今日の中心の御言葉は、31節です
「民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」
神様から、イスラエルの民をエジプトから救い出すように召命を受けた、モーセでしたが、モーセは、すぐにその召命に答えることは出来ませんでした。しかし、神様は、そのモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束を与えられ、杖や、重い皮膚病の奇跡を見せられ、それでも従わないモーセに対して、雄弁な兄弟アロンを助けてとして与えると約束されました。
そのようにして、モーセは、40年ぶりに、エジプトに行く決心をしたのです。
まず、モーセは、その決心を、世話になったしゅうとのエテロのところに伝えに行きました。
18節
モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」すると、エテロは、「無事で行きなさい。」 とモーセを送り出してくれました。
すると、神様は、モーセに、19節で、「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」 と言われ、これからパウロが直面する敵は、以前のファラオではなく、新しいファラオである事を伝えました。
さぁ、いよいよ、モーセは、妻子を連れて帰って行くことになりました。
この出来事から
3つの事をお話ししたいと思います。
(1)神の杖
20節
「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」
モーセが、妻子をロバに乗せて、エジプトを目指して帰って行った時に、モーセの手には、杖がありました。
この杖のことが、20節では「神の杖」と言われています。
この杖は、モーセがミデヤンの地で、羊飼いであったことを表しています。モーセは、この杖によって、羊を導き、正しい道へと導いてきました。羊が、泥の中や谷底に落ちた時には、この杖で、羊を救い出してきました。
また。悪い獣が襲ってきた時には、この杖で羊を守ってきたのです。
ある時は、羊が群れから離れそうになった時や、羊が毒草を食べそうになった時や、いろいろな危険に近づきそうになると、この杖で、羊を安全な場所に引き戻したのです。
そして、この杖で愛する羊たちの数を数えたり、またある時は、羊の毛をこの杖で、かぎ分けて、羊の病気や傷の手当てをしたのです。
なぜ、モーセはエジプトに遣わされる時に、「神の杖」を携えて出かけたのでしょうか。
なぜなら神様が、モーセにその「神の杖」を持たせることによって、今度は、神の民であるイスラエルの羊飼いになるように命じられたからです。
この「神の杖」は、イスラエルの民を苦しめるエジプト人に対しては、苦しみと裁きを与えるものになります。
そして、イスラエルの民にとってみれば、しるしによって慰めと励ましを与える物になります。そして、これから荒野を旅する時にも、モーセが今まで羊の群れを、正しい道に導いてきたように、今度はイスラエルの民を導くために用いられるようになるのです。
神様は、モーセに「神の杖」を持たせることによって、「神の民イスラエルの羊飼い」であることを命じられたのです。
それから、神様は、モーセにこれからの手順について、モーセに伝えられました。
21節
「主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」
まず、モーセはファラオの前で奇跡を行います。しかし、ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの民を去らせようとはしません。すると、モーセはファラオに
『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』と言うように命じられます。
イスラエルは、神様が、全世界の人々を救いの恵みを宣べ伝えるために、最初に選ばれた国民でした。それは、イスラエルに与えられた素晴らしい特権でした。
このような神の初子である、イスラエルの民は、当然、神様を礼拝し、神様に仕えるべきでした。そして、もしも、誰かがその行く手を拒もうとするならば、神様御自身がその者に裁きを加えられるのです。そのことが23節に書かれています。
「わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」
この言葉には、もうすでに、過ぎ越しの時の、エジプトの裁きが書かれています。後になってエジプトの初子が殺されることになったのは、イスラエルの民が「神の初子」であることを拒否したからです。
そのようにして、神様は、モーセに「神の杖」を持たせて、しるしを行われ、イスラエルの民にモーセが、イスラエルの民を導く羊飼いであることを知らせ、イスラエルの民を導いたのです。
私たちにもイエス・キリストを救い主と信じる「神の杖」が与えられています。その杖で、罪の奴隷として苦しんでいる人々に福音を伝え、神様の元へ導く働きをさせていただきましょう。
(2)あなたは血の花婿です
神様から励ましを受けたモーセは、妻子を連れて、エジプトに向かいますが、その途中あるところに泊まった時、大変なことが起きました。
24節
「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。」
ここに「主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。」と書かれています。なぜ、神様は、これから、イスラエルの民を救うために、エジプトに向かっている時に、モーセを殺そうとされたのでしょうか。
その理由が、25~26節に書かれています。
「ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」
これは、割礼に対する問題です。
神様は、アブラハムの子孫のすべての男性は生後8日目に割礼を受けるように命じられていました。(創世記17:14)しかし、モーセはそれを実行していなかったのです。おそらく、モーセの妻はツィポラはミデアン人でしたし、息子がかわいそうだと思ったのでしょう。モーセの再三の忠告にも関わらず、割礼を授けなかったのです。彼らが、ミデヤンの地にいる時は、それで良かったのかも知れません。
