2/28 主日礼拝

「その木を水に投げ込むと」 出エジプト記15:21~27

 今日は、齋藤 悠兄のお証しを感謝します。4月29日は、いよいよ結婚式を迎えようとしている喜びが伝わってきました。

 しかし、結婚というのは、決してゴールではなくスタートです。そして、結婚を通して、自分の心の中にある愛が本物であるかどうかを問われる、聖潔の実践の場でもあります。夫婦というのは、自分の姿を見る鏡のようなもので、私は、一番愛すべき妻を愛せない自分、妻のことより自分のことを考えてしまう自己中心の自分と向き合わされました。

 しかし、感謝な事に、私たちクリスチャンには、変わることのない永遠の愛をもっておられるイエス様が、共にいて下さいます。そのイエス様の十字架を見上げるなら、二人の愛が聖められ、お互いに成長することが出来るのです。

 今日は、出エジプトをしたイスラエルの民が、いよいよ荒野の旅へと出発するところです。

今日の中心の御言葉は、25節です。

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」

 紅海を渡るという、輝かしい勝利を経験したモーセとイスラエルの民は、心から主を賛美しました。そして、それを見ていたミリアムが、小太鼓をたたいて主を賛美すると、ほかの女たちも、小太鼓をたたいて、踊りながら主を賛美したのです。

 出エジプトをした、イスラエルの民は、喜びに満ちあふれ、主を賛美して、まさに、天国のような時を過ごしました。

  荒野の歩みの中で、イスラエルの民が、この時ほど心が、賛美と感謝に満たされていたことはありませんでした。

 しかし、その感謝と賛美は、試練と共にたちまち、消えてしまいました。その最初の試練が、今日読んでいただいた、マラの苦い水の経験です。このマラの苦い水の出来事から、4つのことをお話ししたいと思います。

 

(1)イスラエルの民の最初の試練

出エジプト15:21~23

「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。」

 救いに与り、感謝と賛美にあふれたイスラエルの民は、それで終わりではありませんでした。ここから、カナンの地への新しい旅路が始まるのです。

  モーセは、イスラエルの民を、葦の海から、旅立たせました。イスラエルの民は、シュルの荒野に向かって、3日間進みました。

  そのイスラエルの民に、早速、最初の試練がやって来ました。荒野では、水は最も貴重な物で、その一滴でさえ無駄にする事は出来ません。しかし、3日間荒野を歩いたのに、どこにも水が見つからないのです。イスラエルの民が、蓄えていた水も、3日も経てばなくなってしまいました。

 イスラエルの民は、やっとの思いで、マラに到着し、念願の水を手に入れたのです。ところが、喜んだのもつかの間、その水はにがくて飲むことが出来なかったのです。

 どんなに失望し落胆したことでしょうか。そして、わずか数日前の大いなる感謝と賛美は、たちまち、モーセに対する不満とつぶやきに変わってしまったのです。

  これは、私たちの信仰生活に似ています。私たちは、イエス・キリストの十字架によって贖われ救われました。救われて、バプテスマを受けた時には、感謝と賛美に満ちあふれていましたが、信仰生活を歩み出して、試練が襲ってくると、救われた喜びや感謝がどこかに消え失せてしまうのです。

 救われた直後が、一番燃えていた・・・・というクリスチャンが何と多いことでしょうか。しかし、信仰生活というのは、決して苦しみに終わる旅路ではありません。神様が、信仰という旅路を通して、私たちを取り扱ってくださり、訓練を通して練り聖めて、御自分の聖さに近づけようとしてくださるのです。神様が、私たちを救ってくださったのは、私たちを御自分に似た者へと造り変えて下さるためです。そのために私たちは、神様から訓練を受けなければならないのです。その訓練は私たちへの愛の故です。

ヘブル12:5~6(P417)

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

  神様は、イスラエルの民を愛の故に、鍛錬を与えられました。そして、その鍛錬を通して、御自分の神聖にあずからせて下さるのです。

ヘブル12:10~11にはこう書かれています。

「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

  私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて救われたからといって、試練や誘惑がなくなるわけではありません。それどころか、今まで以上に、それは、厳しいものになるでしょう。なぜなら、神様は、私たちを愛して下さっているからです。

 神様は、私たちが救われて、赤ちゃんのクリスチャンのままでいることを望んでおられません。

 ちょうど、スポーツの監督が、その選手に期待すればするほど、厳しいトレーニングをするように、私たちに厳しい試練や鍛錬が襲ってくるということは、神様が私たちをそれだけ、期待してくださっているのです。そして、その鍛錬によって、私たちはキリストに似た神聖な者へと変えられ、義という平和の実を結ぶ事が出来るのです。

