関東夏期聖会のためにお祈りをありがとうございました。今回は、49回を迎え「神の驚くべき恵み」という題で、4つの聖会と、2つの早天聖会、そして、聖化講演、7回の集会を通して、出エジプト記から、モーセの生涯を学びました。
山形南部教会でも、ちょうど、出エジプト記の講解説教をしていますから、私にとって、深いお取り扱いを受けて、豊かな恵みをいただいて帰ってくることができました。
一つ、後悔していることは、こんなに素晴らしい集会に、山形南部教会の人たちを連れて行くことが出来なかったことです。来年は、ぜひ、一緒に関東夏期聖会に出席することをお勧めしたいと思います。
今日の中心の御言葉は、6~7節
6~7節
「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」
今日読んでいただいた聖書の箇所の前、6:14~27節で、神様は、モーセとアロンの系図を通して、二人は、神様から選ばれた選民であり、特別にレビ族の子孫として、神様とイスラエルの民との間をとりなす祈り手として選ばれたことを語られました。
(1)わたしが主である。
ところが、その素晴らしい系図で励ましを受けたにも関わらず、今日の聖書の箇所の29節で、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」と命じられると、その命令にすぐに従うことが出来ませんでした。
モーセは30節でこう言っています。
「しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
モーセは、これまで、何度も神様の召命を拒否し続けました。それに対して、神様は忍耐強く、モーセにお答えになったのです。
Oまず、神様は、御言葉をもって、モーセに約束を与えられます。
3:12
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
神様御自身が、「 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」 と約束してくださったのです。これほど確かな約束はありません。しかし、モーセはすぐには、神様に従え事が出来ませんでした。
Oモーセは、イスラエルの民に、あなたを遣わした人の名前を聞かれたら何と答えたら良いのでしょうかと神様に尋ねました。
すると、神様は、14節で「わたしはある。わたしはあるという者だ」と御自分の名前を明らかにしてくださったのです。しかし、それでも、モーセは神様に従うことが出来ませんでした。神様が、共におられるしるしを求めたのです。
そこで、神様は、蛇の奇跡と、重い皮膚病の奇跡と、ナイル川の水が血に代わる奇跡、3つの奇跡で主が共におられることを示されました。ところが、それでも、モーセは神様に従うことが出来なかったのです。
Oそれは、自分が口べたであると言うことでした。
それに対して、神様は、11~12節
「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
と言って、忍耐強くモーセを励ますのです。
それでも、「わたしではなく、誰かを」遣わしてくださいと拒む、モーセに対して、神様は、ついに、怒りを現されますが、それでも、モーセを用いようとされ、
「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。」とおっしゃって、モーセの代弁者として兄のアロンを立てられたのです。
そのようなモーセと神様との会話が、2ページに渡って書かれています。この会話の中に、モーセを用いたいという強い願いと、忍耐を感じます。
そして、最後に、モーセとアロンの系図を明らかにされたのです。ここでモーセは、だめ押しをされて断りようのない状況におかれたのです。
それにも関わらず、6:30でモーセは、こう言うのです。
「しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
神様は、これでもか、これでもかと、モーセを励まし、モーセに忍耐強く答えてきました。それでも、モーセは、神様の言葉に従うことが出来なかったのです。
モーセは、今までの自分の人生を振り返って自分の力に対して、全く自身を失っていました。モーセに残ったのは、ただ、弱さだけでした。しかし、このことを通して、イスラエルの民を救い出す力は、ただ、神様だけにあることが明らかにされたのです。
神様の救いの業は、モーセの信仰の素晴らしさにあるのではなく、神様とイスラエルの民との契約に基づいた、神様の一方的な真実と恵みによるものなのです。
Ⅰコリント1:26~29で、パウロはこう言っています。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
神様は、神様の栄光を現されるために、あえて「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
神様は、すべてを失ったモーセを必要としておられたように、無きに等しい、私たち一人一人を必要としておられるのです。どこまでも、へりくだって、1:31には 「誇る者は主を誇れ」とありますが、神様の栄光だけが現れる者として、私たちを用いていただきましょう。
(2)モーセとアロンの役割
そのように、神様のご命令に従うことの出来ない、弱いモーセに対して、神様は約束通り、兄のアロンが、モーセの預言者となるという励ましの言葉か語られます。
7:1~2
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。2 わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」
ここには、モーセとアロンの役割が書かれています。
まず、モーセは、ファラオに対して神の代理人とするということです。モーセは、神様の代理人として、神の権威が与えられ、奇跡を行う力が与えらるというのです。モーセは、神の代理人として、ファラオに対して、ファラオの成すべき事を語り、ファラオがかたくなにするならば、それに対して叱責し、ファラオが悪を行うならば、さばきを行う、神の代理人としての権威が与えられたのです。
次に、アロンは、モーセの言葉を人々に伝える預言者としての役割が与えられました。
「預言者」とは、言葉を預けると書きますが、アロンが自分の言葉を語るのではなく、モーセが神様から語られた言葉を、アロンが与って、それをイスラエルの民に伝えるのです。
アロンは、モーセの「口の代わり」となり、モーセの代弁者としての役割が与えられたのです。
まず、モーセは神の代理人として神の言葉を聞きます。そして、アロンは、そのモーセの代わりにイスラエルの民に、そのモーセから伝えられた言葉を伝える代弁者なのです。
神の代弁者であるモーセには、ひとつの使命が与えられていました。それは、モーセは神様から伝えられたことを、すべてアロンに伝えるということです。耳に快い言葉だけではありません。ファラオにとって都合の悪いこと、ファラオを怒らせてしまうようなことでも、そのまま、伝えなければならないのです。それは、預言者として立てられたアロンも同じで、モーセから伝えられたすべての神の言葉を、ファラオに伝えなければならないのです。
それは、説教者も同じです。聖書を通して語られる聖書の言葉を、すべて会衆に語ることです。それは、会衆を喜ばせる言葉だけではなく、時には、辛く聞きたくないような、心が痛くなるような言葉も、神の言葉の通り良きくだとして語らなければならないのです。
3~4節
「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」
3節には、「わたしはファラオの心をかたくなにするので、」と書かれていますが、出エジプト記の中に「ファラオが心をかたくなにした」とか「神がファラオの心をかたくなにした」という言葉が、19回も書かれています。
神様は、モーセとアロンを通して、神の言葉をファラオに語られました。それは、ファラオに対する悔い改めの機会でもありました。そして、この神の言葉を聞いたファラオは、へりくだって神の言葉に従うか、それとは逆に、心をかたくなにして、神の言葉に逆らうかどちかかを選択しなければならなかったのです。
同じ御言葉の光りを受けても、ロウソクは、柔らかくなりますが、泥は、乾燥して固くなってしまいいます。
神様が、憐れみをもって、大いなる忍耐をもってファラオに臨むと、ファラオはますます心をかたくなにしてしまいます。
そこで、神様は、ファラオが落ちるところまで、落ちて行くままに任せられたのです。
(3)モーセ80歳、アロン83歳の器を用いられた主
6~7節
「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」
「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」 と書かれています。モーセとアロンは、神様からのお取り扱いを受けて、モーセは80歳、兄のアロンは83歳の時に、「主が命じられたとおりに行った。」とあるように、御心通りに行う聖潔られた人に変えられたのです。
今年の関東夏期聖会は、モーセの生涯を7回に渡って、御言葉が語られた恵みの時でありました。
2日目の午前中の聖会講演会の中で、本間義信先生が、モーセの生涯におけるホーリネスという題で、講演をしてくださいました。
そのまとめで、私たちの生涯について3つの事をお話し下さいました。
①年齢によらない
私たちは、神様の前にいろいろ言い訳をすることがないでしょうか。もう、年を取っているから、体調も若い時のようにはいきません。もう、人生の中でやるべき事はやって来ました。後の余生は、自由に過ごさせてください。
