先週は、塩谷聖会のためにお祈りをありがとうございました。
今年は、塩谷聖会が、弾圧記念聖会と重なったため、参加者は少なかったのですが、祝福された時を過ごすことが出来て感謝でした。
この聖会でいただいた恵みの一つは、川崎 基君のお父さん、川崎 智兄が信徒会の代表として、神様を第一にする祝福を証しをしてくださったことです。
そして、もう一つは、この聖会で、27年前に山形に遣わされた時に出会った青年が特別賛美をしてくれたことでした。その時、彼はまだ山形大学の学生でした。
その彼が、大学を卒業して、学校の教師として働き、アメリカに留学して、今は栃木県の牧師をしておられ、今回特別賛美をしてくださったのです。
27年前青年だった兄弟が牧師になられて、塩谷聖会で、賛美しておられる姿に、本当に大きな感動を覚えました。一人の信徒が、献身をして主に用いられている姿は、本当に素晴らしいものです。そして、神様は、ここにおられるお一人お一人を御覧になって、そのように喜んでおられるのではないでしょうか。
今日の中心の御言葉は、13節です。
「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」
神様は、モーセに「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」と命じられます。モーセは、何度も理由をつけてそれを断ろうとしますが、神様は、御言葉の約束によって、モーセを励まし、モーセを用いられるのです。
今日は、出エジプト6:2~13を読んでいただきましたが、この聖書の箇所にも、神様のモーセに対する、お取り扱いと励ましを見ることが出来ます。
(1)わたしは主(ヤーウェ)である。
神様は、モーセに御自分がどのようなお方であるか、また、これから何をなさろうとしておられるのかを「わたしは主である。」という言葉を何回も繰り返しながら説明され、モーセを力づけ、励まし、希望を与えられています。
まず、神様は、御自分の名前から説明をしておられます。
2~3節
「神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。」
神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れましたが、ここでは、はっきりと「わたしは主(ヤァウェ)である。」とその名前を明らかにされたのです。
この主(ヤァウェ)という名前には、どのような意味があるのでしょうか。
3:14をご覧下さい。
「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
すなわち、神様は永遠の昔から、永遠の未来まで、他のものに依存することなく、独立して存在しておられるお方です。
そして、この神様は、天地万物の創造者であられ、今もすべてのものを支配しておられる全能のお方です。不可能を可能にしてくださるお方です。
今、リビングライフでは、列王記下から、主の御声を聞かせていただいています。
列王記下6章には、アラムの王ベネハダテが全軍を集めて、サマリヤを攻めたことが書かれています。そのときにサマリヤの町に大変な飢饉が起こり、食べる物が全くなくなってしまいました。あまりもの飢餓のために、親がその子を煮て食べるようなことさえ起きるほどでした。
その時に、預言者エリアは、主の言葉を次のように語りました。
列王記7:1(P588)
エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」
これを聞いた、王の介添えをしていた侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」 と言って笑ったのです。
しかし、その夜、主がアラム人の軍勢に戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられたので、彼らは、すべての者を置いたまま、逃げ去ってしまつたのです。
そこへ、4人の重い皮膚病の人たちが、どうせ飢えて死ぬのなら、アラムの町に行こう。もしかしたら、そこで、食べ物に与る事ができかも知れない。もし、そうでなくても、どうせ死ぬのだから同じことだと言って、アラムの町に行ってみると、アラム人がみんな逃げ去って、多くの食料や、金銀、衣服が残されていたのです。
そして、そのことを彼らが、イスラエルの民に伝えたので、イスラエルの民は飢餓から救われたのです。
そして、エリシャが預言した通り、サマリヤの門で、食料の売り買いがなされたのです。
例王記下7:16にはこう書かれています。
「そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られるようになった。」
一日前は、食べ物が全くなくて、自分の子どもさえ煮て食べるような非常事態だったのです。しかし、次の日には、十分な食料が与えられて、サマリヤの門で食料の売り買いがされたのです。神には何でもできないことはありません。
私たちは、王の介添えをしていた侍従のように、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」 と現実だけを見てしまいます。しかし、神様は、全知全能のお方です。不可能を可能にしてくださるお方です。
「わたしは主である。」と言われる神様は、今日、食料が全くなくなったとしても、明日は、それを満たすことの出来るお方です。
そして、神様は、決してイスラエルに与えられた契約を忘れられるようなお方ではありませんでした。
5節
「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。」
「主」という名前は、神様と人との契約を思い起こさせる名前で、その契約を結ばれる神様は、その契約を必ず成就されるお方なのです。
私たちも「わたしは主である。」 と言われる神様を信じ、信頼して、信仰の戦いを戦い抜かせていただきましょう。
(2)神様の約束
神様は、すべてのいのちあるものの根源であられ、その力強い御手で、天地万物と、すべての生命を造られました。
その神様が、モーセに3つの約束をされました。
①イスラエルをエジプトから救い出すこと
6節
「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」
②イスラエルを神の民とすること
7節
「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」
③イスラエルをカナンの地に導き上ること
8節
「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」
神様は、全能のお方です。イスラエルの苦しみをご存じで、伸ばした腕と、強い御手によって、導いてくださるお方です。
そして、「わたしは主である。」とおっしゃる神様の御業は、イエス・キリストとの新しい契約を結んでいる、新約時代の私たちにも与えらている契約です。
神様は、まず、私たちを、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪とサタンの束縛から連れ出し、そこから救いだしてくださいました。
そして、救った後も、放りっぱなしでなく、神の民に加えてくださったのです。
そして、私たちは、やがてイスラエルの民が約束の地カナンに連れて行かれるように、永遠の命が与えられ、神の国へと導かれるのです。
悲嘆に暮れていたモーセに対して、神様は、このように御自分が誰であるか。またこれから何をしようとしておられるのかを明確に示されたのです。
いったんは悲しみに沈んでいたモーセでしたが、このような素晴らしい神様の約束をいただいて、再び奮い立つことが出来ました。
私たちが、神様の御言葉をいただくことができるということは何と素晴らしい事でしょうか。
私たちも、悲嘆に暮れるような時には、祈の中で神の御言葉を待ち望みましょう。そして、御言葉によって力づけられるのです。
ライオン歯磨きは、今は知らない人はいないと思います。
このライオン株式会社の創設者は、小林富治郎さんで、彼は熱心なクリスチャンでした。彼は1889年に、宮城県石巻でマッチの軸の工場を建てました。ところが、翌年8月に大洪水が起こり、工場は水浸しになり、1年分の材木が流されてしまいました。
何とか再起を図ろうと努力をしましたが、うまくいかず、追い詰められた彼は、とうとう自殺をしようと、北上川に橋の上に行ったのです。そして、その橋から、身を投げようとしたその時です。
一つの御言葉が、稲妻のように心に響いたのです。
それは、ヘブル12:11
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
この御言葉は、小林富治郎さんが、洗礼を受けた時に、教会の牧師が葉書に書いてくれた御言葉でした。
この御言葉によって、彼は、自殺をとどまったのです。そして、再び事業に取り組む勇気が与えられ、現在の成功を納めたのでした。
そして、彼は歯磨き製品に慈善事業のためのチケットを付けて、消費者と共に、当時としては大金の33万円余りを社会福祉事業にささげたり、夜間学校を開いたり、社会のために大きな貢献をしたのです。
彼を、そのように変えたのは、聖書の御言葉でした。もし、自殺をしようとしたあの時に聖書の御言葉が、彼の心の中に響かなかったら、彼は、自殺をしていたでしょう。しかし、聖書の御言葉が、彼に命を与えて、彼は社会のために用いられたのです。
一カ所聖書を開きたいと思います。
ヨハネ20:31
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
神様は、モーセに、①イスラエルをエジプトから救い出すこと②イスラエルを神の民とすること③イスラエルをカナンの地に導き上ることを約束されました。
それと同じように、新約聖書が書かれたのは、私たちが、イエスを神の子であることを信じるためであり、ただ信じるだけで、私たちは罪から救われ、神の子とされ、イエスの名によって永遠の命が与えられるためなのです。
この聖書の御言葉を、読みましょう。そして、この御言葉に従って、素晴らしい人生を歩ませていただきましょう。
(3)エジプトの国から導き出せ
