第三回青年大会のためにお祈りをありがとうございました。北は北海道から、南は沖縄まで、130人の青年達が集まりました。最初の日はナイトDEライトのコンサートが行われ、大変盛り上がりました。
次の日は、レクレーションや東京ツアーが行われ、親しくなることができました。夜の集会では、KGKの大嶋主事が、御言葉を取りついて下さり、大変大きな恵みをいただきました。特に、2日目の夜は、私が献身に導かれたエレミヤ書1章7~8節
「しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。」から御言葉が取り次がれましたので、私は献身の原点に立ち返ることが出来、本当に感謝でした。
また、各地域の賛美チームが賛美をしましたが、四日目の朝は、東北の賛美チームが45分位のコンサートをしましたが、このコンサートが一番良かったと思いました。
4日間、主を心から賛美し、御言葉をいただき、主にある交わりをしながら、天国というのはこのようなところかなと感じるような素晴らしい時を過ごすことが出来ました。
今日の中心の御言葉は、8:23です。
「我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」
主に犠牲をささげるというのは、神様の礼拝です。この世の生活から離れて、主を礼拝すること、それは私たちクリスチャンに与えられた特権です。4日間青年達と神様を礼拝する時が与えられたことは素晴らしい時でしたが、今日も、愛するみなさんと礼拝ができる特権を心から感謝しています。
先週は、ナイル川の水が、血に変わる第一の災いについて、学びました。そして、今日読んでいただいた聖書の箇所には、第二のかえるの災い、第三のぶよの災い、第四のあぶの災いについて書かれています。
第一の災いが終わった後で、ファラオにもう一度、悔い改めの機会が与えられます。
7:26
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。」
この御言葉には、神様がイスラエルを救われた目的が、再び書かれています。
イスラエルの民が救われたのは、神様を礼拝し、神様に仕える民になることでした。 私たちが、救われたのは、日曜日に集まってただお客様として礼拝に出席して、平日は、神様の御心に適わない、この世の人と同じ生活を送ること。それは、決して神様に喜ばれる生活ではありません。神様の恵みによって救われた私たちは、真心を込めて、全生活を通して神様に仕える者でなければならないのです。
(1)かえるの災い
続いて、第二の災いの警告が、語られています。
27~29
「もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす。28 ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。29 蛙はあなたも民もすべての家臣をも襲うであろう』と。」
かえるというのは、エジプト人にとって、神聖な動物でありました。彼らの礼拝する偶像の中には、かえるの頭の女神で、ヘストと呼ばれる偶像があったと言われています。このヘストは、かえるが多くの卵を産むことから、子宝に与る神として祭られていましたから、彼らにとって、かえるを殺すことは、神を冒涜することだったのです。
ところが、ここでは祝福をもたらすはずの、かえるがかえって災いをもたらすことになったのです。
モーセが、アロンに命じて、杖を差し伸べると、かえるが、町中にあふれ、かえるが、ナイル川から這い上がり、王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上ったのです。さらに、家臣や民の家にまで侵入して、台所にある「かまど」や「こねばち」にまで入り込んだのです。エジプトの国中にあふれかえっている「かえる」・・・。想像するだけでも、グロテスクで、気持ち悪いことでしょう。
しかし、私たちのこの世にも、この「かえる」のように、私たちの心と生活を汚してしまう物が溢れているのではないでしょうか。
ある神学者は、この世にある現在のいかがわしい文学の流行を、このエジプトのかえるの災いにたとえています。何と、口にするのも恥ずかしいような、文学や雑誌が、溢れていることでしょう。
現在は、本だけではありません。今は、インターネットの世界です。そんな気は全くなくても、インターネットを見ていると、誘惑されるような画像が、次々に出てきます。そして、それをクリックするだけで、そのような暗い世界を見ることが出来るのです。
それも、今はスマホの世界ですから、子どもたちであっても、いつでも、どこでも、そのような画像や動画へと引き込まれてしまうのです。
まさに、エジプトにかえるが溢れたように、誘惑や暗闇が溢れている社会ではないでしょうか。
そのような肉の働きがガラテヤ19~20に書かれています。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
がえるが、エジプトの地に満ちたように、この世は、ここに書かれているように肉の働きで満ちあふれています。
そのような、奇蹟を目の辺りにしたファラオは、魔術師を呼んで、同じように「かえる」をナイル川から這い上がらせたのです。なんと愚かなことかと思いますが、ファラオはここでも、イスラエルの神の力に対して自分の力と比べて、戦いをいどんだのです。しかし、ここで、魔術師は、ナイル川からかえるを這い上がらせることは出来ましたが、かえるを、かえるを滅ぼすことは出来なかったのです。
この「かえる」に象徴される、誘惑や悪を滅ぼすことが出来るのは、真の神だけです。そして、その罪を滅ぼすために、神の子であるイエス・キリストが、十字架にかかって下さったのです。その十字架だけが、私たちの罪を滅ぼし、聖潔るのです。
十字架にかかられたイエス・キリストの霊に満たされる時、私たちは、御霊の実を結ぶ事が出来ます。
ガラテヤ5:22~23
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
このような誘惑と悪に満ちあふれた社会だからこそ、イエス・キリストの十字架の血潮によって聖潔ていただき、ここに書かれている御霊の実を結ぶ者とさせていただきましょう。
この災いに遭った時、ファラオは降伏せざるをえなくなってしまいました。自分の力ではどうすることも出来なくなり、魔術師を呼んだ結果、輪をかけて、その災いが大きくなってしまったファラオは4節で、
「ファラオはモーセとアロンを呼んで、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と言いました。
それに対して、モーセは、5節でこう答えます。
「モーセはファラオに答えた。「あなたのお望みの時を言ってください。いつでもあなたとあなたの家臣と民のために祈願して、蛙をあなたとあなたの家から断ち、ナイル川以外には残らぬようにしましょう。」
そして、モーセが言ったように、次の日、かえるは、家からも庭からも死に絶えたので、人々はその死骸を幾山にも積み上げたので、国中に悪臭が満ちました。
ファラオは、この災いを通して、「主のような神がほかにいないことを知るようになりました」。まさに、今こそ、悔い改めの機会が与えられたのです。
しかし、11節にはこう書いています。
「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。主が仰せになったとおりである。」
ここに「一息つく暇ができたのを見ると、」と書かれています。ここに人間の罪深さがあります。自分が危機的な状況に置かれた時は、神様に助けを求めましたが、「一息つく暇が出来ると」また、心をかたくなにして、神様の言うことを聞き入れようとはしなかったのです。
ある人が、「人は病気の中で神様と約束したことを、病気が癒やされた後で、実際に行わなければならない。」と言いました。ファラオは、苦難の中で学んだ教訓を、その苦難が去った後で、実行しなければならなかったのです。しかし、ファラオは、そのような真実がかけていたのです。
私たちも、試練が襲ってきた時には、神様の熱心に助けを求めます。しかし、その試練が過ぎ去ると、神様から離れてしまことがなかったでしょうか。試練が過ぎ去った時こそ、神様に感謝をささげ、その約束を果たす時です。
(2)ぷよの災い(12~15節)
このぶよの災いは、ファラオに知らされずに、突然行われました。
それは、ファラオが、かえるの災いの時に、「かえるを退かせてくれるならば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と約束したにもかかわらず、心をかたくなにして、約束を守らなかったからです。
神様は、モーセに命じて、アロンに地のちりをうたせ、全土のちりをブヨにされました。
エジプト人は、土を拝む習慣もありました。彼らは、潔癖な民族でありましたが、その彼らが拝んでいる「土のちり」が、ぶよになって、家畜を襲ったのですから、彼らにとって信じられないような出来事であったに違いありません。
それを見た、魔術師も秘術を用いて、同じようにぶよを出そうとしましたが、できませんでした。そこで、彼らはこう告白するのです。
15節の前半で、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言っています。
およそ、まねには限度があります。わたしたちクリスチャンが行う事は、大概誰でも他の人もまねができるでしょう。しかし、いくらクリスチャンのまねをしても、そのメッキは必ずはげてしまいます。
なぜなら、私たちクリスチャンの心の中には、キリストが宿っておられるからです。私たちは、そのキリストによって、聖霊の実を結ぶ事が出来るのです。
先程読んでいただいたガラテヤ5:22~23には、御霊の実が9つ書かれていましたが、これは、聖霊によらなければ、決して結ぶ事の出来ない実です。
私たちの、心と生活を見て「これは神の指の働きでございます」と言われるような、聖霊に満たされ、御霊の実を豊に結ぶクリスチャンにさせていただきましょう。
魔術師は、自分たちにはまねができない神の奇蹟を目の辺りにして、「これは神の指の働きでございます」 と告白をしました。
しかし、ファラオは、そのような奇蹟を体験しても、心をかたくなにして、彼らの言うことを聞かなかったのです。そこで、今度は四番目の災いが、エジプトに襲うことになります。
(3)あぶの災い(16~28節)
このあぶの災いから2つのことを学びたいと思います。
①正しい者と正しくない者を区別される神様
神様は、心をかたくなにして、イスラエルの神を礼拝に行かせないファラオに対して、モーセにこう言われましたす。16~19節
「主はモーセに言われた。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。17 もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。18 しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。19 わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる』と。」
エジプト人の住む地とイスラエルの民が住むゴシェンの地を区別されました。ファラオがイスラエルを、神様を礼拝するために行かせないので、神様は非常に多くのあぶの大群をファラオの神殿とエジプトの家臣の家に入って、エジプト全土に及び、国はあぶの大群によって荒れはててしまいました。
しかし、イスラエルの住むゴシェンの地には、あぶがいませんでした。神様は、世のすべての国々の中から、イスラエルの民を選ばれ、愛され、彼らを瞳のように守ってくださいました。18節の後半に、「あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。」とありますが、イスラエルの民は、このあぶの災いが、エジプト人だけに及んで、自分たちが守られたことによって、「主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るように」なったのです。
②悪の道に妥協してはならない。
あぶの災いを受けた、ファラオは、モーセとアロンを呼んで提案をします。
まず第一番目に21節
「ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」
ファラオは、「この国の中で犠牲をささげるがよい」と提案をしています。
そして、二番目の提案は、24節です。
「ファラオが、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」
ここでは、「ただし、あまり遠くへ行ってはならない。」と言っています。
ここでファラオが、「この国の中で犠牲をささげるがよい。」「ただし、あまり遠くに行ってはならない。」と言ったのは、イスラエルの民を自分の手から逃れさせないためであり、エジプト人がいみきらう神様への犠牲をささげるイスラエルの民を、石打にしてこらしめるためでした。
悪魔は、神の民である私たちが、この世の悪から完全に離れようとするのに反対して、「この国の中で、」神様を礼拝しなさい。また「ただし、あまり遠くに行かないように」と、巧妙に引き留めようとします。
しかし、私たちは、モーセは、22~23節で、はっきりとこう答えています。
「モーセは答えた。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で打ち殺すのではありませんか。:23 我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」
このモーセのように、私たちは、この世の悪であるエジプトから完全に離れて、心おきなく神様を礼拝することを要求しなければなりません。私たちは、神と世俗に兼ね仕えることは出来ないのです。
ローマ12:1~2(P291)
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
特に2節に「この世に倣ってはなりません。」とありますが、これは、口語訳聖書では「この世に妥協してはなりません。」と訳されています。この世に妥協することなく、心を新たにして、自分を造り変えていただき、心からの礼拝をおささげしましょう。
25~27
「モーセは答えた。「では、あなたのもとから退出しましたら、早速主に祈願しましょう。明日になれば、あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去るでしょう。ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください。」26 モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願した。27 主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。28 しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。」
神様は、正しい者の祈りを聞いてくださるお方です。しかし、心を頑迷にして、神に背く者を裁かれるのです。
アメリカのある監獄であった出来事です。ある死刑囚が、新聞を手にして、激しく泣いていました。新聞には、「第二十二代アメリカ大統領にクリーブラント就任」と大きく書かれていました。
これを不思議に思った看守が死刑囚に、なぜそんなに泣くのかと聞きました。彼は頭をたらして、こう言いました。「クリーブラントは大学の友人でした。ある日、授業が終わって校門を出ると、彼がいっしょに教会に行かないかと私の手を取りましたが、私はそんな友人をあざ笑って、その手を振りほどきました。放課後、彼がまっすぐ教会に向かっているのを見ていました。一方私は、学校の周辺のバーへと走っていきました。大学を卒業するまで、そんな生活を繰り返しました。あの時の選択が、こんなふうに私の運命を分けるとは思いもしませんでした。彼は大統領になり、私は殺人犯になったのですから。」
私たちは、人生の中でいろいろなことを選択していかなければなりません。信仰とは、その選択の中で、正しい道を選ぶことです。この世と妥協することなく、心からの珪肺をささげて、祝福の道を歩ませていただきましょう。
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