今日は、川上英子姉のお証しを伺うことが出来感謝です。神様が、川上義也兄の命をお守りくださり、こうして、共に礼拝ができることは、神様が、生きて働いておられる証しであり、神様の大きな恵みです。主の御名を心から賛美します。
先週の12月10日(木)に、齋藤孝子姉のお父様、太田清さんが天に召されました。
10日の午後7時~告別式が行われ、11日の午後1時30分から告別式が、セレモニーホール白山で行われました。
太田 清さんは、今年の6月に済生病院でイエス・キリストを信じ、11月23日に小白川至誠堂病院で病床洗礼を受けました。
これから、主にある家族として一緒に歩んで行けると感謝していましたが、病状が急変して、洗礼を受けて、2週間後に、95歳で天国に召されていきました。
洗礼を受けて、たった2週間の信仰生活でしたが、太田 清さんは、告別式で、証し人として用いられ、御遺族の方に天国の希望をお伝えすることが出来ました。その大きな恵みを覚えながら、主の御名を心から賛美しました。今日、読んでいただいた、聖書の箇所は、マリアの賛歌と書かれていますが、マリアが、受胎告知を受けた時に、心からささげた賛美です。
今日の中心の御言葉は、48節です。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」
マリアは、ガリラヤのナザレで天使から、受胎告知を受けますが、その後、急いで山里に向かい、ユダの町に行きました。
この町には、ザカリアとエリサベトが住んでいました。エリサベトは、不妊の女と言われていましたが、御使いが告げたとおり、子供を宿して6ヶ月が過ぎていました。
ザカリアは、御使いの言葉を疑ってしまったので、その時以来ものを言うことが出来ませんでした。そのため、子供を授かったのに夫婦で声を合わせて神様を賛美することも、喜びを語り合うことも出来なかったのです。
ですから、エリサベトにとって、マリアが来て、一緒に喜びを分かち合い、神様を賛美することが出来たことは、大きな喜びであったに違いありません。
48節でマリアは、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」 と賛美していますが、この御言葉を中心に、マリアに与えられた3つの「幸い」について御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)御言葉に従う幸い
マリアの訪問を受けたエリサベトは聖霊に満たされて、預言を語ったのです。
42~45節
「声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
マリアは、まだあいさつの言葉しか口にしていません。マリアは、天使から受胎告知を受けたことも、その胎に宿っている子供がどのような子供なのかも全然話していません。それなのに、エリサベトは、42節で、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と言って、マリアの胎内に子供がいることを声高らかに賛美しているのです。
しかも、その胎内に宿っている子供が「わたしの主」であると言っています。そして、もっと驚くことに、マリアの挨拶の言葉を聞いた時、エリサベトの胎内の子供が「喜んでおどりました。」というのです。本当に不思議な出会いです。
そして、エリサベトは、こう言います。
45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
エリサベトはこの時、夫ザカリアの失敗を思い出したのかも知れません。
ザカリアは、エリサベトに子供が与えられると御使いに告げられた時、
「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)と、不信仰によってその言葉を受け入れることが出来ませんでした。そのために、ザカリアは、ものを言うことが出来なくなってしまったのです。その深い悔い改めから、マリアに対して、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言ったのではないでしょうか。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
神様が語られたことは、必ず実現します。私達もこの御言葉に生きる物でありたいと思います。
ドワイト・ムーディーは19世紀アメリカが生んだ世界的伝道者です。
彼は4歳の時に父と死別し、貧しい家庭で育ったので、初等教育をまともに受けることができませんでした。彼は生計のために靴の販売をしていましたが、その時に伝道され、信仰を得ました。それ以降、一生懸命に祈り、御言葉を学び、その時代を代表する福音伝道者になりました。
それはムーディーが「自分の言葉を伝えずに、神様の御言葉を伝えなさい」というヘンリー・ムーアハウスの忠告を心に刻み、毎日謙遜な思いで聖書を読み、神様だけを頼ったからでした。D.L ムーディーは、神学校を卒業することができませんでした。なぜなら小学校も卒業できなかったからです!
