1/24 主日礼拝

「最も大いなるものは愛」 Ⅰコリント13:1~13

 今日は、岡 聖志兄の証しを聞くことが出来、感謝です。アーバナ宣教大会に、16000人の若者たちが集って、人種や国境、言語を超えて、一つになって礼拝をささげたことを聞いて、御名を崇めました。

 今年の年間聖句は、コロサイ3:14「愛は、すべてを完成させるきずなです。」ですが、神様の愛は、私たちを一つにします。そして、それは、イエス・キリストを信じる私たちすべてに与えられている祝福です。

 先日、オンヌリ教会宣教チームのハン・ドンフンさんから、メールが来ました。それは、オンヌリ教会では、毎年新年に、40日集中祈祷会がもたれるそうですが、特に、山形南部教会のために祈ることを示されましたというメールでした。

「これまでは、アウトリーチの時は、山形南部教会のために熱心に祈ってきましたが、それが終わると、祈る事を忘れていました。それを悔い改めて、これからは、祈りのチームを作って、ずっと山形南部教会のために祈ります。」という内容で、すぐに、祈祷題を送って下さいということでした。

 そのメールは、4ページ位のメールで、通訳ソフトを使っているので、変な日本語も出てくるのですが、心のこもった私たちに対する、ラブレターでした。

 家内と、「山形南部教会は本当に愛されているね。」と神様に感謝しました。

 神様の愛は、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいものです。その愛の素晴らしさが、今日のⅠコリント13章に書かれています。

 今日、司会者に読んでいただいた聖書の箇所は、有名な「愛の賛歌」と呼ばれるものです。ある聖書学者は、コリントの信徒への手紙の、一番美しい山の頂であると言っています。ここには、聖書の中で一番大切な愛について、ちょうど山頂から、絶景を見るように、美しく書かれています。

 

今日の中心の御言葉は、13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

13章の愛の賛歌を、3つに分けて御言葉を取り次がせていただきたいと思います。

 

(1)愛の賛歌の総論 愛のない賜物の空しさ

12:31に

  「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」とこのコリントの信徒への手紙を書いたパウロは書いて、この愛の賛歌が始まっていますが、どんなに素晴らしい賜物が与えられていたとしても、そこに、愛がなければ、すべてが空しいものになってしまうのです。愛こそが、「最高の道」です。

 1~3節には、「もし愛がなければ」という言葉が、何度も繰り返し使われていますが、愛のない賜物の空しさが書かれています。

1~3節

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

  コリントの人々は、ここに書いてあるような、異言や預言、知識や信仰、そして慈善や献身の賜物を持っている人を非常に尊敬していました。

  けれども、パウロは、たとえ、人が驚くような、異言や預言をする力をもっていたとしても、また、宇宙の神秘や宗教の真髄を説き明かすような知識を持っていたとしても、また、不可能と思えることを可能にできる強い信仰を持っていたとしても、また、誇ろうとして、自分の身を死に引き渡すようなことをしたとしても、もし愛がなければ、無に等しいと言っているのです。

 なぜなら、もしどんなに素晴らしい霊的な賜物を持っていたとしても、愛がなければ、このような霊的な賜物を持っている有力者を中心に、分裂や、争いが起きてしまうからです。コリントの教会でも、ある人はアポロに、またケパに、またある人たちはパウロにと分裂が起きていました。異言や預言、知識や信仰の賜物も素晴らしいものには違いありません。しかし、もしそこに愛がなければ、それは空しいものに終わってしまうのです。

 ある牧師が、「愛というのは、潤滑油だ」とおっしゃいました。

 車にとってオイルというのはとても大切なものです。どんなに、高性能のエンジンを積んでいたとしても、もしオイルを入れ忘れたらどうでしょうか。しばらく走っているとエンジンが焼け付いてしまって、その車は使えなくなってしまいます。

 その車のエンジンオイルと、愛の働きは良く似ているのではないでしょうか。一つ一つの部品がどんなに優れていても、そこにオイルがなければ、それらの部品はスムーズには動きません。それと同じように、教会の中にどんなにすぐれた賜物を持っている人がたくさんいたとしても、そこに愛という潤滑油がなければ、トラブルばかりが起きて、神様の働きは一向に進まないのです。

 教会に本当に必要なものは、愛という潤滑油です。そして、あなたにその潤滑油になって欲しいと神様は願っておられるのではないでしょうか。神様は、すべての人に大切な賜物を与えておられます。その一つ一つは尊い素晴らしいものです。しかし、そこに愛がなければそれは空しいものです。けれども、そこに愛という潤滑油があるならば、一つ一つの賜物が用いられて、素晴らしい御業が成されていくのではないでしょうか。

 

(2)愛の賛歌の各論 生活の中で現れる愛

 愛というのは、目に見えませんが、私たちの心の中で現されていくのです。それは、ちょうど光が、プリズムを通るのに似ています。太陽光線は無色透明ですが、これをプリズムにかけると、赤から紫までの本当にきれいな色が出ます。

 「愛」も本質的には目に見えるものではありませんが、私達の心というプリズムを通って、愛が、私たちの心と生活の中に目に見える形で現わされるのです。

  今日読んでいただいた聖書の4~7節には、愛が15の言葉で表されています。この一つ一つが愛の具体的な表れです。愛が私たちの心というプリズムを通って、15種類の美しい光りを輝かせているのです。

 まず、4節~7節までを読んでみましょう。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

 この4~7節に、私たちの生活の中に現される15種類の愛が書かれています。そしてそれを、大きく3つに分ける事ができます。

Oまず、①4節の前半、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」という言葉です。これが愛の輪郭です。愛はどこまでも限りなく大きく、広く私たちを包み込みこんでくれます。

O続いて、愛の性質が否定的な言葉で8つ書かれています。

4~5節

 「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず」  愛は、私たちの生まれながらにある、否定的な性格を造り変えて、愛の人にしてくださるのです。

Oそして、最後に5つの肯定的な言葉で愛の性質が書かれています。

6~7節をご覧ください。

 「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」  愛は、真実で、すべてを与えつくすのです。

 この最後の7節に「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と「すべて」という言葉が4つ書かれています。この御言葉通りイエス様は、私たちの救いのためにあの十字架で「すべてを与え尽くして」私たちに対する愛の光りを明らかにしてくださったのです。

 私達の、内にはこのような愛の輝きはありません。しかし、私達が、自分の内に愛がない事を認めて、悔い改めて、「私には愛がありません。どうか、あなたの愛で満たして下さい。」と主の愛を祈り求めるなら、神様は、私達をキリストの愛で満たしてくださり、ここに書かれている愛を行う者と変えてくださるのです。このキリストの愛に、一時一時満たされて、愛を行う者とさせていただきましょう。

 リトル・アーニーと呼ばれていた少女がいました。

ひどい精神障害だった彼女はだれにも心を開こうとせず、みんなさじを投げてしまい、とうとう地下にある独房に入れられてしまいました。

 しかし、そんな彼女に救いの手を差し伸べた女性がいました。その病院で働いていたクリスチャンの彼女は、毎日休み時間になるとおやつを持って地下に行き、そこでアーニーに聖書のみことばを話しました。しかしアーニーは何の反応もせず、おやつに手をつけようともしません。人の話を聞いているのかどうかも全くわからない状態でした。それでも彼女はあきらめずに、神様の愛によってアーニーに接し続けました。

 そのような状態が何カ月も続いたある日、いつものように彼女が地下に降りて行くと、前日に置いておいたおやつの一つに手がつけられているではありませんか。彼女は驚くと同時に喜びにあふれ、急いで先生に報告したのです。

 「先生! アーニーが食事に手をつけたんですよ! 愛を与え続ければ、彼女は治るんですよ! 」彼女はつづけてアーニーの世話をしました。

するとアーニーは彼女の読むみことばに反応するようになったのです。

その後先生の治療のもとで、アーニーはみるみる変わっていき、神様に造られた本来のアーニーの姿を回復して、施設から出られることになりました。

 しかしアーニーは施設にとどまり、自分が愛されたように、施設にいる人々を愛することを決意したのです。このリトル・アーニーこそ、後にヘレン・ケラーを暗闇から救い出したアン・サリバンでした。

 彼女は自分が受けた主の愛をヘレン・ケラーに、献身的に注ぎました、その彼女の愛が、目と口と耳の三重苦でありながらも世界各地を訪問し、障害者の教育・福祉の発展に尽くしたヘレン・ケラーを育てたのです。

 一人の名もない修道女が、リトル・アーニーを心から愛した時に、その愛が、暗く閉ざしていた彼女の心をとかし、愛の人、サリバン先生に作りかえました。そして、その愛は、ヘレン・ケラーに引き継がれ、世界中の人たちに、キリストの愛が伝えられていったのです。

4節~7節までを読んでみましょう。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

  イエス様の愛に満たしていただいて、私たちも、ここにある愛を、心と生活の中に現すものとさせていただきましょう。

 

(3)愛の賛歌の結論 愛の成長と完成(9~13節)

11節をご覧ください。

「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」

  ここには、救われた私達が、完成の日を目指して愛において成長しなければならない事が書かれています。

  幼子は、愛される事を求めます。特に三つ子の魂百までもと言われるように、幼い頃に愛される事は非常に大切な事です。

 しかし、人はいつまでも、愛を求めてばかりいてはならないのです。人は愛される人から、愛する人に成長していかなければならないのです。子供は両親の愛をいっぱい受けて成長していきます。そして、やがて子供は結婚して親になり、子供を愛するものに成長していきます。

  それは、私達の信仰生活も同じです。信仰の幼い頃、神様の愛を求めて教会に来ます。そして、ありのままの自分を受け入れていただいて、いろいろな人に慰められ、励まされて信仰が成長していきます。そして、キリストの十字架の愛を知った私達は、愛されること人から、愛する人へと変えられていくです。

 いつまでも、愛されることだけを求めるだけではならないのです。むしろ、そのような幼子のような心は棄てて、親が子供を愛するように無条件で隣り人を愛する聖潔られた成熟したクリスチャンとして成長させていただきましょう。

 そして、私達クリスチャンのむ完成の日の事が12節に書かれています。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

  コリントの町は、有名な鏡の名産地でした。けれども、当時の鏡は、磨かれた鉄板や銅板で出来たもので、今私達が使っている鏡と比べると不完全なもので、映して見えるものも「おぼろげ」にしか見えなかったのです。

 パウロは、そのような鏡にたとえて、私達が、この世では神様を完全に見る事が出来ない事を言っています。私達は、聖書を通して、神様の事を知る事が出来ます。また、いろいろな経験を通して、神様が確かに生きて働いておられる事を知っています。けれども、私達は、神様の何億分の一も知らないのです。ただ、鏡をおぼろげに見ているように、その輪郭と、その形が解っているに過ぎません。

 しかし、私達は、この神様を完全に知る日がやって来るのです。

  12節にある「そのとき」には、というのは、主の再臨の日です。その日には、私達は神様と顔と顔を合わせて見る事が出来るのです。また、私達は今は、神様の事をほんの少ししか知る事は出来ませんが、その時には、私が神様に完全に知られているように、完全に知る事が出来るのです。そして、その神様は愛のお方です。

 そのお方と、顔と顔を合わせてお会いできる日、そのお方の事を完全に知る事ができる日、それは、私達にとって大きな喜びの日、心からの感謝と賛美をおささげする日であります。そればかりか、私達はキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。

ピリピ3:21

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

  この素晴らしい恵みを覚えながら、「愛される人から、愛する人へ、」愛において成長させていただきましょう。

最後に13節をご覧下さい。今日の中心の御言葉です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 この愛の賛歌の一番最初の12:31には、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」  と書かれています。

 そして、この最後の13:13には「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」  と書かれています。

 ここには、永遠に残る大切なものが、3つ書かれています。

 一つは、イエス・キリストを信じる信仰です。そして、もう一つは、永遠の命への希望です。そして、もう一つは、イエス・キリストが十字架で明らかにしてくださった愛です。どれも大切なかけがえのないものですが、あえて、一番大切なものというならば、それは、愛であるというのです。

  信仰と希望と愛の3つをこのようにたとえる事が出来ると思います。

 信仰は、木の根です。そして、その信仰が成長して芽が出ますが、その芽が希望です。そして、その芽は成長して、花が咲きやがて豊かな実を結びます。その実が愛の実です。

その木に取って、根っこも、芽も必要ですが、木にとって一番大切なのは実を結ぶ事です。イエス様を信じて、成長し、愛という豊かな愛の実を結ぶものとさせていただきましょう。

 先程、みなさんで新聖歌302番「恵みある主」を賛美しました。この曲を作曲したのは、アメリカのアニー・ホークス(1835~1918)という一人の女性です。彼女はニューヨークのハンソン・プレイス・バプテスト教会の熱心は信徒でした。

 その教会の牧師は、讃美歌の作詞作曲で有名なロバート・ローリーで、彼女が詩を書く賜物を持っている事を知ったこの牧師は彼女に讃美歌の作詞をすることを勧めました。

 その頃、アニー・ホークスは、33歳で、結婚して3人の娘の母でした。

 牧師から作詞を勧められた時から、多くの讃美歌を作りました。その数多い讃美歌の中で最もすぐれた讃美歌が、この讃美歌です。

 彼女は家庭の主婦として、また3人の子供の母として、忙しい毎日を過ごしていましたが、そのような生活の中でも、共にいて下さるイエス様の愛に生かされている事を心から感謝していました。

 ある日の事です。彼女の心の中に深く感じた事がありました。それは、「主の愛ををぬきにしては、人間はどうして生きていく事が出来るだろうか。」ということでした。

 その時、彼女の心の中から泉のように湧いてきたのは、讃美歌のタイトルである「I need Thee every hour」(私は、一時間たりとも、キリストの愛をぬきにしては生きていくことはできない。)という心からの叫びでした。

 このneed という言葉は、非常に強い意味を持った言葉です。「私は、いつもあなたが本当に必要です。」そして、「神は愛である。」とあるように、このお方は愛です。私達は、イエス様の愛ぬきにしては、生きていく事が出来ないのです。

 この一人の婦人が書いた讃美歌が、今や世界中で歌われていますが、それは、すべての人の信仰告白であり、叫びだからではないでしょうか。

13節

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 この「最も大いなる愛」「私は、あなたの愛をぬきにしては、一時も生きていけません」とこの愛を心から求めて、祝福された人生を歩ませていただきましょう。

 

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礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日  8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日  8:45〜

                    9:35〜

 

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase