8/16 主日礼拝

「わたしが主であることを知る」出エジプト7:8~24

 今、高校野球で盛り上がっています。残念ながら、鶴岡東は、花巻東に0-1で負けてしまいましたが、花巻東や仙台育英など東北勢に頑張って欲しいと思います。

 野球で、一番大切なことは何だと思いますか?それは、チームプレーです。どんなに個人が優れていても、チームが一つでなければ勝つことが出来ないでしょう。そして、そのチームプレーをするために、監督の指示に従うことが大切です。

 

 私たちは、イエス・キリストに救われて、キリストチームの一員とされていますが、私たちの監督は誰ですか?イエス様です。私たちは、キリストチームの一員として、監督であるイエス様に柔順に従っているでしょうか。

 今日の説教題は「わたしは主であることを知る」ですが、キリストを主として、この世で勝利ある生活をさせていただきましょう。


今日の中心の御言葉は、7:17です。

「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。」

ここに、「わたしが主であることを知る』とありますが、真の神を主と知る祝福について、今日は、学びたいと思っています。


(1)私たちの神様は全知全能の主である。

 神様に励まされたモーセは、アロンと一緒に、再びファラオの所に向かいました。

 前回は、みじめな気持ちでファラオの元を去らなければなりませかでしたが、今回は、違います。神様のしるしと約束をいただき、助け手として兄のアロンも神様が与えて下さって、神様こそが、主であるという確信が与えられたからです。 この時から神様は、モーセがファラオの所に合いに行くたびに、必ず一つ一つ具体的に、奇蹟の内容を教えられました。

 まず、神様が示された第一の奇蹟は、モーセがイスラエルの長老たちの前で行ったのと同じ奇蹟で、杖がヘビに変わる奇蹟でした。

9節

「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」

 そこで、モーセとアロンがファラオの所に行き、アロンがファラオとその家臣達の足元に、つえを投げると、それがヘビになりました。この奇蹟を見た、ファラオと家臣達は、非常に驚いたに違いありません。なぜなら、エジプトではヘビが、神聖視されていたからです。特に、エジプトの北部では、コブラが女神として崇拝され、ヴァジェストと呼ばれて、北部の守り神とされていました。

 そこで、エジプト王のミイラや肖像画の額の上に、金のコブラが飾られているのが発掘されています。

 ですから、モーセとアロンが、エジプトの女神を自由に操ったのには、非常に驚かせたに違いありません。そして、本当ならば、ここでファラオは、エジプトの女神にまさる、真の主である神を信じるべきでした。

 ところが、ファラオは、エジプトの知恵ある物や呪術師を呼び寄せると、彼らもまた同じ奇蹟を行ったのです。

 悔い改める機会が与えられたにもかかわらず、悔い改めるどころか、心をかたくなにして、神様と力比べをはじめたのです。

 しかし、その結果は、12節に「 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。」とあるように、アロンのへびが、ファラオのヘビを飲み込んだのです。このことは、真の神様こそが、主であるという証拠でした。

 招詞で読んでいただいた、出エジプト記20章2~3節は、モーセの十戒の一番目の戒めです。そこにはこう書かれています。。

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 私たちの神様は、全知全能の神様です。そして、その神様が共におられるなら、私たちがどんなに弱く足りない者であったとしても、必ず勝利が与えられるのです。

 マザー・テレサは、たった3ペニーで孤児院を建てようとしました。院長のシスターは、このように言いました。「3ペニーでは、孤児院を建てることは出来ません。これだけでは何もできませんよ。」

 するとマザー・テレサは、静かに微笑みながら答えました。「よくわかっています。しかし、神様が私たちと共におられるなら、この3ペニーで私はどんなことでもできる事を知っています。」つまり、お金ではなく、神様の力で成し遂げるのです。


 「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)神様は、全能のお方です。

 アロンのヘビが、ファラオのヘビを飲み込んだように、どんな敵も神の愛から私たちを引き離すことは出来ません。この神様に依り頼んで、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。