 

(2)苦い水を甘い水に変えた祈り

出エジプト15:24~25a

「民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」

  イスラエルの民は、マラについた時、その水はにがくて飲むことができませんでした。

 そのマラの苦い水を前にして、彼らは何をしたでしょうか。

 24~25節には、二つの態度が書かれています。

O一つは、イスラエルの民の態度で、

「民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」と書かれています。イスラエルの民は、つい数日前、紅海を分け、エジプト軍を滅ぼし尽くした神様の大いなる御業を見たばかりでした。ですから、この神様を信頼して、祈るべきでした。しかし、彼らは、あの大いなる恵みを忘れて、神様を信頼して祈る事をせずに、モーセに不平を言ったのです。

 私たちも、試練が襲ってくると、祈る事よりも、他の人に愚痴や不平をこぼすことはないでしょうか。

 しかし、モーセは、ここでも、祈の中で主に向かって叫びました。それが、イスラエルの民と、モーセの違いでした。

 私たちが、試練に遭った時、いくら愚痴をこぼしても、不平不満を言っても、何に解決にもなりません。しかし、私たちがモーセのように、主に向かって叫ぶなら、全知全能の主が御手を動かして、素晴らしい御業を成して下さるのです。

Oもう一つは、モーセの態度です。25節をご覧ください。

「25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」

  モーセが、主に向かって叫ぶと、神様は一本の木を示されて、その木を水の中に投げ込むと、何とあの苦くて飲めなかったマラの水が、甘くなったのです。

 この奇跡は、イスラエルの民がシナイ半島で最初に経験した奇跡でしたが、この奇跡を読むと、イエス様が、カナの婚宴で、水をぶどう酒に変えられた最初の奇跡を思い出します。婚宴の席で、ぶどう酒がなくなるということは、大変なことでした。あの時に、母マリアは、どうしたでしょうか。

 ヨハネ2:3節にこう書いています。

 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。」  ぶどう酒がなくなった時、マリアは、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのです。

 それに対して、イエス様は、4節で、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言います。なんだか冷たい言葉のように感じますが、それでも、マリアはイエス様を信頼して、召使い達に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。」と書かれています。

 ピンチが襲ってきた時、その時こそ、神様に働いていただくチャンスです。

 モーセは、マラの水が苦くて主に向かって叫びました。また、マリアは、ぶどう酒がなくなった時、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。そのように、私たちも、試練の中で、不平不満を言うのではなく、また、別の物や人に頼るのではなく、ただ、私たちの祈りを聞いてくださる、神様を信頼して、祈りましょう。

 私たちが、主に向かって叫ぶなら、主が「苦い水を甘い水に」「水をぶどう酒に」変えて下さるのです。

 みなさんに祈っていただきたいことがあります。先週の月曜日に、チャーチ・オブ・ゴッド 大江町教会が、火事になりました。牧師館から火が出て、それを消そうとした、西山先生が、顔にやけどをしてしまい、肺に煙が入って、今、集中治療室で面会謝絶の状態です。火災は、牧師館だけで、会堂は守られたそうですが、ぜひ、覚えてお祈り下さい。

 なぜ、このようなことが、神の体である教会に起こったのか、私には解りません。しかし、マナの苦い水を甘い水に変えて下さるお方は、私たちの祈りに応えて、必ず、この試練も、神様の栄光に変えて下さることを信じています。ぜひ、覚えてお祈り下さい。

 

(3)苦い水を甘い水に変えた木

25~26をご覧ください。

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

  モーセが、主の向かって叫ぶと、神様は、一本の木を投げ込むことを命じられました。この木というのは、イエス・キリストの十字架を暗示するものです。主イエス様の十字架は、すべての人の苦い人生を、甘い人生に変えるからです。

 また、神様は、私たちの肉体を癒やすお方です。

ヤコブ5:14~15a(P426)にはこう書かれています。

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」と書かれている通りです。

 そして、何よりも素晴らしいのは、イエス・キリストの十字架によって、魂の病を癒やしてくださるお方です。

マルコ2:17(P64)

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とイエス様が言われたのは、ただ、病気が癒やされるだけではなく、罪人の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を与えてくださるために、私たちを招いておられるのです。

  箱根ケズィック・コンベンションのためにお祈りをありがとうございます。

 今年、箱根ケズィックは、55周年を迎えますが、小涌園でのケズィックは、会場の建て替えの都合で、最後になりました。来年から、どこを会場にして行うか、祈の中にありますが、この記念すべきケズィックで、イアン・コフィ先生が、3回の聖会を通して、ヨハネによる福音書19~21章から、イエス・キリストの十字架の恵みについて語ってくださいました。

 そのメッセージの中で、十字架こそが、弟子たちの罪を赦し、彼らを造り変え、キリストに似た者に変えられて行く恵みが語られました。

Oあのイエス・キリストを三度も「知らない」と裏切ったペトロも、十字架愛によって許され、ガリラヤ湖で、「わたしを愛するか」と三度聞かれ、全く罪が赦されて、「わたしの羊を飼いなさい。」と大切な使命が与えられました。

Oまた、最初は「ボアネルゲ」雷の子と言われていた、ヨハネも、十字架のイエス様によって、愛の人に造り変えられました。

Oそして、イエス様がよみがえられた時、「わたしはこの目で見なければ、この手で傷痕を触ってみなければ信じない。」と言った、トマスにも、復活の主のお姿を現して下さって、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われ、トマスは、インドの宣教師として遣わされ、殉教の死を遂げました。

 弟子たちは、みんな、十字架によって救われ、聖潔られ、整えられて、主の器として用いられたのです。

25節

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」  十字架の愛だけが、私たちを、苦い水から、甘い水に造り変えて下さるのです。

 

(4)12の泉と70本のナツメヤシ

 マラで、一休みした、イスラエルの民は、マラを出発して、エリムに到着しました。

そのエリムで、豊かな泉と、実りの祝福に与ったのです。

27節

「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。」

  このエリムは、恵みの場所でした。そこには、12の泉があり、70本のナツメヤシの木がありました。12泉があったのは、12部族のためであり、大切な泉によって、彼らの間に争が起きないようにという神様の愛を感じます。

 また、ナツメヤシの木が70本と数えられているのは、神様の恵みと感謝を、一本一本数えているようにも感じます。

 そのように、イエス様が、十字架にかかられたように、私たちも試練を通ることによって、豊かな命の泉と、御霊の実に与る事が出来るのです。

 イエス様は、ヨハネ4:13~14(P169)でこうおっしゃいました。

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

  また、ガラテヤ5:23~24(P350)には、御霊の実が書かれています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 神様は、私たちを愛しておられます。そして、試練を通して、このような命の泉を、御霊の実を結ばせてくださり、キリストに似た者へと造り変えて下さるのです。

 今回の箱根ケズィックは、本来ならば、ジョナサン・ラム先生が、メイン講師として、来てくださる予定でした。ところが、1週間くらい前に、脳梗塞のために来日することが出来なくなってしまったのです。日本中で祈りがささげられましたが、ラム先生の代わりに、東北ケズィック・コンベンションにも二度来てくださった、ロジャー・ウィルモア先生が、3回のバイブルリーディングの御用をしてくださいました。それは本当に素晴らしいメッセージでした。

 バイブルリーディングの中では、3人の聖書の人物を通して、私たちが、キリストに似た者に造り替えられる秘訣が、語られました。

 一回目はフィリピ3:13の御言葉にある「なすべきことはただ一つ」「一つのものだけを目指すパウロ」の言葉を通して、キリストだけを目指す生き方を教えられました。

 二回目は、列王記上17~18章から「従順に生きた人エリヤ」の姿を通して、すぐに神の言葉に従う祝福について、「ぐずぐすしてなかなか従わないのは、従わないのと同じだ。」という、S・オルフォード先生の言葉を引用されながら、語られました。

  そして、三回目は、使徒言行録7章から、「御霊に満たされたステファノ」について、殉教の中で、光輝き「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。」  ステファノは、まさにイエス・キリストに似た聖潔られたクリスチャンでした。

 パウロのように、「一つのものだけを目指し」、エリヤのように「従順に従い」、ステファノのように「御霊に満たされた」クリスチャンこそが、キリストに似たクリスチャンです。という言葉が、心に響きました。

 神様は、私たちに、命の泉を与え、聖霊の実に満たされた、クリスチャンになることを望んでおられます。

  その神様に、モーセのように叫び求めましょう。神様は、その祈りに応えてくださいます。そして、私たちをある時は試練を通して訓練し、十字架の血潮によって、聖めてくださるのです。そして、私たちの心の中の苦い水を甘い水に変えていただき、12の泉と70本のナツメヤシのような、命の泉と、御霊の実を豊かに結ぶ者とさせていただきましょう。

 


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase