9/20 主日礼拝

「イスラエルには光があった」出エジプト10:1~29

 関東や東北の記録的豪雨から、10日が過ぎました。多くの人々が、避難所で生活しましたが、その中で、ある家族が、電気も水道の復旧していない自分の家にとどまり続けた家族のことが報道されていました。

 自分の家にとどまり続けた理由は、盗難から自分の家を守るためでした。東日本大震災の時もそうでしたが、被災して留守になった家に、多くの盗難が起きたのです。

 そこに、残った家族は、夜になると真っ暗ですから、ロウソクを灯して、一夜を過ごしていました。真っ暗な被災地に、一本のロウソクが灯って輝いている、その光を見ながら、暗い世の中にあって、希望の光を感じました。

今日の中心の御言葉は、23節です

「人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」

  出エジプト記7~11章にかけて、10の災いが書かれています。

 イスラエルの民をエジプトから解放するように、ファラオに命じました。ところが、ファラオは心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。

 今日読んでいただいた、20節に

「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。」  と書かれています。この10の災いが行われた理由に、「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので」という言葉が何度も出てきます。何とも不思議な言葉ですが、1節に3つの理由が書かれています。

 その事が、1~2節に書かれています。

「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、2 わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」

 1番目の理由が1節に書かれています。それは、ファラオが心をかたくなであるために、彼らのただ中で、奇蹟を行うためです。

 2番目の理由は、2節の前半に書かれていますが、その驚くべき奇蹟を、イスラエルの民が子孫に語り伝えるためです。

 私たちも、私たちが人生の中で経験した素晴らしい神様の御業を、自分の子どもたちや孫、子々孫々に証していかなければならないのです。 

 そして、3番目は、イスラエルの民が、イスラエルの神こそが、主であることを知るためです。

 この3つの目的のために、神様は、モーセを通して、エジプトに災いを起こされましたが、今日読んでいただいた聖書の箇所には、8番目の災い「いなごの災い」と9番目の災い「暗闇の災い」の事が書かれています。


(1)いなごの災い

3~5節

「モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に言った。「ヘブライ人の神、主はこう言われた。『いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせなさい。4 もし、あなたがわたしの民を去らせることを拒み続けるならば、明日、わたしはあなたの領土にいなごを送り込む。:5 いなごは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす。」

  ファラオは、すべてを失うまで、神様の前に身を低くすることは出来ませんでした。高ぶったファラオは、神様の前にかたくなな心を捨てることは出来ませんでした。

 神様は、モーセを遣わして、『いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。』

とファラオを叱責します。それでも、拒み続けるならば、いなごの災いを下すと言われたのです。このいなごの群れは、雹と雷の災いで被害を受けずに残った穀物や木まで食い尽くしてしまいます。いなごの災いは、すべての生活必需品を食い尽くし、エジプトをすべてを奪い取ってしまうことを意味しています。

 神様は、さばきのために用いられました。ヨエル書1:4にも書かれています。

「かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。:5 酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」

 このいなごの災害によって、雹や雷の災いで免れた物もすべてを食い尽くすというのですから、エジプトの穀物にとっては、最大の被害をもたらすものでした。この警告を聞いた時、以前には強情になったファラオの家臣達は、さすがに不安になりました。そこで、7節で、ファラオにこう進言したのです。

「ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」

  ファラオは、この家臣たちの言葉によって心が動かされました。もう一度モーセとアロンを呼び戻しました。しかし、ここで、ファラオがモーセとアロンに提案したことは、彼らが求めたこととは違いました。

 ファラオが、誰が行って主に仕えるのか」と聞くとモーセとアロンは、9節で

 「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」  と応えます。しかし、ファラオは、

10~11節でこういう提案をするのです。

「ファラオは二人に言った。「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。11 いや、行くならば、男たちだけで行って、主に仕えるがよい。それがお前たちの求めていたことだ。」ファラオは自分の前から彼らを追い出した。」

  ここで、ファラオは男だけで行って、主に仕えるが良いと提案するのです。そうすれば、女や子どもたちを人質に取っていますから、必ず彼らは帰ってくると計算をしたのです。

 サタンの誘惑は巧妙です。ファラオが、男だけで主に仕えなさいと言ったように、私たちに都合の良い条件を出して、私たちを妥協させようとするのです。しかし、この世と妥協してしまったら、サタンの思うつぼです。イスラエルの男達が、妻や子どもたちを迎えにエジプトに帰らなければならなかったように、私たちも、またこの世の暗闇に逆戻りしなければならないのです。

 先日、青年会と一緒に、ボーリングに行って、楽しい時を過ごしました。

 聞くところによると、マルチン・ルターの時代から、ボーリングはあって、ルターもボーリングを楽しんだそうです。

 ボーリングの醍醐味は、10本のピンを一度に倒すストライクにあります。ボーリングの達人たちの秘訣の中に「ボーリング・アレー」というのがあるそうです。10本のピンを倒したいなら、ど真ん中をねらうのではなくて、一番ピンと二番ピンの間に正確に回転を加えて投げると、そのエネルギーで、10本のピンがすべて倒れるそうです。

 私たちが、覚えておかなければならないことは、サタンは、私たちの魂を倒すために、私たちの弱点を集中的に攻撃をしてくる、ボーリング・アレーの用いる達人であるということです。

 私たちの一番弱いところを狙ってくるのです。この時、イスラエルの民は、何百年も神様を礼拝することが許されていませんでした。その時に、男だけでも、荒野に行って、主に犠牲をささげ、礼拝ができるならと言って、その言葉に乗ってしまっていたら、もとのもくあみです。エジプトの暗闇の中に逆戻りをしなければなりませんでした。

 また、イエス様のあの荒野の誘惑の時もそうでした。40日40夜、断食をしたイエス様に対して、「石をパンに変えて、食べなさい。」と誘惑をするのです。

 サタンは、私たちの弱点を利用して、攻撃してくることを覚えて、その誘惑に陥らないように、目を覚ましていましょう。

 モーセとアロンは、その誘惑を見事に退けました。そこで、ついに、神様は、いなごの災いをエジプトにくだされたのです。

 モーセが杖を差しのばしたところ、終日終夜東風が吹き、朝になるとその風がいなごの大群を運んできました。そのいなごの大群は、地の面を覆い、木であれ、野の草であれ、すべての緑色の物を食べ尽くしてしまいました。

 その時、さすがのファラオも、エジプトに危機が迫っていることを感じました。そこで、再びモーセとアロンを呼んで、今まで、自分が主に対して犯した罪を認めて、モーセとアロンにたいしても罪を犯したことを認めて、自分の過ちを赦してくれるように祈って欲しいと願ったのです。

16節

「ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで頼んだ。「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。17 どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。」

  モーセは、このファラオの要求を受け入れて、主に祈りました。すると、強い西の風が吹いて、すべてのいなごを紅海(葦の海)に追いやったのです。

 しかし、いなごがいなくなると、またファラオは心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。

 ヨハネの黙示録の中に、この世の終わりに、更に恐ろしいいなごのさばきを起こされることが書かれています。

 ヨハネ黙示録9:3~5

「そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。5 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。」

  このいなごは、草木を食べるためにやって来るのではなく、神を信じない人に苦しみを与えるためにやって来るのです。その時には、人々がその苦しみの故に死を求めても、死ぬことも出来ない、恐ろしい終末の時がやって来ると預言されているのです。

 4節に「ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。」と書かれていますが、「額に神の刻印を押されている人」というのは、イエス・キリストを信じて救われた人のことです。

 どうでしょうか。みなさんは、もうすでに、イエス・キリストを信じて、額に神の刻印を押されているでしょうか。そうであるならば、主に心から感謝しましょう。

 しかし、まだ、そうでない方が、私たちの周りにたくさんおられます。その方々に、イエス・キリストの福音をお伝えしましょう。


(2)暗闇の災い

21~22節

「主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい。22 モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。」

 9番目の災いは、暗闇の災いです。

 モーセが主の命令によって、天に向かって手を差し伸べると、やみがエジプトの全土は三日間暗闇になり、エジプト人は、誰も互いに見ることも、自分の場所から立つこともできませんでした。

 エジプトでは、古くから太陽は、「ラー」と呼ばれ崇拝されていました。また王様は「ラーの子」と呼ばれて、絶対的な権威を持っていたのです。

 ところが、三日間暗闇になった時、生活に必要な光と熱の源がエジプト人から奪われただけでなく、彼らの頼りにしていた太陽の神が、無力さを明らかにされてしまったのです。

 ところが、この時に不思議なことが起こりました。

23節をご覧ください。

「人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」

  大変な暗闇の中で、エジプト人は苦しんでいましたが、この時にも、7節の後半には、

イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」と書かれています。

 Ⅰヨハネ1:5には、

「神は光であり、神には闇が全くないということです。」と書かれています。神様こそがまことの光りです。神様を信じる者には、心の中に光があるのです。

Ⅰテサロニケ5~8

「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」

  私たちは、神を信じる信仰によって、光の子、昼の子とされているのです。そして、どんな暗い夜や暗闇が襲ってきても、それに負けることはないのです。

 時田直也さんのお証しをしたいと思います。

 時田直也さんは、未熟児網膜症で、生まれて、すぐに失明をしてしまいました。

 ご両親は、彼の将来を考えると、心配で心配でたまりませんでした。そして、お医者さんに、「現在の医学では治りません。」と言われた時には、心が真っ暗になってしまいました。

 けれども、そんなお父さんに、イエス様は、希望の光を与えてくださったのです。

 ある日のことです。お父さんが赤ちゃんの直也君をだっこして、家の近くの山に登った時、海からふいてくる風に、直也君が、喜んで手足を動かしたのです。

  その時に、お父さんは、クリスチャンでしたので、神様の助けによって、この子を育てようと決心をしたのです。

 いろいろ苦しいこともありましたが、イエス様に支えられて、直也君は成長し、ついにイエス様を救い主と信じたのです。

 その時から、直也君の生き方が変わりました。確かに、肉体の目は見えませんが、心の目が開かれて、輝いて生きるようになって、神様から与えられた、音楽の賜物をもって、多くの人々を慰め、励ましておられます。

 彼は言います。

「目が見えないことは不自由ですが、決して不幸ではありません。ナンバーワンではなく、オンリーワンとして生かしていただいている幸いを、歌に現すことが、わたしの使命です。」

「目が見え ないことは不便ではありますが、決して不幸ではないのです。今、生かされている喜びと 輝きを歌い続けてゆきたい。歌うことは希望を語ることです。」

  時田直也君は、イエス・キリストを信じる信仰によって、まことの光りであるイエス・キリストを証ししておられます。

 しかし、神様を信じない者にのうちには光がないのです。ファラオの心はかたくなで、光がありませんでした。光のないところに闇が訪れます。この暗闇の災いは、エジプト人が、神に捨てられることを暗示しているかのようでした。

 そして、この23節には、「人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」と書かれています。

 三日間の暗闇というのは、イエス・キリストが十字架につけられた時の三時間の暗闇を思い起こさせるのではないでしょうか。その時にイエス・キリストは、私たち全人類の罪をその身に負ってくださり、神のさばきを受け、陰府にまで降ってくださいました。それは、父なる神から引き離されるという苦しみでした。

 そこで、イエス様は、十字架上で、こう叫ばれたのです。

マルコ15:34

「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

  地獄とは、霊的な暗黒の場所です。そこには、神の光がありません。しかし、イエス様が、罪人である私たちの身代わりになってくださったので、主イエスを信じる私たちは、天国に行くことが出来るのです。

 天国は、地獄とは正反対に、神の光によって輝いている場所です。

ヨハネ黙示録21:23

「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」

  私たちは、やがて、神様の御前に立たなければならない時がやって来ます。その時に、永遠と暗闇と、永遠の光の世界、どちらを選択するでしょうか。

23節

「人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」


 あの暗闇の中で、、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と私たちの罪の身代わりに命を捨ててくださったイエス様を信じて、光の中を歩ませていただきましょう。



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Illustration by c-awase