しかし、モーセは今や、イスラエルの民を救うために、指導者として、神様から遣わされようとしているのです。人々を導こうとする指導者は、まず、自分自身が徹底的に神様の命令に従うことが要求それますし、その配偶者もその信仰が問われたのです。
主がモーセを殺されようとした時、ツィポラは、自分が息子に割礼を施していないことに気がつきました。そこですぐに、息子に割礼を行い、それを、モーセの両足につけたのです。そして、ツィポラが、主のすべてを明け渡した時に、モーセは死から救われたのです。
そして、こう言います。26節「主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」
あのアブラハムとサラもそうでした。信仰によって、年を取ってから、イサクが与えられました。ところが、神様は、そのイサクを、祭壇を作ってホレブの山で、献げるように命じられたのです。アブラハムとイサクには、年老いてからの子どもが一人しかいませんでしたから、この子どもを殺してしまったら、神様がアブラハムに与えられた約束は、台無しになってしまうわけです。
しかし、アブラハムは、主の御言葉に従い、一人子イサクを神様に献げるのです。そして、祭壇の上に、イサクを寝かせ、殺そうとした瞬間、神様の御声が聞こえました。
創世記22:11~12
「そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは、神様を畏れ敬い、神様こそが最善を成して下さることを信じて、一人子をも惜しまずに、献げたのです。
そして、それは、神様が、私たちの救いのために成して下さったことです。
ヨハネ3:16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神様は、私たちの救いのために独り子を与えて下さいました。そして、その独り子である主イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で、尊い血潮を流して下さいました。その血潮によって、私たちは救われたのです。
ツィポラは、夫モーセが主に殺されそうになった時、自分の罪に気がつき、主の御心に従いました。私たちはどうでしょうか?100%主の御心に従っているでしょうか。神様は、すべてを与え尽くして、私たちを救ってくださいました。その十字架の愛を見上げて、私たちもすべてを主におささげして従う者にさせていただきましょう。
(3)ひれふして礼拝した
27~28
「主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。」
神様は、アロンにモーセに会いに行くように命じられます。アロンとモーセは、モーセが召命を受けたシナイ山で数十年ぶりに再開したのです。
モーセがアロンと会った時、どんなに嬉しかったことでしょうか。それは、ただ、兄弟の再会というのではなく、これから、イスラエルの民をエジプトから救い出す助け手との出会いでしたから、どんなに大きな励ましを受けたことでしょう。
神様は約束通り、モーセに雄弁なアロンという助け手を与えて下さったのです。
モーセは主がモーセに語られた事、モーセに見せてくださった奇跡をアロンに伝えました。アロンは、モーセの言葉を信じて、二人はエジプトに降っていき、イスラエル人の長老たちを集めました。
アロンは、主がモーセに語られた言葉を語り、イスラエルの民の目の前でモーセに行われた奇跡を行ったので、彼らはアロンとモーセの言うことを信じました。その事が、
30~31節に書かれています。
「アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」
ある牧師に、フィリピンに宣教旅行に行った話しをお聞きました。
そこには、住む家もなく、親もなく、路上で生活をしている大勢の子どもたちがいました。その宣教チームがその路地で、賛美をしていると、どこからともなく子どもたちが集まってきました。そして、大きな声でその宣教チームのお兄さんやお姉さんと一緒に、賛美をし始めたのです。
この子どもたちは、この路上で宣教師が伝えた福音を聞いて、イエス様を信じて、孤独から解放されて、愛されている喜びに輝いていました。
その中に、一人の男の子がいて宣教師がその男の子について教えてくれました。「実は、この男の子のお兄ちゃんは、昨日、交通事故で死んでしまったのです。でも、見てください。彼は、お兄ちゃんに天国で会えることを信じて、神様を賛美をしているのです。」
帰る家もなく、家族までも失う、それでも、彼は、イエス様の贖いを喜び、神様を礼拝したのです。それは、どのような状況の中にあっても、神様が自分を顧み、恵みを与えて下さっていることを信じているからに違いありません。彼らは、ただ感謝をもって神様に礼拝を献げていたのです。
その礼拝が終わった後で、その宣教チームが教えた、日本語の賛美を歌いながら付いてきたそうです。「主は素晴らしい、主は素晴らしい、主は素晴らしい、私の主。」そして、その賛美は、その宣教チームが車に乗り込んでも、終わらなかったそうです。
31節
「民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」
神様は、私たちがどのような状況の中にあっても、私たちを顧みてくださるお方です。そして、私たちの苦しみを御覧になって、救いの御手を延べてくださるお方です。そのお方を信じて、「ひれ伏して」主を礼拝するものとさせていただきましょう。
今日、岩沼チャペルで礼拝が行われます。MSR+の働きも五年目を迎えました。黒木先生に、ボランティアをやるなら、5年は続けるようにと言われましたが、その最後の五年目を迎えます。最初の内は、ボランティアが中心でしたが、これからは、一番大切な伝道を中心にこの働きを進めていきたいと願っています。
そして、岩沼の地に、教会が建てられるようにと願って、毎月第二日曜日に礼拝が行われるようになって、2年と2ヶ月が過ぎました。
そして、今日は、実際に被災に遭われた、宮城聖書教会の田中時雄先生をお招きして、「悲しみの中の希望」というテーマで、特別礼拝が行われるということで、岩沼市に12,500枚の新聞折り込みをしました。すでに、この礼拝に出席したいという問い合わせがあったと伺いましたが、都合の付く方は、ぜひ、御参加下さり、心からの礼拝をおささげしましょう。
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