最近、あるお母さんから、自分の子どもが病気になって、夜も寝ないで、看病をしたという話しを聞きました。
そのお母さんのように、私たちの神様は、夜も寝ないで、寝ずの番をしてくださるお方です。
今日の中心の御言葉は、42節
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」
今日の聖書の箇所は、いよいよ、初子が死ぬという10番目の災いのことが書かれています。この聖書の箇所から3つのことを学びたいと思います。
(1)神の裁き
ついに、最後の10番目の災いがエジプトに襲いました。
そのことが、29~30節に書かれています。
「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、30 ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」
神様の怒りは、誰も避けることは出来ません。老若男女、身分を問わず、家畜までもが、モーセが預言したとおりに、すべての初子が死んだのです。
これまでの、災いは、最後の災いに比べれば、ただの前奏曲、予告編に過ぎませんでした。もし、神様が今までの9つの災いを起こさずに、エジプトの初子を殺していたら、彼らは、本質的な災いの意味を知ることが出来なかったに違いありません。
しかし、度重なる災いを通して、神様の命令に逆らうことがどんなに大きな罪であるのか、また、その罪には神様の大きな罰が伴うことを知ったのです。
1977年のことです。アメリカ最大の富豪と言われた、石油王であつたハワード・ヒューズがこの世を去りました。彼の死因は栄養失調だったそうです。
石油王と言われるくらいですから、この世の地位や名誉も財産も得て、どんなに幸福な人生を過ごしたことだろうと私たちは想像しますが、そうではありませんでした。
この世の物を、すべて手にしても、心の中には、いつも孤独や空しさがありました。
そして、その精神的な孤独と空しい心を埋めるために、放蕩生活を送っていた彼は、大きな病に犯され、寝たきりになってしまいました。独善的な性格と脅迫生涯を送り、神様も人も誰も信じられなくなり、だった一人、この世を離れて、孤独な生活をして、食べる物も食べられないまま亡くなってしまったのです。
ファラオは、すべてのものを手に入れて、人もうらやむような生活を送っていました。しかし、エジプトという帝国の王になった時、イスラエルの民を虐げ、迫害を加えました。
モーセが、「イスラエルの民を去らせてください。」と頼みましたが、ファラオは心をかたくなにして、彼らを去らせようとはしませんでした。そこで、神様の災いを何度も受けますが、それでも、心をかたくなにしたため、ついに我が子を失うという、神の怒りを受けることになってしまったのです。
どんなに、この世で権威と力を得たとしても、神の言葉に従わないならば、孤独と空しい人生を送り、最後には、神の裁きを受けることになることを、このファラオの生き方を通して教えられます。
(2)イスラエルの民の救い
この初子の死の災いに遭った時、ファラオはたまりかねて、前には二度と再び、顔を見ないと言っていた、モーセとアロンを呼び出しました。そして、31~32節でこう言いました。
「ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。32 羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」
ファラオは、イスラエルの民が、小羊の血を、鴨居と二本の柱に塗った、イスラエルの民の家には、災いが過ぎ越したことを知り、イスラエルの神が確かに生きておられ、イスラエルの民を守っておられることを知ったのです。
そして、この神の言葉に逆らうと、大変なことになってしまうと恐怖をいだいて、出来るだけ早くイスラエルの民をエジプトの国から去らせようとしたのです。そうしないと、自分たちはみんな、死んでしまうと思ったのです。
この日のことが、伝説として残っています。
この夜、イスラエルの家族に一人の女の子がいました。彼女は、病気で寝込んでいましたが、夜中近いころ、その父親に向かって、「お父さん、小羊の血は大丈夫。門口と、かもいに塗っていますか。」と尋ねました。彼女は、その家の初子でした。お父さんは、「確かにそうするように命じておいたから、心配せずに、静かに寝ていなさい。」と言いました。それでも、この女の子は心配でたまりません。
「それでも気がかりですから、血を塗っているかどうか、確かめたいのです。わたしを連れて行って、見せて下さい。」と父親に熱心にお願いをしました。
そこで、父親が彼女を連れて、戸口に行ってみると、何と、命令を受けた召使いが、そのことをすっかり忘れて、血を柱とかもいに塗っていなかったのです。慌てて、小羊の血を柱とかもいに塗ったので、あぶなく、長女の命を取り去られるところを免れたというのです。
私たちの命を罪の滅びから、救うのは、キリストの血潮です。私たちは、その十字架の血潮によって救われているでしょうか。
29節に
「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。」と書かれています。
