ファラオと主の争いは、ほぼ終わりに近づきました。ファラオは、悔い改める機会が何度も与えられました、警告が何度もくだされ、災いが何度も下されました。
しかし、ファラオは心をかたくなにし続けました。そこで、ついに、神様は最後の災いをくだす決心をされました。そして、その時に、真夜中ごろ、神様はエジプトの中を進まれるのです。
今日の中心の御言葉は、4節です。
「 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。」
『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。」という御言葉を読んだ時、アダムとエバが、善悪を知る知識の木の実を食べて神様に背いた時に神様が、アダムとエバの所に行かれたことを思い出しました。
創世記3:8~9節
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
神様は、罪をそのままにしておかれる方ではありません。罪を悔い改めて、神様の元に立ち返ることを望んでおられるのです。
11章には、その最後の災いについて、神様がモーセに語られ、モーセがファラオにそれを警告するところです。この聖書の箇所から、3つの事をお話しします。
(1)最後の災いによってイスラエルに与えられる祝福
1~3節に、最後の災いを通して、イスラエルに与えられる3つの祝福が書かれています。
1番目の祝福が1節に書かれています。
「主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。」
ついに、ファラオが、イスラエルの民を去らせるという祝福です。その時には、その災いの故に、イスラエルの民が一人残らずエジプトから追い出すというのです。
2番目の祝福が、2節に書かれています。
「あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」
神様は、イスラエルの民がエジプトを立ち去る時に、金銀の装飾品を求めるように命じられます。エジプト人は、これまで9回の災いを通して、家畜や奴隷、穀物などすべてを失ってしまったような状況でした。そのようなエジプト人に、金銀などの装飾品まで求めるというのは、あんまりだと思うかも知れません。
しかし、神様は、エジプトを大飢饉から救ったあのヨセフの時代から、イスラエルが奴隷として搾取されてきたので、エジプトから出る時には、未支払い分の賃金を受け取るようにされたのです。それは、モーセが召命を受けた時から、語られていたことでした。
出エジプト3:21~22
「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。22 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」
神様は、公平なお方です。今は、たとえ不公平に感じるようなことがあっても、主の御前に立つ時、必ず私たちに報いを与えてくださるお方です。
3番目の祝福が3節にあります。
「:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。」
今まで行われてきた数々の奇蹟を通して、モーセは神から選ばれた指導者であると尊敬されるようになりました。また、エジプトに災いが起こった時、イスラエルの民が神様から守られたのを目の辺りにして、彼らは神から選ばれた特別な存在であることを知って尊敬するようになったのです。
私たちも、本当に神様の御言葉に従い、また神様の栄光を生活の中で現していく時に、周りの人々の尊敬を受ける者へと変えられて行くのです。
ある小学校の校長先生をしたことのある人の話です。
ある日、町内の人たちと一緒に松茸狩りに行った事がありました。この人は、二人の子どもを連れて行ったのですが、そっと誰にも見つからないように袋を持たせて、「採った松茸を隠して家に持って帰るように」と言って山に登ったそうです。
さて、いよいよ松茸狩りが始まりました。すると、一人の人が松茸を見つけて急いでとろうとした時、突然他の人が大きな声で「ちょっと待ってください。」と叫びました。何が起こったのかと不思議に思っていると、この人はみんなを集めて「さぁ、みなさん、わたしたちに素晴らしい松茸をくださった神様に感謝しましょう。」と言って大きな声でお祈りをはじめたのです。
はじめは、くすくす笑う人や、アーメンかなどと小声で言う人もいましたが、終わりにはみんな、静かにその祈りを聞いていました。
やがて、松茸狩りが終わり、みんなで、松茸のキノコ汁のご馳走を食べて、帰ろうとした時です。例の人が、「みなさん、わたしたちの中には、松茸を多く採った人も、少ししかとれなかった人もいますが、みんなで分け合って同じだけ持って帰りましょう。」と提案したのです。みんなは「それが良い」と言って賛成をしました。
その時に、ドキッとしたのが、校長先生です。自分は、二人の息子に袋をわたして、松茸を持って帰らせようとしていた。そのことが、恥ずかしくなって、二人の子どもに松茸を持ってこさせて、みんなの前にその松茸を差し出したというのです。
彼は、この時ほど自分をあわれに感じたことはなかった、それに対して、何の教養もない、一介の工員であるクリスチャンが実に素晴らしい人に見えて、その日からこの校長先生も信仰を求めるようになったと証しています。
3節
「:主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。」
