5/17 主日礼拝

「わたしはあるという方」出エジプト3:13~22

  朝日新聞の投稿欄に、星野富弘さんの作品を見て、励まされました。と大学の教授が投稿しているのを読みました。星野富弘さんは、若い頃に体育の教師をしていましたが、体操の模範演技をしている時に、鉄棒から落下してしまい、首から下が全く動かなくなってしまいました。しかし、そのような苦しみの中で、イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、生きる希望が与えられて、口に筆を加えて、絵を画き、それに詩を添えるようになりました。その作品が、多くの人の励ましや、慰めになっているのです。

 星野富弘さんだけではなく、瞬きの詩人として知られている水野源三さんや、人生の多くを病床で過ごした、「氷点」「塩狩峠」「道ありき」などたくさんの小説を書いた、三浦綾子さんなどは有名ですが、神様は、そのような弱さをもっておられる方を用いて、神様の素晴らしい栄光を表してくださるお方なのです。

 今日は、ミデアンの地で、自我が砕かれ、自分の弱さや足りなさを知らされたモーセを通して、神様の御声を聞かせていただきましょう。

今日の中心の御言葉は13節です。

「 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

  神様は、イスラエルの民の痛みを知られ、彼らの叫びを聞きかれました。そして、イスラエルの救いために、モーセにファラオの所に行くように、命じられます。

 しかし、モーセは、40年間ミデアンの地で、羊飼いをして、自分の弱さや足りなさを良く知っていましたから、その神様の言葉には、すぐに従うことは出来ませんでした。

 そこで、モーセは、13節で、神様にこう言うのです。

「モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 もう40年も経っているのです。もし、わたしが、イスラエルの人々のところに行って、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』 としても、一体お前は何者か、お前を遣わした人の名前は何か、と聞かれるに違いません。その時に何と答えたら良いのですか。と尋ねたのです。

 その質問に対する神様の答えから、3つの事をお話ししたいと思います。


(1)モーセを遣わした方の名前

 この3章には、神様の名前が三つ書かれています。

①「わたしはある」

14節

「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

  この「わたしはある」と言う「ある」という言葉は、ヘブル語の動詞の未完了一人称単数形です。そして、この「ある」という言葉から「ヤーウェ」とか「エホバ」という名前が用いられるようになったのです。

 そして、この「わたしはある」という言葉は、過去形にも現在形にも未来形にも用いられる言葉です。ということは、神様は、永遠の昔から、現在、そして永遠の未来まで存在されるお方であるということです。そして、この言葉の中には、神様は他の何者にも依存しない、唯一のお方であるということが表されています。

 よく、未信者の方と話していると、「神様が天地創造をされたと言うけれども、その神様は誰が造ったの?」と聞かれることがありませんか?その答えがここに書かれているのです。「わたしはある」。私たちの信じてる神様こそが、永遠の昔から、永遠の未来まで、すべてを支配しておられる唯一のお方なのです。

 そして、このお方は、私たち人間と遠く離れたお方ではありません。12節で、モーセに「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と約束されたように、モーセと共におられる方であり、イスラエルの救うためにイスラエルの民を遣わされるお方なのです。

 そのお方は、私たちをも愛し、わたしたちを救ってくださるお方なのです。「わたしはある」と言われる神様が共におられることほど、素晴らしい事はありません。

②アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

15節

「神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」

  神様は、神様の命令に躊躇しているモーセに対して、イスラエルの民をエジプトから救い出すのは、先祖たちと結んだ契約の故である事を、もう一度告げられました。

「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」

  ここで、アブラハムの名前だけでなく、イサク、ヤコブの名前をあげているのは、契約が、ずっとイスラエルの民に継続していることを表すためです。

 そして、イスラエルの民とモーセも、この神様との契約関係の中にあるのです。

 そこで、神様は、モーセを遣わすにあたって、モーセ自身にもその事を伝え、イスラエルの民にその事を伝えるように命じられたのです。そうすれば、確信をもって働きにあたることが出来るからです。