ただ神様の召しを受けて、神様の御言葉を昼夜、黙想し、研究しただけでした。しかし、その頃、D.L ムーディーほど聖書を深く知っていた人はいませんでした。そして、彼が牧会をしたシカゴには多くの人が集まりました。聖日礼拝に出席しようとするなら、何時間も並んで待たなければならない程でした。
たしかにムーディーは、世の中の学歴はありませんでした。学歴のない身分の低い人にしか過ぎませんでした。しかし神様の御言葉は、人に知恵を与え、才能と能力を与え、賢い人にするのです! やがて、ムーディーは、世界的な大衆伝道者として用いられ、ムーディー聖書学院を創設して、多くの伝道者が生み出されています。
45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
わたしたちも聖書を読み、聖書に生きる生活を送らせていただきましょう。
(2)へりくだる者に与えられる幸い
エリサベトの言葉を聞いた、マリアは喜びに満たされて、神様を心から賛美します。
このマリアの賛美は、「あがめる」という言葉のラテン語訳から「マグニフィカート」と呼ばれ、神様を賛美するときに用いられるようになりました。
その賛美が、47~55節に書かれていますが、マリアは、まだ救い主の誕生を見てもいないのに、自分の身に起こったことのゆえに、すでに世界の救いの業が成就したかのように、途中からは過去形で、この賛美歌歌われています。
まず、マリアが、救い主を胎に宿したとき、知らされたことは、自分がどんなに卑しく、取るに足りない者であるかということでした。
48節「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」
救い主の光に照らされたとき、マリアは、「身分の低い、この主のはしため」と自分のことを告白しています。はしためというのは、女奴隷のことで、奴隷というのは、当時は人権を認められていない身分の最も低い者でしたが、その中でも、女奴隷というのは一番卑しめられていたのです。
マリアは、主の前には、そのような数にも数えられないような身分の低い者ですとへりくだって主の御前にたっているのです。
私たちも、主の光に照らされるとき、自分の罪深さを知らされ、自分がどんなに取るに足りない者であるかを知らされます。そして、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」 と告白したマリアのように、へりくだるところに、神様の祝福が豊に注がれるのです。
イ・ヨンギュ宣教師は、モンゴルの宣教師として活躍をしておられます。
このイ・ヨンギュ宣教師は、韓国で有名なソウル大学を卒業した後、ハーバード大学で、中東地域学および歴史学で博士号を取りました。中東への関心が高まっているこの時代、就職口はいくらでもありました。
しかし彼は、神様から宣教師としての召しを受けて、すべてをゆだねてモンゴルの宣教師として旅立ったのです。
彼の書いた本の中に、モンゴルに関する話がたくさん出てきますが、その中にこのような一文があります。。
「川は、低い方へ向かって流れ、平原のくぼみの間を縫うように流れていく。
川岸にはいつも緑がある。川の周辺には草木が育ち、動物たちが生息している。
川の流れに従って広がっている草原が青々としている。
川を通して祝福の地域が広がっていくのである。
神と共に歩む人生は、草原の川のほとりと似たようなものである」
川は低い方へ流れ、その周りは緑といのちであふれているというのです。
水は、低い所に流れ、低いからこそ緑であふれるのです。
イエス様との出会いもこれによく似ています。イエス・キリストは聖い神の子です。その光に照らされるとき、マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」 と告白したように、私たちも罪深い、取るに足りない者であることを知らされるのです。しかし、水が低いところに流れるように、自分の罪を認め、へりくだるところに主の恵みは、豊かに注がれるのです。
どんなに、身分が低くても、どんなに誰も認めてくれなかったとしても、神様は、大切なかけがえのない存在として目を留めていてくださるのです。その神様をマリアのように心から賛美しましょう。
(3)大逆転の幸い
50~53節には、イエス様が来られるとき、この世に大逆転が起こることが記されています。
「その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。」
ここには、「主を畏れる者」「身分の低い者」「飢えた者」が引き上げられ、「思い上がる者」「権力ある者」「富める者」が低くされることが書かれています。そのような大逆転が神様の恵みのよって行われるというのです。
このような考え方は旧約聖書にも書かれています。しかし、新約聖書の時代になって、イエスキリストの十字架の贖いによる一方的な恵みによって救われることが明らかにされたことによって、この大逆転はさらに大きなものとされたのです。
人は、人の行いや、富や、力によって救われるのではありません。マリアのように自分が主の御前に本当に卑しい、罪深い者であることを認めて、主のあわれみにすがるとき、神様は、全ての人に救いの御業を成してくださるのです。
今でも、「キリスト教なんて、弱い人の宗教だ。」と言う人がいます。けれども、本当は、自分の強さや自分の能力を誇って「自分には神様なんか必要がない。」と言っている人は、やがて低くされてしまい、神の恵みを受けることが出来ないのです。
しかし、反対に、自分の弱さや罪深さを認めるならば、救い主イエス・キリストの十字架によってその罪が許され、揺るがないキリストの力と、心からの謙遜とを兼ね備えた人になることが出来るのです。
第二次大戦において、ナチス・ドイツはイギリスとアメリカを敵として戦っていました。
そこに、ユンゲル・モルトマンという、青年がいました。彼は17歳の時に軍に徴集され、前線に出て行きましたが、捕虜となり、イギリスの捕虜収容所での生活を余儀なくされました。そして、ついに戦争は終わりました。収容所にいた彼は、ドイツの至る所が破壊され、モルトマンの故郷ハンブルグも爆撃で町が燃え、家族ばかりか親族も、皆死んでしまったと言うことを聞きました。国もなくなり、故郷もなくなり、皆死んでしまって、彼にはこの世で生きていく希望がなくなり、自殺しようと思っていました。そんな時です。その収容所にいたチャルレイン牧師が聖書を一冊くれたのです。モルトマンは自殺する前に読んでみようと聖書を手に取り、マタイの福音書から聖書を読んで行きました。
そこで、モルトマンの人生は大転換したのです。それは、神様の御子としてこの世に来られ、多くの人々を助けたイエス様が、裏切られ、悲惨な刑罰である十字架につけられ、死なれたにもかかわらず、3日目によみがえって、罪と死に勝利されたことを発見したからです。彼は非常に感動しました。
そして、それまで完全に絶望していた彼がまったく変えられたのです。イエス様希望そのものの神様だ。このイエス様を救い主として受け入れるなら、自分の人生の中にある、この大きな絶望が希望に変わるに違いないと希望を見出したのです。
彼はひざまずいて「主よ、主が死なれたように私も死にます。主がよみがえられたように、私もよみがえらせてください。イエス様の死は私の死、イエス様のよみがえりは、私のよみがえりとして受け入れます!」と祈りました。そう告白した後、彼の心の中に、非常に大きな慰めと平安がやって来て、喜びが臨み、死ぬことはやめ、生きようと決心しました。収容所から解放された彼は神学を学び、世界的に有名な神学者、ユルゲン・モルトマン博士として、用いられたのです。
イエス・キリストの十字架と復活に、大逆転の秘訣があります。
キリストは全ての人のために命を捨てられたのです。ですから、どんな人でも、キリストが命を捨てるほどに高価で尊い存在なのです。
この世の人が、何と言おうと、今の状況がどんなに状況であろうと、また、自分のことを何と思おうと、神様の目には私達一人ひとりはみんな高価で尊い存在なのです。そこに、神様の大逆転があります。
その神様の愛を知る時に、私達にも、このマリアが心から主を賛美したように、心からの賛美がわき上がります。
最後に48節をもう一度読みましょう。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」
神様が、ひとり子であるイエス。キリストをお与え下さったクリスマスを迎えようとしていますが、この大きな愛を覚えて、心からの感謝と賛美を主におささげし、マリアのように幸いな人として歩ませていただきましょう。
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