私たちも、エジプトの国で生きているイスラエルの民のように、弱く力のない者です。この国で、モーセがファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けるということは、大変難しいことです。しかし、証しというのは、御言葉にしっかりと立って、神様に愛されていることを確信して生きる時、私たちの内側から湧き上がって来るものです。
そして、私たちは弱く足りない者であったとしても、私たちの内におられる神様が、御栄光を現してくださるなら、周りの人は、神様の素晴らしさに触れることが出来るのです。
3節
「:主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。」
私たちも、聖書の御言葉に従い、信仰と愛に生きて、私たちの周りの人たちから、尊敬されるような者にさせていただきましょう。
(2)モーセのファラオへの警告
oファラオへの警告
4~8節にモーセがファラオに語った警告が書かれています。
まず、4~6節には、すべての初子が死ぬという恐ろしい災いのことが語られています。
「モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。5 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。:6 大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
エジプト中のすべての初子、王座にいる者の初子も女奴隷の初子も貧富の差はなく、また家畜の初子まですべての初子が死んでしまうのです。その時には、今だかつてなく、今後もない叫びがエジプト全土に響き渡るのです。何という災いでしょうか。
神様は、忍耐強いお方ですが、永遠に忍耐されるお方ではありません。神様は、これまで、さまざまな災いを通して、ファラオとエジプト人に悔い改めの機会を与えられました。しかし、ファラオは最後まで、心をかたくなにして、神様の言葉に聞き従おうとはしなかったので、ついに、このような恐ろしい災いを受けることになってしまったのです。
神様は、私たちにも、いろろな形で、語りかけられます。ある時は、モーセがファラオに語りかけたように、誰かを通して語りかけられることがあります。また、エジプトが何度も災いにあったように、災いや試練を通して、神様に立ち返るように招かれることもあります。また、夢を通して語られることもあります。それは、神様の愛が、敵国エジプトやエジプトの王ファラオにも注がれているからです。何としてでも罪を悔い改めて、神様に立ち返るようにと願っておられるのです。
どんな形であれ、神の御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはなりません。心をかたくなにするなら、罪の報いを受けなければならないのです。
ジョナサン・エドワードという伝道者がいましたが、彼の隣に住んでいた人が、ある朝、真っ青な顔をして、エドワードの所にやって来たそうです。彼がエドワードに向かってこう言いました。
「昨夜わたしは、神様の御前に出る夢を見ました。すると、神様はわたしの今までの罪深い生活を明らかに示されました。その後で『けれども、今一年だけ、あなたに寿命を与えるから、今一度地上に帰って、悔い改めて、主に従いなさい。』とおっしゃったのです。」エドワードはそれを聞いて、「神様は夢をさえ用いて、人に教えられることがある。ですから、あなたは夢の中で教えられたことを、神様からの教えただと受け止めて、その神様と約束したことを、行いなさい。」と戒めました。
すると、彼もそれを受け止めて、しばらくの間は、信仰の道を歩んでいましたが、やがて、また堕落して、再び放蕩の生活を続けるようになってしまいました。
ある晩のことです。彼は居酒屋で酔っ払って、二階から階段を踏み外して、落ちて死んでしまったのです。
その知らせを聞いた、エドワードは、日記を読み返してみると、ちょうど一年前に、夢の中で「一年寿命を与える」と言われた夢を見た日だったそうです。
神様は、ある時は、御言葉を通して、友人との会話を通して、またファラオのように災いを通して、、そしてこのエドワードの隣の人のように夢を通して、罪を悔い改めて神様に立ち返るように語りかけてくださいます。その語りかけに忠実に従い、恵みの中を歩ませていただきましょう。
次に、恐ろしい災いの中でも、神様がイスラエルの民を守られる約束が語られます。
7節をご覧ください。
「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。」
真夜中ごろ、神様がエジプト中を進まれる時、すべての初子が死んでしまうという、恐ろしい災いが起こります。しかし、そのような災いの中でも、神様から選ばれたイスラエルの民は守られるのです。
神様は、神様から選ばれた民を決してお見捨てになるようなお方ではありません。最後まで愛し抜いてくださり、永遠の命を与えてくださるお方です。
ローマ6:23で、パウロはローマの信徒にこう書かれています。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
罪の支払う報酬は死です。その通りのことが、エジプト中に起こるのです。しかし、イスラエルの民が守られたように、神様は、すべての人に救いの道を開いてくださいました。そのことがはっきりと現されているのが、イエス・キリストの十字架です。神の御子である聖いイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さいました。その十字架によって救いの道を開いてくださったのです。そして、イエス・キリストを信じる時、賜物として永遠の命が与えられるのです。