(2)災いを通して、主のもとに導いてくださるお方 

第一の災いの内容が、17~19節に書かれています。

「彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。17 主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。18 川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。」

  モーセの杖で、ナイル川を打つなら、水が血に変わって、ナイル川の魚は死んで、川は臭くなり、エジプト人がナイル川の水を飲むことができなくなるというのです。

 そこで、アロンとモーセがその通りにナイル川の水を打つと、水はすべて血に変わり、魚は死んで、川は臭くなって、またエジプト全土の水が血に変わってしまったのです。

 ナイル川というのは、エジプトの命と繁栄の源でした。神様はナイル川を通して、豊かな飲み水と、魚を与え、穀物が豊に育つようにされました。エジプト人はナイル川のお陰で、華やかな文明を発展させることができました。ですから、すべてが天地創造をされた神様の恵みだったのです。

 しかし、ファラオとエジプト人は、神様に感謝するどころか、ナイル川を崇拝の対象にしたのです。また、神様がモーセを通して、イスラエルを荒野に行かせ、神に仕えさせよと命じられますが、それに聞き従おうとはしませんでした。

 そこで、神様はナイル川の水を血に変えて、魚が死んで悪臭を放つようにされました。エジプトの真の主人は神様です。その創造の秩序に逆らって、神様に背くならば、これまで、味わってきた、すべての特権を失うことになってしまうのです。

 第一の災いは、ナイル川の水が血に変わるという奇蹟でした。それは、エジプト人にとっては、災いでしたが、イスラエル人にとっては、出エジプトへの最初の奇蹟でありました。そして、奴隷の民からの救いへの第一歩でありました。

 神様は、まず、ナイル川の水を血に変えることによって、救いの道を開かれたのです。

 この聖書の箇所を黙想しながら、カナの婚宴のことを思い出しました。カナの婚宴は、イエス様が最初に行われた奇跡です。カナで結婚式が行われ、イエス様と弟子たちとが結婚式に招かれたのです。ところが、その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまったのです。母マリアが、そのことをイエス様に告げました。すると、イエス様は召使い達に、手や足を清めるために置いていた30リットル~40リットルも入る水瓶6つに一杯水を入れて、持って行くように命じました。召使い達が、イエス様の言われた通りに水瓶を運ぶと、その水が上等のぶどう酒に変わっていたのです。

 カナの結婚式で出された、ぶどう酒は、喜びや楽しみをあらわします。そこに集まった人たちは、結婚した二人を御祝いしながら、喜びの時、楽しい時を過ごしていました。 けれども、ぶどう酒がなくなったように、私達の人生にも喜びや楽しみがなくなる事があります。

 けれども、マリアが、イエス様に助けを求めたように、私達もイエス様に祈るなら、水をぶどう酒に変えてくださる。悲しみや苦しみや悩みを、喜びや楽しみや感謝に変えてくださるのです。

  イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださるお方です。このイエス様を信頼して、神様の祝福の中を歩ませていただきましょう。

 台湾の長老教会の総幹事であられた高俊明牧師は、台湾の民主化運動をしたために、弾圧されて、7年間牢屋の中に入れられてしまいました。その牢屋の中で、教会に当てて「サボテンと毛虫」という詩を書きました。

「サボテンと毛虫」

わたしは求めた

美しい花束を

しかし神様は

とげだらけのサボテンを下さった。

わたしは求めた

愛らしいチョウチョを

しかし神様は

ゾッとするような毛虫をくださった

わたしは

なげき、悲しみ、失望した

しかし、多くの日が過ぎ去ったあと

わたしは目を見張った

サボテンが多くの花を開いて

美しく咲き乱れ

毛虫は愛らしいチョウチョとなって

春風に舞い舞うのを

すばらしい神様の御計画

 この詩と同じように、私達にも、とげとげのサボテンのような苦しみや、ゾッとする毛虫のような悩みが襲ってくる事があるかも知れません。けれども、神様はサボテンに美しい花を咲かせる事が出来る方、毛虫をチョウチョに変えてくださるお方なのです。


