みなさんは、何か失敗をしてしまったことがありますか?忘れ物をしたり、何か物をなくしてくまったり、友だちに悪口を言ってしまったり・・・・。
先生も、時々失敗をしたり、間違ったことをしてしまったりすることがあります。そして、何であんなことをしてしまったのだろう。あんなことを言ってしまったのだろうと悩みました。
イエス様の弟子のペトロも、ある時大きな失敗をしてしまいました。どんな失敗だったのでしょう。
今日の中心の御言葉は、61~62節です。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。」
ユダヤには、過ぎ越の祭りという大切なお祭りがありました。その日の夕方、イエス様は弟子たちと一緒に、食事を食べました。イエス様は、これが弟子たちと最後の食事になることを知っておられました。
もうすぐ、イエス様は祭司長や律法学者たちに捕まえられるのです。けれども、弟子たちには、何が起ころうとしているのか、まだよく分かっていませんでした。
その食事の時です。イエス様は、ペトロにこうおっしゃいました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ペトロは、びっくりして、言いました。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」
するとイエス様は、静かにこうおっしゃいました。
「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
それから、弟子たちは、イエス様と一緒にオリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園に行きました。そこで、イエス様が天のお父様にお祈りをなさいました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
そのイエス様のお祈りはとても苦しそうでした。これから、十字架にかけられることをご存じだったからです。そのお祈りが終わると、もう真夜中になっていました。
その時です。暗闇の中から人の声がしました。先頭にはイエス様の弟子のイスカリオテのユダがいました。大勢の人が、イエス様を捕まえに来たのです。イエス様は、それが神様の御心だといっていたので、捕まえられて、裁判を受けるために連れて行かれました。
その時、他の弟子たちは、イエス様を見捨てて、逃げてしまいましたが、ペトロはイエス様がどうなるのか心配でたまりません。イエス様の後を見つからないようにそっと、着いていきました。
それは、とても寒い晩でした。ペトロがたき火をしている人たちと一緒に座っていると、女の人が言いました。「この人は、イエス様と一緒にいた人です。」ペトロは恐くなって「いいえ、わたしはイエス様を知りません。」と言ってしまいました。
じらくすると、男の人が言いました。「お前は、イエス様の弟子だろう。」ペトロは、また「いいえ、違います。」と言ってしまいました。
それから、一時間たつと別の男の人が言いました。「この人は、確かにイエスと一緒にいたぞ。ガリラヤの人だから・・。」ペトロは、首を横に振って言いました。「イエス様なんかしりません。誓っても良いです。」
その時です。コケコッコーと鶏が鳴きました。
大祭司の家の窓から、イエス様が振り向いて、ペトロを御覧になりました。優しいイエス様の目を見た瞬間に、「あなたは、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言います。」と言われたイエス様の言葉を思い出しました。
ペトロは、「イエス様、ごめんなさい。とんでもないことをしてしまいました。」と外へ出て、大声で泣きました。大好きなイエス様を裏切ってしまった自分が、情けなくて、悲しくてたまりませんでした。
ペトロは、イエス様の事が大好きでしたが、「イエス様の事を知らない」と言ってしまう大失敗をしてしまいました。このペトロの失敗から、3つの事をお話ししたいと思います。
(1)ペトロが失敗した理由
ペトロは、イエス様に、「悪魔の誘惑に負けます。」と言われた時に、
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。それなのに、どうして、イエス様の事を三度も知らないと言ってしまったのでしょうか。
ペトロは、イエス様が捕まった時、自分の力で悪魔の誘惑と戦いました。そこで、自分もイエス様と同じように十字架につけられるのではないかと思うと、恐くなって、「イエス様ののことを知らない」と言ってしまったのです。
悪魔は、私たちにも、誘惑にやって来ます。そして、私たちが、自分の力で戦うと、決して勝つことは出来ません。
でも、一つだけ、悪魔に勝つ方法があります。それは、イエス様に戦っていただく事です。イエス様は、今どこにおられますか?イエス様を信じる人の心の中におられます。悪魔が、誘惑にやって来た時に、心の入り口に自分だけで立ってはいけません。悪魔が恐くなって、すぐに誘惑に負けてしまうでしょう。
けれども、私たちの心の中におられるイエス様に、心の入り口に立っていただいたらどうでしょう。悪魔は、イエス様を見て、びっくりして、しっぽを巻いて逃げてしまうでしょう。イエス様は、荒野で、三度も誘惑に逢いますが、御言葉によって悪魔の誘惑に打ち勝たれました。そのイエス様を心にお迎えし、イエス様のように御言葉を心に蓄えて、悪魔の誘惑に勝利させていただきましょう。
(2)イエス様のとりなしの祈り
31~32節
