今日は、川上 悟兄の証しをお聞きすることが出来、感謝します。川上さんは、本間設計事務所にお勤めで、将来、昇進も保証されていたそうですが、「これから、時間とお金を、神様におささげしたい。」と主の栄光のために、今から20数年に独立されました。
そして、あれから20数年、全国各地に、かわかみ設計事務所によって、教会が建てられ、神様の栄光が現されています。主の御名を賛美します。
今日の中心の御言葉は、1~2節です。
「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」
15章の前半には、モーセとイスラエルが、出エジプトをし、紅海を渡った後で、主に向かって歌った賛美が記されています。
この歌は、聖書の中で、一番古い歌だと言われています。そして、この賛美は、神様から贖われたイスラエルの民の心の中から湧き出た「贖いの歌」です。
この聖書の中の一番最初の賛美に、武義和先生がメロディーをつけておられますので、それを最初に賛美してみましょう。
マルチン・ルターは、「悪魔に賛美なし」と言いました。しかし、キリスト教は、賛美の宗教であると言われます。神様によって救われた者の特徴は、神を賛美する事です。 イスラエルの民が、紅海を渡り、エジプトの奴隷であったところから解放されて、神の民として自由にされた時、彼らの心の中から、神様への賛美が湧き上がったのです。
この賛美を3つに分けて主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)主に向かって歌われた賛美
1節
「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」
モーセとイスラエルの民は、エジプトに対する勝利は、主によってもたらされたものであることを認めて、主に栄光を帰しています。
なぜ、このような素晴らしい賛美が、彼らの心に湧き上がってきたのでしょうか。それは、神様が、イスラエルの民の前に迫ってきたエジプトの軍勢を、紅海で溺れさせて、完全な勝利を目の辺りに見たからでした。
そこで、イスラエルの民は、神様がどのようなお方であるのかを、具体的に賛美したのです。
2~3節、
「主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。主こそいくさびと、その名は主。」
ここに、神様がどのようなお方であるかが6つの言葉で歌われています。
⑴主はわたしの力
イスラエルの民は、紅海を二つに分ける神様の全能の力を目の辺りにした時に、「主はわたしの力」であると心から告白したのです。
⑵わたしの歌
エジプトの奴隷だったイスラエルの民は、神様から救われて自由の身になりました。その時、苦しみが賛美の歌に変えられたのです。
⑶わたしの救い
イスラエルの神様こそが、エジプトから救い出してくださった救い主だと賛美しているのです。
⑷わたしの神
天地万物を創造された神様こそが、神の中の神、唯一の神です。
⑸わたしの父の神
アブラハムは信仰の父と呼ばれていますが、アブラハムを選ばれた神様こそが、わたしの神ですといっているのです。
3節には、⑹番目に、主こそいくさびとと歌われています。
エジプトの軍勢が襲ってきた時に、イスラエルの民には、対抗する何の力もありませんでしたが、神様が戦ってくださって、エジプトの軍勢を滅ばし尽くしてくださいました。その神様を「主こそいくさびと」と賛美しているのです。
このように、イスラエルの民は、紅海を二つに分ける力あるお方を、イスラエルの民を救ってくださり、苦しみや悲しみを賛美の歌に変えて下さった神様を、そして、エジプトの軍勢を滅ぼし尽くして下さった神様を、心から賛美したのです。
そして、この神様は、私たちの救いのために、独り子をこの地上に送って下さり、その独り子であられるイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりになって、十字架にかかって死んでくださったのです。イエス・キリストこそが、私たちの救いとなってくださったのです。
ヨハネ14:6(P196)
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネ14:1~3で、イエス様はこうおっしゃっておられます。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
これは、イエス・キリストを信じる者への天国の約束です。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださり、3日目に罪と死に打ち勝って勝利されたのです。
このお方こそが、私たちの救いの道であり、永遠の命への道となってくださったのです。
最近、ある方を訪問して、二人の芸術家の話しを聞きました。
一人は、ダリという彫刻家で、福島の諸橋近代美術館に、ダリの作品が展示されています。正志さんの解説によると、ダリの彫刻には、Yの字のつっかえ棒がしているというのです。それは、人は、神様の支えがなければ、生きていくことが出来ないことを現しているのだということでした。そして、そのYの字は、十字架を現しているように見えると言うのです。私は、家内と一緒に、去年諸橋近代美術館にその作品を見に行きましたが、確かに、ダリの作品には、Yの字のつっかえ棒があって、ダリの彫刻を支えているかのようでした。「人は、神の支えがなければ生きていくことが出来ない。」ことをそのつっかえ棒は現しているようです。
もう一人は、ユトリロです。彼の多くの作品には、教会と、青空が描かれています。
それには、彼の信仰が現されています。彼は、父親が誰かが解りません。そして、母親は、芸術家でありモデルでもあって仕事が忙しく、幼い頃から母親の元から離されて、祖母に育てられました。そのような寂しさを紛らわすためか、彼は酒を飲むようになり、18才の時にはアルコール中毒になっていました。
そんな、彼の心の支えになったのが、教会でした。母親は、教会に行くことに反対でしたが、反対されればされるほど、神様を求める思いが強くなりました。そして、彼の人生を変えたのは、イエス・キリストを信じる信仰でした。彼は、その信仰の現れとして、絵を画く時に、教会の絵を入れ、その空は、いつも美しい青空を描いたのです。
それは、彼を、幼い頃の孤独や、アルコール中毒から救い出してくれた、教会と、そこで与えられた、愛と平安を現すものだと、解説を聞きながら感動しました。
出エジプト15:1~3
「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。3 主こそいくさびと、その名は主。」
私たちも、イエス・キリストの贖いによって、救われて、永遠の命が与えられているのです。このイスラエルの民のように、心から、主を賛美しましょう。
(2)ファラオと軍勢を葬り去った賛美(4~10節)
4~6節
「4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。5 深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。」
神様だけが、サタンと罪を滅ぼし、私たちを救ってくださる勝利の主です。
ナポレオンは、「我が輩の辞書には、不可能という言葉はない。」と言った人ですが、晩年、ナポレオンがロシアに出かける時、一人の貴婦人が、ナポレオンに向かって「人は計画をするが、それを成功させるか、失敗させるのかは神様の計画の中にあります。ご注意ください。」と忠告したそうです。
すると、ナポレオンは、その貴婦人に答えて「いいえ、わたしが計画し、わたしが、成功させるか、失敗させるのかを決めるのです。」と言って出かけて行きました。ところが、その結果は、みなさんもご存じのように、モスコーで大雪に遭い、あのような惨めな、大敗を招くことになってしまったのです。
このナポレオンのように、私たちは、自分の計画や力によっては、罪に打ち勝つことはできません。しかし、神様は、私たちに自我が砕かれ、聖くなることを望んでおられます。
11節で、モーセは、あなたこそが、聖いお方であると賛美しています。
「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。」
神様は、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行われるお方であると同時に、聖く輝いておられるお方です。
イザヤ6:3
「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 と書かれている通りです。
そして、その聖なるお方は、私たちにも、聖くなることを望んでおられるのです。
Ⅰペトロ1:15~16(P429)
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。」
この『』はレビ記11:44の引用です。聖なる神様は、私たちにも聖くなることを願っておられるのです。
そしてそれは、わたしたちが救われたのが、イエス・キリストの十字架による一方的な恵みであったように、聖潔も十字架による一方的な恵みによって与えられるものです。
エフェソ5:18~19(P358)
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
私たちが、聖くなるのは、私たちの努力や修行によるのではありません。ここに、「むしろ聖霊に満たされ」とあるように、私たちの罪のために十字架にかかられ、よみがえられた、イエス様の聖なる霊に満たされることです。この聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う、心からの感謝の賛美を主におささげしましょう。
(3)ミリアムの賛美と踊り
20~21節
「20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」
この時、アロンの姉である預言者ミリアムが、タンバリンを手にとって、女たちと共に歌いながら踊りました。おそらく、モーセが歌を導いて、ミリアムと女たちが、折り返しを一緒に歌ったのでしょう。
その折り返しが、21節の後半に書かれています。「主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」
紅海を渡って、救われたミリアムは、モーセの賛美に心を合わせて、歌わずにはいられなかったのでしょう。私たちの賛美は、このように心から湧き上がるものです。
霊に満たされた人は、心から主を賛美する人です。
ダビデは、ペリシテ軍から、神の箱を取り戻して、オベド・エドムの家からダビデの町に運びあげた時に、「肥えた雄牛をいけにえとしてささげ、主の御前で・・・力のかぎり踊った」(Ⅱサムエル記6:14)と書かれています。それを見ていた、ダビデの妻、ミカルは王様がそんな格好で踊るなんて、格好悪いとさげすみます。ところが、、ダビデは
ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民「イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。22 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」(Ⅱサムエル6:21~22) と言って、心から力の限り踊りながら、主を賛美したのです。
また、エルサレム入場の時、弟子の群れは、声高らかに、神を賛美しました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところに栄光。」(ルカ19:38)
ところが、それを、聞いていたファリサイ派の人々が、弟子達を叱ってくださいと批判しました。それに対してイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」と言われました。
心からの賛美は、人を感動させ、何よりも神様に喜んでいただくことができます。
ある人が、ハイドンに向かって、「どうして、あなたの音楽は、そんなに楽しい音を出すことが出来るのですか?」と聞いたそうです。すると、ハイドンは「それは、どうしようもないのです。わたしが神を見上げてその恵みを覚えて、心からの感謝を感じる時、わたしの心が躍るのです。その踊る心をすぐに書き取ったのが、わたしの音楽であるから、それが楽しい歌になるのは、どうすることも出来ないのです。」と応えたそうです。詩編33:1
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」
私たちも、そのようなあふれる心からの喜びをもって、神様を賛美をさせていただきましょう。
最後に、出エジプト15:1~2を読んでお祈りをしましょう。
「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」
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