神様の御言葉をいただいたモーセは、早速、イスラエルの民のもとに行って、神の言葉を伝えました。
モーセは「わたしは主である。」という神の名について説明をしたでしょう。そして、これから神様が行おうとされている事を、彼らに伝えました。
ところが、イスラエルの民は、激しい苦役に置かれていたために、モーセの言葉に耳を傾けようともしなかったのです。その事が9節に書かれています。
「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」
この時の、モーセはどんなにがっかりしたことでしょう。神様から御言葉をいただいて、勇気を持って、イスラエルの民にその御言葉を伝えたのに、彼らは、激しい重労働の故に意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとしなかったのです。
ところが、神様は、更に困難な事をモーセに命じました。
10~11節
「主はモーセに仰せになった。「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」
同胞であるイスラエルの民でさえ、モーセの言葉に耳を傾けなかったのです。それなのに、今度は、エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさいというのです。どう考えても無理な話しです。
そこで、モーセは、12節で、「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」
と自分が口べたである事を理由に、神様の命令を拒否します。
そこで、神様は、このモーセを励ますために、もう一度、アロンを加えて、イスラエル人をエジプトから救い出すために、二人に命令を与えられたのです。
人間の弱さや足りなさにも関わらず、神様は御自身がお立てになった御計画を実現するために、忍耐強く、二人を励まし、勇気づけておられるのかが、ひしひしと伝わってきます。
御言葉に従い続けることは、決して容易なことではありません。
スティーブ・ファーラーという人が「人生の最後まで用いられる神の人」という本を書いています。
その中には、ビリー・グラハム、チャック・テンブルトン、ブロン・クリフォードという3人の伝道者が紹介されています。
まず、ビリー・グラハムは、誰もが知っている有名な伝道者で、クリスチャンであれば知らない人はいないといわれるほどの人です。ところが、後の二人は、当時は、大変有名な人でしたが、今ではほとんどの人に知られていません。
チャック・テンブルトンは、ビリー・グラハムと同世代の人物です。もしかすると、ビリー・グラハムよりも期待された説教者であり、福音伝道者だったかもしれません。
しかし、チャック・テンブルトンは、働きを初めて、5年後に説教の場を去りました。そればかりか、その後には、信仰からも離れてしまったのです。
ブロン・クリフォードは、飲酒と金銭のために人生を台無しにしてしまいました。みすぼらしい旅館で、35歳という若さで亡くなったのです。
1945年アメリカ全域に福音を伝えながら、期待と注目を集めた3人の内、信仰のレースを最後まで走り抜いたのはたった一人だけだったのです。
どうして、ビリー・グラハム以外の二人は、信仰を失ってしまったのでしょうか。それは、イエス・キリスト以外の者に目を奪われて、イエス・キリストから目を離してしまったからです。
ヘブル12:1~2a(P416)
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
クリスチャンにとって、大切なのは、もちろんイエス・キリストを信じて救われることは大切な事ですが、さらに大切な事は「信仰のレースを最後まで、どう走っていくかです。」スタートラインにつくことは大切な事ですが、どんなに素晴らしい走りをしたとしても、ゴールに着かなければ何にもなりません。神様は、レースを完走し、ゴールにたどり着くことを願っておられるのです。
神様は、弱い者を、忍耐強く励まして、強められるお方です。もし、私たちが神様に従おうとして、弱さや足りなさに落胆しているのなら、モーセのように自分の弱さを素直に神様に訴えましょう。そうすれば、神様は私たちにも、モーセのように忍耐強く、成すべき事を教えて下さり、整えて、神様の栄光のために用いて下さるのです。
最後に13節をご覧ください。
「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」
神様は、モーセとアロンに「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」と命じられました。
神様は、モーセを、イスラエルの民をエジプトから救うために必要としておられたように、私たち一人一人を、滅び行く魂の救いのために必要としておられます。その神様の御言葉に従って、私たちも、滅び行く多くの人々の救いのために用いていただきましょう。
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