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。」とおっしゃいました。そのように、イエス様はペトロが、3度も「イエス様を知らない」と言って大失敗をした時にも、ペトロのためにとりなしの祈りをしておられたのです。ペトロは。その祈りを感じて、激しく泣いたのです。
アメリカのノースキャロライナの教会に、若い牧師夫婦とレベッカというかわいい女の子が遣わされてきました。教会の人たちは、新しい牧師家族がやって来たので大喜びをしました。そして、新しい牧師家族が大好きになりました。
ところが、その教会のワッツという人は、どうしても新しい牧師家族を好きになれず、何とか牧師家族が出て行って欲しいと言いました。そして、手紙を送っって脅迫したり、小型爆弾まで家に置くようになってしまったのです。
しかし、牧師夫妻は、ワッツのことを愛し、いつかイエス様に出会うことができるようにと、心から祈っていました。
ところが、ある日大変なことが起こったのです。その牧師家族は、夫の暴力に悩む女性を家でお世話していました。そのことを知ったワッツは、その夫に連絡をして、牧師家族を殺すように依頼したのです。
そして、恐ろしい事に、牧師の娘のレベッカが家に帰ると、牧師と牧師夫人が銃で撃たれて死んでいたのです。
娘のレベッカさんはワッツのことも神様も許せませんでした。何年も悩みの日が続きましたが、ある日、レベッカは神様のお取り扱いを受けたのです。
「わたしにとって大切なのは、憎むことではない。神様のことが一番大切だ」と思いました。レベッカは、今までワッツを憎み続けてきた自分の罪を悔い改めて、ワッツを許す決心をしたのです。
レベッカは、その時から、刑務所にいるワッツのために祈るようになりました。レベッカが17歳の時です。ワッツからお詫びの電話がありました。レベッカがもう何年も前に許したことを伝えると、ワッツは、大声で泣き始めて、刑務所の中で、罪を悔い改めてイエス様に出会ったと告白したのです。
レベッカは、生前両親がワッツのために祈っていたことを思い出しました。神様が祈りを聞いてくださり、ワッツを救ってくださったのです。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。」とおっしゃいました。イエス様は、ペトロが3度も「イエス様を知らない」と言ってしまうような取り返しのつかない大失敗をしてしまった時にも、ペトロのためにとりなしの祈りをしておられたのです。ペトロは。その祈りを感じて、激しく泣いて、イエス様の元に立ち返ることが出来たのです。
ペトロのためにとりなしの祈りをされたイエス様は、私たちが、どんな大きな罪を犯したとしても、また、どんな大失敗をしたとしても、私たちのために、「信仰がなくならないように」とりなしの祈りをしてくださっています。
イエス様は、あの十字架の苦しみの中で、自分を十字架につけた人達のために、いや、全人類の罪のために十字架でとりなしの祈りをされました。
ルカ23:34
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
そのイエス様のとりなしによって、私たちは救われたのです、何と素晴らしい事でしょうか。
そして、イエス様が「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたように、私たちも、兄弟のためにとりなしの祈りをささげ、兄弟たちを力づける者とさせていただきましょう。
(3)ペトロを振り返ったイエス様のひとみ
61節に
「主は振り向いてペトロを見つめられた。」と書かれています。この時のイエス様の目は、どんな目だったでしょうか。
イエス様は、ペトロが3度「知らない」と裏切ってしまった時、振り向いて、ペトロを見つめられたのです。それは、愛のまなざしでした。
「ああ主のひとみ まなざしよ。三度わが主をいなみたる。弱きペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。」とあるように、この時の主のまなざしは、愛のまなざしでした。3度イエス様を裏切って、取り返しの付かない罪を犯したたペトロでしたが、そんなペトロにイエス様は、大丈夫だよ。わたしはそれでもあなたを愛しているよ。そのあなたのためにこれから十字架に架かるのだと、イエス様のまなざしは語りかけておられたのではないでしょうか。だから、ペトロは激しく泣いて、立ち直る事ができたのです。
ペトロは、イエス様が振り向いて、ペトロを見つめられた時、イエス様の愛が解ったのです。そして、外へ出て、罪を悔い改めて、大声で泣きました。イエス様は、そのペトロを見られて、その罪を赦してくださり、聖霊に満たして下さって、イエス様を伝える素晴らしい伝道者として用いて下さったのです。
私たちが、罪を犯した時、大失敗をしてしまった時、このペトロの事を思い出して下さい。イエス様は、そのあなたのために、とりなしの祈りをしておられます。そして、愛のまなざしで、あなたを見つめておられるのです。私たちも、罪を示されたならば、ペトロのように、涙と共に罪を悔い改めましょう。
Ⅰヨハネ1:9(P441)
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
そして、その罪を赦していただき、聖霊に満たされて、主の証し人として用いていただきましょう。
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