今、私たちは、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいますが、それは、やはり真夜中であるかも知れません。ですから、私たちは、再臨の主がいつ来られても良いように、霊的に常に目を覚まして備えていなければならないのです。
マタイ13:1~13に「十人の乙女のたとえ」の話しがあります。
花婿がやって来るというので、10人の乙女が、ランプに火をつけて待っていました。
5人は、賢い乙女で、ランプの他に壺に予備の油を用意していたのです。ところが、残りの5人は、愚かな乙女で、油を用意していませんでした。
花婿の来るのが遅れてしまったので、みんな眠ってしまいました。
ところが、真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がしたのです。
そこで、10人の乙女は、花婿を迎える準備をしましたが、ランプの油はなくなって、消えそうになっていました。そこで、5人の愚かな乙女は、困ってしまって、賢い乙女に『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 とお願いをしますが、賢い乙女は、『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』と答えました。そこで、急いで愚かな乙女は、店に油を買いに行きましたが、その間に、花婿が到着して、用意の出来ている乙女は、花婿と一緒に宴会の席に入って、扉が閉められてしまったのです。
後から、5人の乙女が帰ってきて、『御主人様、御主人様、開けてください』 と頼みますが、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』 と答えたのです。
これは、イエス様が再臨の主を待ち望む姿勢を話されたたとえです。
そして、マタイ25:13で「 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」とイエス様は言われています。
いつ、再臨の主が来られるのか、私たちには解らないのです。ですから、主がいつ来られても良いように、聖霊の油をいつも絶やさないように、目を覚ましていましょう。
主の再臨の時、それは、神に従わない者にとっては滅びの時ですが、神に従う者にとっては、救いの完成の時です。
この瞬間に、イスラエルの新しい歩みが始まりました。彼らは、エジプトの奴隷状態から解放され、自由が与えられたのです。むちの代わりに、金と銀と多くの財産が与えられたのです。
35~36節にこう書かれています。
「イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。36 主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。」
これは、アブラハムの時代からの、預言の成就でした(創世記15:14)
私たちも、神の裁きの時には、多くの嗣業に与る事が出来るのです。
エフェソ1:18(P353)
「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
心の目を覚まして、再臨の主が来られる時、永遠の希望と、豊かな栄光に輝いている嗣業を受け継ぐ者とさせていただきましょう。
(3)過ぎ越しの祭り
出エジプトは、単なる奴隷解放ではなく、神様の救いの御業です。
37~38節
「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。38 そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。」
神様は、10の災いを通して、ついに、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放されました。イスラエルの民は、ラメスからスコトに向けて出発しました。壮年男子だけで60万人というのですから、女や子どもを合わせると、200万人以上の人々が救い出されたのです。それも、イスラエルが隠れるようにして逃げるのでなく、金や銀、装飾品など多くの贈り物を受け取って堂々と出かけて行ったのです。
彼らは、酵母の入っていない菓子を焼きました。練り粉には、酵母が入っていませんでした。それは、この菓子を出来るだけ早く焼いて旅に備えるため、そして、これからの長い旅で、そのパンが腐りにくいように、乾パンのような、非常食を作ったのです。
イスラエルが、エジプトに住んだ期間は、アブラハムの召命から数えて430年(創世記15:13)、ヤコブの子孫70人がエジプトに移り住んでからは、わすが200年ばかりでしたが、その間に、壮年男子だけで60万人、全部で200万人以上の大きな民になったということは、神様の不思議な守りと祝福がそこにあったことを知らされます。
その神様の守りと祝福が、42節に書かれています。
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」
神様は、イスラエルの民がエジプトを立ち去る時、「寝ずの番をされた。」と書かれています。神様が、イスラエルの民をどんなに大切に守り、愛しておられたかが、この言葉からもよく分かります。