20~21節

「モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、21 川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。」

 神様は、ナイル川の水を血に変える奇蹟によって、イスラエルの救いの業を始められました。また、イエス様は、救いの業の始めに、水をぶどう酒に変える奇蹟を行われました。

 そして、それは、イエス様の十字架の血潮を現しています。イエス様は、最後の晩餐の席で、こうおっしゃいました。

Ⅰコリント11:23~26

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

  イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。

 本当ならば、エジプト人が水が血に変わって大変な思いをしたように、私たちが罰を受けなければならなかったのです。

 また、イエス様が十字架にかかられたように、私たちが十字架にかけられ永遠の滅びを受けなければならなかったのです。

 しかし、神の御子であるイエス様が、私たちを最後まで愛し抜いてくださり、私たちの身代わりに、あの十字架で命を捨ててくださったのです。

  昨日は、終戦70周年を迎えました。終戦を迎えるにあたって、多くの方々の犠牲があったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

 特に、人間のかぎりない残虐さをもって行われた、原爆投下で、広島では25万人の人が、長崎では15万人の人が、史上かつてない大量虐殺が一般市民の上になされました。

 人間が起こした戦争で、その終結のために払われたあまりにも大きな悲劇、あまりにも大きな原爆の犠牲でした。

 長崎の爆心地では1万2千人のカトリック信者の内、3分の2の信者が原爆の犠牲になりました。それは、カトリック教会にとって破滅的な犠牲の数でした。

 「長崎の鐘」という本を書いた、永井 隆さんは、このことを「その犠牲において戦争が終わった。」とその大きな犠牲の意義を書いています。

 多くの人の犠牲によって、私たちは終戦を迎え、70年戦争のない平和な年を過ごすことが出来ました。

 

 そして、何よりも素晴らしい事は、神の子であられるイエス・キリストが、全人類の罪のために十字架にかかって死んでくださったことです。その十字架の死という犠牲によって、救いの業は完成されました。そして、私たちは、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられたのです。


(3)「わたしが主であることを知る」ことを妨げるもの

22~23節

「ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。23 ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった。」

  エジプトの水がすべて血に変わった時、この時こそ、悔い改めのチャンスでした。真の神様の前に、自分たちの罪を認めて、悔い改めるべきでした。

 ところが、ファラオと家臣たちは、エジプトの呪術師たちに同じことを行わせたのです。このようにして、ファラオと家臣たちは、神様が行ったことを、自分たちもいくらでも行えると高ぶったのです。「わたしが主であることを知る」と言われる神様と私たちを妨げるのは、私たちの心にあるかたくなな心です。

 堕落した人間は、神様を畏れ敬いません。何とかして、自分たちを神様のように引き上げようと、必死になるのです。

 ファラオは、血の災いを経験して、エジプト人が苦しんでも、これを悔い改めの機会にしませんでした。

 初代教会の時代、皇帝ネロがローマの市街に火を放ち、その炎々と燃え上がる火をながめながら、杯を交わして楽しんだと言われていますが、その姿とファラオの姿が重なります。

 私たちは、その反対に、自分一人の生活や行動が、周囲の人々に大きな影響を及ぼすことを覚えて、災いを及ぼす代わりに、悔い改めるべき所は悔い改めて、神様からの祝福を分かち合う者とさせていただきましょう。

マタイ23:11~12

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

  高ぶる者ではなく、神様の御前に、へりくだった謙遜な器とさせていただきましょう。

17節

「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。」

 『わたしが主であることを知る』とありますが、ファラオは、自分が主であることをかたくなに主張し続けて、自分だけではなく、多くの人を苦しめました。

  どうでしようか。私たちは、「わたしが主である」とおっしゃる神様を中心に生活をしているでしょうか?

 それとも、自分が主だとかたくなな心があるでしょうか?もし、そのようなかたくなな心があるならば、その罪を悔い改めて、砕けた悔いた心をもって、神様の御前に出ましょう。そして、心の王座に主をお迎えして、神様の祝福の中を歩ませていただきましょう。


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祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase