牧師休暇のために、お祈りをありがとうございます。
月曜日には、父の七周年記念礼拝を家族で行い、父の思い出を語り合う恵みの時を迎えました。次の日は、台風15号のため、身動きがとれませんでしたが、家族でゆっくりと時間を過ごすことが出来ました。
その日の夜、父が、ソフトバンクのファンでしたので、弟が、福岡ドームに行こうとチケットを買っていました。ところが、台風のため高速道路が閉鎖されて、もう駄目だと諦めかけていましたが、車の中で「神様、どうか道を開いて下さい。」と祈ったのです。すると、夕方6時くらいになってやっとインターチェンジが開き、後半だけでしたが、念願のプロ野球を見ることが出来ました。神様が、祈りを聞いてくださり、道を開いて下さったのです。今日は、「開かれた道」という題で、御言葉を取り次がせていただきます。
今日の中心の御言葉は、21~22節
21~22節をご覧ください。
「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」
人生には、自分の願い通りではなく、遠回りをしなければならないことがあります。しかし、遠回りをしなければすることのできない、素晴らしい経験があります。
エジプトを出たイスラエル人は、カナンの地を目指して旅を始めました。
当時、エジプトから東へ向かう道は3つありました。
最初の道は地中海の海岸沿いを旅する、ペリシテ街道で、一番近道でした。次の道は、シュルの荒野を通って、ベエルシェバに向かう道です。そして、三番目は、当時エジプト人とアラビヤ人が交易のために用いていた道で、シナイ半島の真ん中を縦断する道です。
しかし、神様は、イスラエル人その3つのどの道でもなく、一番南にあるシナイ山を通る荒野へと導かれました。
その理由が、13章17節に書かれています。
「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」
ペリシテ街道を始め、彼らが普段通る道を通ると、戦いを避けることが出来ません。今まで強制労働させられてきたイスラエル人に本格的な戦いなど出来るはずがありません。荒野を通るのは、遠回りのようですが、神様の御計画によるものだったのです。
そして、何よりも驚くべき恵みは、この旅路に、いつも主が共にい立てくださったということです。
神様は、イスラエルの民を導くために、昼は雲の柱、夜は火の柱の中におられて、人々の前を進まれました。神様は、昼も夜も彼らと共におられて、導いてくださったのです。
今日のこの聖書の中から、3つの事をお話ししたいと思います。
(1)危機的な状況の中で主を見上げよ
今日読んでいただいた14:15~31は、イスラエルの民は出エジプトをして後、主の導きに従って、ミグドル海との間にあるビ・ハヒロトの手前で宿営時の事が書かれています。。
その時に、イスラエルの民にとって大変なことが起きたのです。
エジプトの王ファラオはイスラエルの民が逃亡したという報告を受けると、考えを変えて、5節でこう言っています。
「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」
そして、戦車に馬を繋いで、自ら軍勢を率いて、えり抜きの戦車600をはじめ、エジプトのすべてを動員して、イスラエルの人々の後を追いかけたのです。
その時、イスラエルの民は、エジプトの大軍を見て恐れて、モーセに向かってこう攻め寄りました。
11~12節
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
前には海があり、後ろには、エジプトの軍隊が攻めてきます。それだけではなく、モーセにとって一番辛かったのは、味方であるはずの同胞のイスラエルの民が、モーセに攻め寄ってきたのです。まったくモーセは、八方ふさがり、四面楚歌のような状態でした。
そのような中で、モーセはこう言うのです。
13~14節
「モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
モーセは、イスラエルの民に、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と言っています。
前には海、後ろはエジプトの軍勢、内側からはイスラエルに攻め寄られて、嵐のように騒がしい中で、モーセは「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と言うのです。
私たちの人生にも、八方ふさがりのような状況のに襲われる事があるでしょう。しかし、私たちは、恐れる必要がないのです。そのような時にこそ、静かに神様のだけを信頼するならば、「主があなたたちのために戦われる。」のです。
私たちの人生には、自分の力ではどうすることも出来ないできないことがあります。そのような時にこそ。静まって全知全能の神様に祈みましょう。そうして、「ただ、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と言われる主が成して下さる御業を待ち望めば良いのです。
13~14節
「モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
モーセは、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と言いました。八方ふさがりになった時、私たちの知恵や力で何とかしようともがくのではなく、静まって祈り、私たちのために戦ってくださる、神様の御業を見せていただきましょう。
(2)信仰の杖を差し伸べなさい
16節をご覧下さい。
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」
神様は、このような絶望的な状況の中で、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」とおっしゃいました。
モーセが、神の言葉を信じて、手を海に向かって、差し伸べるならば、紅海が二つに分かれるというのです。
私たちが、もし、モーセだったら、どうするでしょうか。私だったら、不信仰ですから「たとえ神の言葉であっても、そんなことは絶対にあり得ない。」と尻込みをしてしまうかも知れません。また、「手を差し出した後に、もし海が二つに割れなければ、周りの人々が私のことをどう思うだろうか。」と臆病になってしまうかもしれません。
もし、そのような不信仰や臆病によって、杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べなかったとしたら、モーセのような奇跡を経験することは出来ないのです。
しかし、モーセは、この驚くべき奇跡を行うことのできる神様を信じたのです。そして、神様の言われた通りに、杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べると、その御言葉通り、海が二つに割れるという「神の驚くべき恵み」を経験したのです。
ここには、二つの恵みが与えられています。
①敵の手から守られる恵み
19~20節
「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」
まず、これまで、イスラエルの前を進んでいた、雲の柱が、彼らの後ろに立ち、イスラエルの民とエジプト軍の間に割って入ったのです。そのため、エジプト軍は、その真っ黒の雲のために、イスラエルに近づくことができなかったのです。
サタンが、私たちを襲おうとしている時、私たちが、神様に信頼して祈るなら、主の臨在が、サタンの力から私たちを守ってくださるのです。
こんな話しを聞きました。ヨハネの黙示録3:20に
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」 とありますが、心の戸をたたくのは、イエス様だけではなく、サタンも、私たちを誘惑しようと、心の扉をたたきます。その時に、私たちが、前に出て、扉を開くと、サタンの誘惑に負けてしまい、サタンを私たちの心の中に迎えてしまうことになってしまいます。
しかし、その時に勝利の秘訣が一つだけあります。それは、私たちの心には、イエス様がおられますから、そのイエス様にその戸口に立っていただけば良いのです。そうすれば、戸を開けた、サタンは目の前に、イエス様がおられますから、驚いて一目散に逃げてしまうというのです。
私たちには心の中を、聖霊がサタンの手から守ってくださるのです。
イスラエルの民とエジプトの間に雲の柱が立って、イスラエルの民が守られたように、私たちの心の中にも、雲の柱であられる神様に立っていただき、サタンの手から守っていただきましょう。
②信仰による勝利の恵み
モーセは、ついに信仰の手を挙げました。モーセは、自分の力に頼らず、ただ神の言葉だけを信じて、信仰の杖を差し伸べました。
すると、大変な軌跡が起こりました。イスラエルの歴史の中で、いや、世界の歴史の中で、代々にわたって伝えられる、最大の奇跡が起きたのです。
21~22節をご覧ください。
「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」
モーセが、自分の力に頼るのを止めて、ただ神の言葉を信じて、信仰の杖を差し伸べた時、水は彼らの右と左に壁のようになり、乾いた地を、イスラエルの人々は、歓喜と感謝の心に満たされて、渇いた時の真ん中を歩き出すことができたのです。
私たちも、この時のイスラエルの民のように、絶体絶命のような状況におかれることがあるかも知れません。いや、今そのような状況だという方もおられるかも知れません。
そのような時に、ただ、モーセのように神様の言葉だけを信じる、信仰の杖を差し伸べましょう。そうするならば、必ず、神様は、不可能と思える道を開いて、私たちを導いてくださるのです。
先週は、山形南部教会で、嬉しいことが二つありました。一つは、水曜日に那須 悟兄と暢子姉の間に、次男の賛(たすく)くんが無事に産まれたことです。
もう一つは、金曜日に、県立中央病院に入院されていた川上義也兄が、ペースメーカーの手術を無事に終えられて、退院をされたことです。
暢子さんは退院されますが、たすくくんは未熟児で産まれたために、なお入院が必要です。
また、義也さんも退院されましたが、さらに回復のために、祈りが必要です。どうか、更に信仰の杖を差し伸べて、祈って、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(3)主の驚くべき恵み
神様は不可能を可能にしてくださるお方です。神の言葉を信じ、神様を信頼して、導かれていったイスラエルの民を、神様は導いてくださり、前進することは不可能だと嘆いていた、海を二つに分けて、その海を渡りきることが出来たのです。
神様は、海の中に入り込んだエジプト軍を、雲の柱から見下ろされ、彼らをかき乱されました。エジプト兵は、彼らの自慢の戦車の車輪がはずれてしまい、前にも後にも進むことが出来なくなってしまいました。
25節にはこう書かれています
「戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
エジプト兵は、死を前にした時にはじめて「主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」 ことを知ったのです。
その間に、イスラエルの民は、すべて向こう岸に着き、主はモーセにもう一度、手を海に差し伸べるように命じられました。モーセが、主の御言葉に従うと、今まで両端で垣根となっていた二つの壁が、怒濤のようにエジプト軍に向かって突進し、エジプト軍は滅んでしまったのです。
こうして主は、その日、イスラエルをエジプトの地から、完全に救われたのです。
イスラエルの民は、この大いなる御力を知る見て、もう一度主を恐れ、主のしもべモーセを信じたのです。
30~31節
「主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」
神様は、紅海を二つに分けて、道を開いてくださるお方です。
私たち人間には、すべての人が、必ず超えなければならない大きな川があります。それは、死という川です。この世に生をいただいたすべての人が、死を迎えます。
しかし、その死という、自分の力ではどうしても渡ることの出来ない、大きな川を、二つに分けて、道を開いて下さる方がおられるのです。それが、イエス・キリストです。
ヨハネによる福音書14章6節(P196)をご覧ください、
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
神様は、私たちを愛してくださり、独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さいました。そして、そのイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。イエス様は、十字架の死によって、永遠の命の道への道となってくださったのです。私たちは、ただその十字架の贖いによってだけ、永遠の滅びから救われて、永遠の命が与えられるのです。
今週の水曜日です。私たちは、北九州にいましたが、みなさんに祈っていただいていた、田渕さんが亡くなられたと電話がありました。わたしは、すぐに新幹線に乗って、山形に戻り、前夜式と告別式の準備をして、鶴岡に向かいました。
そして、27日に納棺式、28日に前夜式、29日に告別式と火葬を行って、昨日帰ってきました。
スケジュールとは、随分違う牧師休暇になりましたが、多くの恵みをいただいて帰ってきました。
この度、田渕亨治さんの告別式は、不思議なことがありました。
私は、基督教独立学園の26期生で、23年前に、蜘蛛膜下出血のため突然天に召された、田淵誠一君と同級生です。本当に不思議なのですが、田淵誠一君が天に召された時も、私の実家は、北九州の小倉にあるので、帰省をしていたのです。突然、電話がかかってきて、誠一君が亡くなったので、葬儀をして欲しいと声をかけていただき、急いでかえってきました。
そして、田淵亨治先生の亡くなられたのも、私が休暇で、北九州に帰ったときでした。
誠一君が天に召されたのが8月27日、田淵亨治先生が天に召されたのが8月26日一日しか違わないのです。そして、前夜式と告別式は同じ日に行われました。二人ともイエス・キリストを信じる信仰を持っていましたので、今は、23年ぶりに天国で、抱き合って天国での再会を喜んでおられることでしょう。
そして、私たちもイエス・キリストを信じるならば、すべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられる、それが、聖書の約束です。
神様は、私たちが、どうすることもできない、死の川にも道を開いてくださるお方です。神様は、絶体絶命のような時にこそ、ただ、神の言葉を信じ、信仰の杖を差し伸べる、私たちに驚くべき恵みを与えてくださるお方です。
31節
「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」
神様は、わたしたちが思い通りにならないことや、時には絶体絶命と思われるような出来事を通して、大いなる御業を成してくださるお方です。その神様の勝利を信じて、信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。
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