その、神様の恵みに対して、イスラエルの民は、この時から過ぎ越しの祭りをささげて、神様への感謝を現すようになります。そのことが、43~51節に書かれています。
過ぎ越しの祭りの中心は、小羊です。過ぎ越しの時、傷のない小羊が屠られ、その血が鴨居と二本の柱に塗られたことによって、災いが過ぎ越したのです。そして、わたしたちにとって、この小羊は、聖い神の子イエス・キリストです。イエス・キリストが、私たちの罪の贖いとして命を捨ててくださったので、私たちは、救われたのです。このイエス様の十字架と復活を覚えて、心からの感謝をおささげしましょう。
この過ぎ越しの小羊に与る事が出来るのは、イスラエル人だけでした。
43節には
「主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。」と書かれています。
しかし、奴隷でも異邦人でも、割礼を受けた者は、この過ぎ越しの恵みに与ることが出来たのです。その当時のイスラエルの人々は、割礼を受けることによって、イスラエル人であることを証明したのです。
しかし、割礼は、単なる儀式にしか過ぎません。そこで、パウロはローマ2:28~29節(P276)でこう言っています。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
異邦人である私たちでさえも、「霊による心の割礼」を受けた、まことのクリスチャンとされているのです。そして、罪の奴隷であった私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって、救われて、今はイエス・キリストの僕とされているのです。何という恵み、祝福でしょうか。その神様の大きな祝福を覚えながら、心からの感謝をおささげしましょう。
42節
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」
神様は、イスラエルの民をエジプトの国から導き出される時、寝ずの番をされました。
その神様の完全な愛と守りに対して、イスラエルの民も、「主のために寝ずの番を」するようになりました。
神様は、今も、私たちを完全な愛で愛しておられます。その愛に対して、私たちも完全な愛でお答えしたいと思います。しかし、私たちは、神様のように完全な愛でお答えすることは出来るのでしょうか。
先週の月曜日と火曜日に、聖協力会30周年記念大会が中目黒において行われました。その2日目の聖会Ⅱで、オズワルト博士が、「全き愛」について話してくださいました。 神様は、私たちに全き愛によって、愛する事を命じられています。しかし、それは、結果ではなくて、動機おいて全きものでなければならないとおっしゃいました。
そのメッセージの中で、こんな話しをされました。
一人の、伝道者がいました。その伝道者が、伝道旅行に行こうとした時、窓の外から庭を見ると、二本の枯れかけた木がありました。その伝道者は庭をきれいにしたいと思いましたが、もう時間がありません。「帰ってきたら、これを切るからね。」と言って伝道旅行に出かけたのです。
2週間ほどたって、帰って来ると、息子が嬉しそうに帰ってきて、「お父さん、お帰りなさい。お父さんを愛しているよ。」と言いました。その伝道者も「わたしも、君を愛しているよ。」と答えました。
すると、その息子が満面の笑顔で、「お父さん、お父さんが出かける時、2本の木を切るって言っていたでしょう。僕が、それを切ってあげたからね。」と言いました。
この時、お父さんはハットしたのです。実は、玄関の所に、大切にしていた立派な2本の木があったからです。恐る恐る「どの木を切ったんだい。」と息子に聞くと、「玄関の木だよ。」と嬉しそうに答えました。
この時、お父さんは何と答えたでしょうか。「何ていうことをしてくれたんだ。」と怒ったでしょうか。それとも、「それは違う木だったんだよ。」と息子に教えたでしょうか。
そうではありませんでした。お父さんは、息子が、自分のことを思ってくれて、小さな手で一生懸命2本の木を切ってくれた、その心が嬉しかったのです。息子のしたことは、結果としては、大事な木を切ってしまったのですから失敗です。しかし、お父さんは、その結果を見たのではなく、その息子のお父さんに対する愛を見たのです。そして、その愛の動機は、お父さんに対する「全き愛」であったのです。
神様は、私たちの心を見ておられます。たとえ、私たちの行いが不完全であったとしても、失敗をしたとしても、神様を愛する動機が純粋であるならば、神様はその心を見て喜んで下さるのです。
42節
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」
神様は、過ぎ越しの時、イスラエルの民をエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされました。その神様の恵みに感謝して、イスラエルの人は、過ぎ越しの祭りをささげ、主のために寝ずの番をしたのです。
イエス・キリストは、屠られた羊のように、十字架で命を捨ててくださり、私たちを救ってくださいました。その神様を「全き愛」愛をもって愛しましょう。そして、私たちも、心からの感謝と礼拝をおささげしようではありませんか。
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