③ヘブライ人の神

18節

「彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』

  ここに3番目の、神様の呼び方が、書かれています。ここに「ヘブライ人の神」と書かれていますが、これは、ファラオが、イスラエルの神を呼ぶ時に使っていた呼び名です。ファラオにとってみれば、イスラエルの神は、へブライ人という、一つの民族の神に過ぎませんでしたが、実は、先程お話しをしましたように、神様は1番目の名前のように「わたしはある」と呼ばれるお方、永遠の昔から、永遠の未来まで支配しておられる唯一の神様です。

そして、2番目にお話しをしたように、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」契約されたことを決して、破ることのない、真実で愛のお方です。

 この永遠、無限の神様に比べるならば、当時、大きな権力を持っていた、エジプトの王ファラオといえども、比べ物にならないほど小さな存在であることが解ります。

 

 これらの言葉は、モーセにとって大きな励ましと、慰めとなる言葉でありました。そして、この、「わたしはある」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が、私たちが、この世に遣わされて行く時も、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と約束通りに私たちと共にいて下さるのです。


(2)行うべき事を教えて下さる神様

16~17節

「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。17 あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。」

 神様は、ここで、モーセが成すべき事を語られました。まず、エジプトに行ったなら、イスラエルの長老たちを集めなさいと語られます。それは、大切な神様の御心を伝えるためでした。

 そして、そこで語るべき事も神様が、モーセに教えて下さったのです。まず、長老たちに、『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。』と語るように命じられました。

 この言葉を聞いた時、イスラエルの長老たちは、神様がモーセを遣わしてくださったことを信じるに違いありません。そして、これから、神様がイスラエルの民にされようとしておられる、壮大な御計画を伝えるようにモーセに命じられたのです。

「わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。17 あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』

  モーセは、この神様の言葉を聞いた時に、勇気を与えられたに違いありません。神様が、成すべき事、語るべき事を教えて下さったからです。

 そして、神様が語られた通りに行うならば、長老たちが集まり、心を開いてモーセの語る言葉に耳を傾け、これから行われる出エジプトの御計画をイスラエルの民が知ることになるからです。


 明治の末、石川県の木津村に、方外(ほうがい)定次郎という青年がいました。

ある冬の夜、仲間とワカサギ漁をしていましたが、寒さのあまり、ほかの漁師たちは引き上げてしまいました。しかし、彼だけは残って、網を下ろしていました。

夜明け頃になって、網を引き上げてみると、ワカサギは捕れませんでしたが、青い表紙の小冊子が2冊入っていたのです。本の表紙には約翰伝(やっかんでん・ヨハネの福音書のこと)と書かれてありました。

本を開いてみると、そこにはこう書いてありました。

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」(聖書/ヨハネ21:6)

 そこで彼は、単純にここに書かれてある通り、舟の右側へと網をおろしてみました。

するとどうでしょう。網を引き上げてみると、普段の4~5倍のワカサギが獲れたのです。彼は、ワカサギの大漁に非常に驚き、この本には、何かあるに違いないと、家に帰ってからヨハネによる福音書を読み続けました。

 そして、当時その村に福音を伝えていた升崎外彦という牧師のところに毎晩通って、イエス様を信じたのです。彼は聖書の人々と同じように、人々を救いに導く者へと変えられたのです。

 神様は、私たちに聖書の御言葉を通して、成すべき事を教えて下さいます。その神様の御言葉を信頼して、その通りに行うなら、神様は素晴らしい御業を成して下さるのです。

 モーセの成すべき事は、神様の言われる通りに従うことでした。

 私たちも、神様に遣わされる時、成すべき事は神様が教えて下さいます。ただ、神様の言われる通りに従えば良いのです。


(3)伝えることを教えて下さる神様

 神様は、モーセに、イスラエルの民に対して、成すべき事を示されました。

   しかし、それだけではありませんでした。そのイスラエルの長老を伴って、エジプト王ファラオのところに行き、そこで、語る言葉も事細かに教えられたのです。

 まず、18節では、ファラオのところに行き、『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』と語る言葉を神様はモーセに教えられました。

 それだけではありません。その言葉を聞いても、ファラオは、心を頑なにして、イスラエルの民を行かせないことをご存じで、19節でそのことをモーセに伝えています。

そして、20節では、

「わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。」とこれから、様々な奇跡によってエジプトを打ち、ついにファラオもイスラエルを、ついにエジプトから去らせるようになる事も、伝えられました。

 そして、そのエジプトを去る時に成すべき事も神様によって伝えられています。

21~22節

「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。22 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」

 神様は、全知全能のお方です。これから起こるすべてのことをご存じで、その事をモーセに伝えたのです。

 神様は、私たちを遣わされる時、私たちと共にいて語るべき言葉を教えて下さるのです。

 1870年のことです。青年ウィリアム・ブース先生が、夜の集会を終え、東ロンドンの裏街まできたときのことでした。

 そこには、薄暗い道路に、酒に酔いつぶれて倒れてしまっている人たちがたくさんいました。また、暴力団同士のけんかが始まりました。

 ブース先生は、その様子を見ながら、こぶしを固く握りしめ涙を流して、「イエス様、なんというすごいありさまでしょう。まるで地獄です。この人たちはイエス様を知らないのです。どうぞ、私をこの地のためにお遣わしください」とお祈りしました。

 牧師先生たちが大勢集まったときに、ブース先生は立ち上がると、「みなさん、私を東のロンドンのみだれている、汚れた町に遣わしてください」と言いました。牧師先生たちは驚いて、互いに顔を見合わせていまし。そして、一人の老牧師が立つと、「ブース先生、あなたはまだ若いから、そんなことをおっしゃるのです。あの町は暴力団と、酔っ払いの巣のようなところです。あなたが行ったところで、だれがイエス様の福音に耳をかたむけるでしょうか」と言いました。

 ブース先生は、「しかし、神様の命令です。ぜひ、私を遣わしてください」と一歩も引きません。

 水をうったように静かになり、一分、二分と時間が過ぎ去りました。ところが二階の傍聴席で、一人の婦人がすっくと立ち上がりました。「おやりなさい。だれが反対しようが、神様に背くことはできません。私はついて行きます」。あっけにとられた人たちが、その婦人を見ますと、ウィリアム・ブース先生の奥様だったのです。

 やがて二人は、粗末な服を着て、東ロンドンの街角で、聖書を手にしながら、熱心にイエス様の救いについて語り始めました。神様は、その都度東ロンドンの裏町の人々に語るべき言葉を教えて下さいました。やがて、その言葉を聞いた人々の中から、次々に救われる人が起こって、この働きに「救世軍」という名前がつけられ、世界中で伝道されるようになりました。

 このウィリアム・ブースが、「聖潔のしおり」という本の中で、こう言っています。

「聖潔とは、いつでも、どこでも、神が仰せになることを行い、神がなれと仰せられる通りになる、心と生活を言うのである。」

 聖潔というのは、心だけの問題ではありません。勿論、聖潔は、私たちの心が聖霊で満たされることから始まりますが、それが、生活の中で表されなければならないのです。

 モーセは、成すべき事を教えられました。そして、語るべき言葉も事細かに教えられたのです。そして、その御言葉通りに行い、その御言葉通りに語る聖められた器を必要としておられるのです。

最後にもう一度13節をご覧ください。

「 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 神様は、モーセにこれからの手順をすべて説明されて、モーセの働きが必ず成功して、イスラエルの民は、必ず、エジプトから脱出できることを、はっきりと告げられました。 「わたしはある」永遠の昔から、永遠の未来まで、すべてを支配しておられる全知全能の主がこう言われるのですから、間違いがありません。すでに、勝利が約束されているのです。勝利は決まっています。

 後は、モーセが信仰をもって神様の言葉を受け入れ、その神様の言われた通りに、行いさえすれば良いのです。

 神様は、今も、神様のだけを信頼する者を通して、働きをなさいます。私たちは、ただ、神様の御言葉に、忠実に従って、神様の栄光のために用いていただきましょう。



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Illustration by c-awase