しかし、モーセは80歳で、召命を受けました。あの血気盛んな、エジプトの王子だったときではなく、また、ミデアンで羊飼いをしていたときでもなく、80歳になった時に、人生最大の仕事が始まったのです。
聖会で証しをされた富森神学生は、神学院の4年生ですが、69歳です。そして、奥さんが来年夫婦で遣わされるために、1年間聴講生として学んでいます。
また、今回の、関東夏期聖会で、森神学生と同じ分団になりましたが、森神学生は71歳です。この分団の中で、私は、卒業する時には、74歳になります。そんな私に何が出来るかと思っていましたが、一番大切な仕事を委ねられた80歳のモーセよりも6つも若いのです。神様が求めておられることを、喜んでさせていただきたいと思いますと分かち合っておられました。
また、逆の言い訳も出来ます。まだ、私は若いから、このような働きは出来ません。あの預言者エレミヤがそうでした。
エレミヤ1:6~8
「わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
しかし、それに対して、神様はこうおっしゃいました。1:7~8
「 7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。」
神様は、ある時は、青年を用いられ、ある時は、老人を用いて、それぞれ適材適所で用いられるのです。私たちには、生きている限り使命があり、神の使命のある間は、死なないと思って良いのです。
②どこでも、主の御声を聞くこと
モーセが、大切な召命の御声を聞いたのは、ミデアンで羊飼いをしていた、燃え尽きない柴の中で主の御声を聞いたのです。神様は、日常生活の中で、大切な御言葉を与えてくださるお方です。
③捨てられた者を、拾い上げて用いて下さる神
モーセは、エジプトで同胞を助けるために、エジプト兵を殺したため、ミデアンの地に逃げて、羊飼いを40年間しました。羊飼いとして40年を過ごし、80歳になって、昔のように地位も権威も、若い力も、すべてを失ったかのように思いましたが、そのような捨てられたかのように思えるモーセを神様は、拾い上げて、モーセの人生で一番大切な使命を与えられたのです。
神様が求めておられる人は、モーセがエジプトの王子であった時のように、「オレこそは」と血気盛んな人ではありません。また、ミデアンで40年間を過ごして80歳を迎えて「オレなんか、どうせだめだ」という人でもありません。
神様の求めておられる人は、「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」 とあるように、主の命じられたとおりに行う人です。
私たちは、神様に命じられた時、いろいろ言い訳をすることができます。
モーセのように、「口べたですから・・・。」「私にはそのような力はありませんから・・・。」「私には、そのようなリーダシップはありませんから・・・。」「昔、エジプトの王子だったときのような、力も、権威も、知恵もすべてを失いました。」など神様の召命に対して、いくらでも言い訳をすることができると思います。
しかし、そのような時に、このモーセの召命を思い出してください。私たちには、力がありませんが、神には何でもできないことはありません。その神様を信じて、神様だけを信頼するならば、神様御自身がすべての必要を満たしてくださるのです。
聖潔られた人は、どんな年齢であったとしても、その人の賜物がどのような物であったとしても、神様が何を私に求めておられるかを祈り求めて、そこにはまっていくことの出来る人です。
神様は、私たち一人一人に大切な使命を持っておられます。それは、トイレ掃除かもしれません。会堂掃除かも知れません。食事作りかも知れません。誰からも認められないような陰の仕事かも知れません。そして、その一つ一つが神様にあっては、かけがえのない大切な奉仕なのです。
そして、若い人は、仕事が忙しくて、ゆっくり祈る時間を持つことができませんが、定年退職をして、時間が出来ると、ゆっくりとりなしの祈りをする事が出来ます。その祈りが教会にとって、どれだけ大きな力でしょうか。
しかし、その一つ一つが必要で、神様はあなたをそのために用いようとしておられるのです。
「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」
それが、どんなに大きな事であれ、また、どんなに小さなことであれ、命じられたとおりに、忠実に行うならば、主がすべてを用いて、御栄光を現して下さるのです。主の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
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