今日、那須暢子姉の賛(たすく)くんの証しをお聞きすることが出来心から感謝します。
私が、賛(たすく)くんのことを聞いたのは、まだ、暢子さんが妊娠数ヶ月のころでした。「染色体に異常があり、このままでは障害をもって生まれます。どうしますか。産みますか。」とお医者さん聞かれたそうです。それを聞いた那須くんたちは、どんなに辛かったことでしょうか。
しかし、那須 悟くんと暢子さんは、「神様から与えられた大切な命だから育てます。」と決断をしたのです。「それでも、お腹の中の赤ちゃんは障害のためにいつまで生きれるか解りません。それに赤ちゃんが出産に耐えられるかどうかも解りません。」と言われましたが、那須夫妻の気持ちは変わりませんでした。
神様は、お腹の中にいる胎児をお守りくださいました。そして出産を迎える前に、不思議なことが起こりました。2週間くらい前からお腹が急に大きくなったのです。そのお陰で、出産の時にたまった羊水が流れて、出産の負担が軽くなったのです。そのように神様に守られて、8月26日(水)午後7時23分賛(たすく)くんが誕生しました。
出産後、すぐに家内にメールが届きました。「⒎時半頃、産まれました。生きています。息しています。NICU(新生児特定集中治療室)にいますが、無事です。」神様が命を与えてくださったのです。
これから、いろいろな検査や治療が続きますが、神様が賛(たすく)くんを通して、どんな素晴らしい御業を成して下さるのか楽しみです。
神様は、神様を信じる者の命をお守りくださるお方です。
7節
「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。」
神様がイスラエルの民を、区別して、彼らを守られたように、神様は、イエス・キリストを信じる者を永遠の滅びから救いだしてくださり、救ってくださるのです。
(3)ファラオの心をかたくなにした神
最後の災いが起こる時、エジプト人の初子は、王座につく者も、石臼を引く女奴隷もすべての人が死に、家畜の初子まで死んでしまうことが、モーセからファラオに伝えられました。その最後の災いにあった時、エジプトの家臣はすべてモーセの所に行って、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏して拝むでしょうとモーセは伝えました。
それにもかかわらず、ファラオは、心をかたくなにして、神の言葉に聞き従おうとはしませんでした。
9~10節
「主はモーセに言われた。「ファラオは、あなたたちの言うことを聞かない。そのため、わたしはエジプトの国に大きな奇跡を行うようになる。」10 モーセとアロンはファラオの前でこれらの奇跡をすべて行ったが、主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。」
ここに「主がファラオの心をかたくなにされたため、」と書かれています。なぜ、主がファラオの心をかたくなにされたのでしょうか。それは、最後の奇蹟を起こして、ファラオやエジプト人が、イスラエルの民をエジプトから去らせ、追い出し、ついにイスラエルに出エジプトという本当の救いが行われるためでした。
イエス様は、あの有名なゲッセマネの祈りで、マタイ26:39で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈りました。
イエス様は、この時、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 と祈りました。「この杯」というのは、これから起こる歴史上最も残酷な十字架刑でした。イエス様は、それを前にして、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈ったのです。神様は、この時その祈りを聞いて、十字架を取り去ることも出来たのです。しかし、神様の御心は違いました。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という「御心のままに」というのは、全人類のための十字架の贖いでした。
イエス様は、あのゲッセマネの祈りの後、十字架の道をまっすぐに歩み出したのです。
そのように、神様は、イスラエルをファラオやエジプト人から救い出すために、ファラオの心をかたくなにして、エジプト人の初子が死に、小羊の血をかもいに塗ったイスラエルの民の初子は救われる「過ぎ越し」の出来事を通して、イスラエルの救いの業が成されていくのです。
最後に4節を読みましょう。
「 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。」
神様が、エジプトの中を進まれたように、私たちも、神様の御前に立たなければならない時が来ます。
その時に、ファラオのように心をかたくなにして主の御言葉に聞き従わないのか、それとも、モーセやイスラエルの民のように、神の言葉に聞き従うかどうか、どちらかを問われます。
私たちの心を砕いていただいて、神の御子とは背に従い、イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、救いの恵みに与る者とさせていただきましょう。
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