脱ぎ捨て、まったく聖潔られた新しい人生を歩み出しなさいと言われるのです。
このように、神様に近づくためには、まず、一切の汚れを取り去って、潔くならなければなりません。
ヘブル12:14
「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」
Ⅰペトロ1:16
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。」
と書かれている通りです。
モーセは、その神様の御声を聞いた時に、その御言葉に従って、くつを脱いで、神様の御声に聞き従ったのです。その時、モーセは神様との出会いを通して、神の人になりました。
「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
神様は、今日、私たちにもそう語っておられるのではないでしょうか。足から履物を脱ぎなさい。」神様の前で、自分の靴を脱いだモーセのように、自分の過去の経験や習慣をすべて脱ぎ捨てて、ただ神様だけを頼りにするようにと、神様は語りかけておられます。
また、「あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」と言われたように、神様の御前に立つ時、私たちは潔くなければなりません。今、私たちの心の中に、神様に喜ばれない思いや罪が示されるならば、罪を悔い改めて、主イエス様の十字架の血潮によって聖潔ていただきましょう。それこそが、神様にお目にかかる一番大切なことです。
(2)叫び声や痛みを知っていて下さる主
7~10節
「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
神様は、モーセがミデアンの地に行ってから40年の間も、イスラエルの民を忘れておられませんでした。イスラエルの民の苦しみをすべて知っておられ、彼らの叫ぶ声を聞かれたのです。
神様は、イスラエルの民の叫びを聞かれたので、彼らをその苦しみから救い出し、乳と蜜の流れる地に導かれ、アブラハムと結ばれたその約束を果たすと語られたのです。神様は、イスラエルの民を救い、いのちの地へと導くために、モーセを選ばれました。
私たちの周りにも、イスラエルの民のように、苦しんでおられる方、「助けてください。」と叫んでおられる方が、おられるのではないでしょうか。神様は、その苦しみを見ておられます。そして、その叫びを聞いておられるのです。そして、その人々を救い、永遠の命に導くために、モーセを選ばれたように、ここのおられる一人ひとりを必要としておられるのです。
ここで、神様はイスラエルの民のことを「わたしの民」と言っておられます。神様がイスラエルの民をどんなにかけかえのない大切な存在だと思っておられるかが、よく分かります。そしい神様が「わたしの民」とおっしゃるイスラエルの子孫に立てた計画は、素晴らしいものでした。
神様は、イスラエルの民にとって最も必要なものは、エジプトからの救いであり、本当の自由である事を知っておられました。ですから、「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出」す。そして、美しい広々としてすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナンに導くと約束されたのです。
昨日、みなさんに祈っていただいた、上大岡キリスト教会の献堂式が行われました。
一階は「めぐみ保育園」15人の子どもたちが集っています。二階が教会で、那須 悟兄の作った、十字架と講壇が用いられています。
先日も、お話ししましたが、この献堂式を迎えるまでに、お金も経験も人材も何もないところからの出発でしたから、何度も祈りに追い込まれました。
去年の秋、横浜市の認可が与えられるかどうか解らなかった時、私たちはだだ、祈るしかありませんでした。そして、祈が答えられて認可が降りたのです。
また、去年の12月には、工期があまりにも短いので、一度は「菊地組に断られてしまいました。」その時、委員長の小寺 徹先生は、黙って5分くらい側で祈っていたそうです。すると社長が「社運にかけてやりましょう。」と言って工事が想像もできないほど急ピッチで進められて3月31日に引き渡し式を行うことができました。
また、保育園を始めるといっても、園長も保育士さんも働き人がいませんでした。そこでも、みんなで祈りましたが、不思議なように、園長や、保育士さん、調理師さんや、事務の方が与えらて、保育園を4月1日から始めることか゛出来たのです。
そして、お金もなかったのですが、支払いのその日に、横浜銀行から4000万円の融資を受けることが出来たこと。まだまだ、ありますが、どれ一つを取ってみても神様の奇跡でした。神様が私たちの祈りを聞いてくださり、御業を成して下さったのです。
そして、このような奇跡を成して下さった神様は、上大岡キリスト教会とめぐみ保育園を通して、上大岡の地の救いのために豊かに用いてくださる事を信じています。
7~
「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
神様は、私たちの祈りに耳を傾けてくださり、御業を進めてくださるお方です。
(3)わたしは必ずあなたと共にいる
神様は、モーセに7~10節で、神様の広大な御計画を示されました。
ところが、モーセは、11節でこう答えるのです。
「モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
ここで、モーセは、「わたしは何者でしょう。」と言うのです。モーセは神様の声を聞いた時に、まず、自分を見てしまいます。
「わたしは何者でしょう。」
モーセは、ファラオの元に行きと聞いた時、40年前、自分の同胞を救おうとして、自分の力でエジプト人を殺して、砂の中に埋めてしまい、エジプトを追われた大失敗を思い出したに違いありません。
また、今は、富も権威もすべてのものを失って、自分の力のない弱さを覚えて、尻込みをして、神様から与えられた大切な使命を辞退しようとしていたのです。
ムーディーは、この時のモーセのことをこう言っています。
この時、モーセは「わたしは何者でしょう。」と言う代わりに「わたしの神は如何なるお方か。」と、そのまなこを自分に目を注ぐのでなく、神様に注ぐべきだった。」
「わたしは何者でしょう。」と自分に目を注ぐと、過去の失敗や、自分の弱さ足りなさを感じて、神様に従うことは出来ません。
しかし、「わたしの神は如何なるお方か。」と神様にそのまなこを向けるならば、神様は全知全能のお方です。その神様が、命じられるのですから、必要な知恵や力を必ず与えて下さるのです。
神様の命令にためらうモーセに向かって、神様はこうおっしゃいます。
12節
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
「わたしは必ずあなたと共にいる。」神様と共にいる1人は、全世界の人々よりも強いからです。
神様が、わたしたちを遣わされる時、必ず私たちと共にいて下さいます。そして、その事こそが、私たちを遣わしてくださる最高のしるしです。
マルチン・ルターは、宗教改革を起こした時、カトリック教会から破門されてしまうのですが、ローマのサクソニー侯は、ルターのことを保護して、ルターは、そこで聖書の翻訳に没頭しました。
そのルターに対して。ローマカトリック教会の司教が「サクソニー侯が、もしあなたを保護することを辞めたとしたら、あなたは何処に身を寄せるつもりか」と聞かれた時、マルチン・ルターは、迷わずに「神の御盾の陰に身を寄せます。」と答えたそうです。
この世のどんな強い権威よりも、「わたしは、必ずあなたと共にいる」と約束してくださる神様がおられるならば、恐れることはないのです。
12節
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
この御言葉は、山形南部教会が40周年を迎えた時に与えられた御言葉です。
山形南部教会が、40周年を迎えた時の事です。
私は、山形南部教会のビジョンを求めて、3日間断食をしました。その2日目に、片手に聖書を、片手にポカリスエットを持って、山形神室に登りました。
その時、登る前に祈の中で与えられたのが、この出エジプト3:12でした。
12節
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
そして、しばらく行くと、6月だというのに、さなぎから出たばかりの、蝉が道に落ちていたのです。かわいそうだと思い、肩に載せて山に登りました。そして、前山、ハマグリ山、とんがり山、山形神室と山を登りました。そして、引き返して、帰ってきたのです。途中で、蝉がいなくなったので、何処かにとんでいったのだろうと思っていました。ところが、ふもとに戻ってきた時です。ごそごそ、と襟のところで何かが動いているのです。何だろうと思って、とって見ると、あの最初に行く時に肩に乗せた蝉だったのです。
この蝉は、私が、山を登る時も、尾根歩きをしながら景色を楽しんでいた時も、頂上について賛美を歌っていた時も、下り坂で足が、ガタガタ震えて大変だと思っていた時も、一緒にいたのだと思うと感激しました。
そして、登る前に祈の中で与えられた御言葉を思い出したのです。
12節
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
神様は、あの年「愛の教会120人教会を建てよう。」とビジョンを与えて下さいました。それから、15年間いろいろなことがありました。
急坂を登るような苦しいけれども勢いのある時も、尾根歩きをしながら景色を楽しむように神様の恵みを数えるような時も、下り坂のように教会を離れる方がおられて、この先どうなっていくのだろうと悩む時もありました。
ただ、一つ言えることは、「わたしは必ずあなたと共にいる。」 という神様の約束は、いつでも、どんな時でも変わることがなかったということです。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
神様が、私たちを遣わされる時、必ず私たちと共にいて下さいます。このことこそ、神様の約束です。だから、自分を見つめず、また、周りの状況に一喜一憂せず、神様の御言葉だけに信頼して歩んでいきましょう。
12節
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
みなさんは、今日、この礼拝から遣わされようとしています。まず、私たちのくつを脱いで、私たちの心と生活を聖潔ていただき「聖なる場所」に立ちましょう。
今、多くの人々が、真の神様を知らずに、悩みや苦しみの中にあります。また、これから先、人生をどのように歩んでいったら良いのか解らずに、さ迷っています。
そのような人のために、神様はあなたを必要としておられるのです。
神様が、モーセを遣わしたように、神様は、この世へあなたを遣わそうとしておられるのです。主の御声に聞き従って、このところから遣わされていこうではありませんか。
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