一昨日、東日本大震災からちょうど5年が経ちました。一昨日は、日本中で記念の集会が開かれました。そして、今日は、小西優子先生にピアノ演奏をしていただきましたが、今日、この後、被災地の岩沼チャペルで、ピアノコンサートが持たれます。
ある被災者から当時のことを伺ったことがあります。
あの日、避難所に行った時、大勢の人達が集まっていて、食べ物がなかったそうです。みんなが、お腹をすかしていた時に、おにぎりの差し入れがありました。ところが、そのおにぎりが、人数分なくて足りなかったのです。すると、誰からともなく、自分のおにぎりを半分に割って、隣の人に配り始めたそうです。そして、わずかなたくわんも分け合って食べて、誰一人食べられなかった人はなかったそうです。その方は「あの時のおにぎりほど美味しかったものはなかった。」と笑顔で話してくれました。
今日は、荒野を旅したイスラエルの民が、食物がなくなってしまった時に、神様が「天からマナ」を与えて下さった話しです。
イスラエルの民は、神様の不思議な力によって、海にできた道を歩いて進み、エジプト軍の兵隊から逃れることができました。神様に助け手いただいたモーセとイスラエルの民は、心からの感謝の賛美をおささげしました。
また、ミリアムが小太鼓を手に取って踊り始めると、他の女達も小太鼓を手にとって、踊りながら神様を賛美しました。
それから、イスラエルの民は、エリムを出発して、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に向かいました。今日は、そこで起こった出来事を通して、3つのことをお話ししたいと思います。
(1)イスラエルの民のつぶやき
イスラエルの民が、エリムを出発して、一ヶ月ほど経ってシンの荒野に着いた時のことです。イスラエルの民は、持って来た食料もだんだん底を突いてきました。すると、イスラエルの民は、モーセとアロンに向かって、つぶやき始めました。
16:3
「イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
イスラエルの民は、エジプトで奴隷としてこきつかわれ、苦しい労働をさせられて悲鳴をあげていました。しかし、神様はそのイスラエルの民の叫びを聞いてくださり、数々の奇跡を起こされたのです。そして、雲の柱火の柱で導かれ、葦の海を二つに分けて、救いだしてくださったのです。
それにも関わらず、エジプトから神様の恵みに慣れて、神様への感謝を忘れて、つぶやき始めたのです。
イスラエルの民は、モーセとアロンに対してつぶやいたつもりでしたが、実は神様に対してつぶやいたのです。神様に立てられた器につぶやくことは、神様につぶやくことと同じことだからです。
ある農夫が、日が照れば「ライ麦のために良くない」と言って不平を言い、雨が降れば「小麦のためによくない」と言っていつも、不平ばかり言っているという話しを聞いたことがあります。
私たちの周りには、そのような、つぶやきの種がたくさんあります。冬になると寒いから早く夏になれば良いといい、夏になると暑いから早く冬になれば良いと言います。
また、雨が降らないと、水が足りないと言ってつぶやき、雨が降ると、晴の日が良いと言ってつぶやきます。何と自分勝手な、自分だろうと思うことがあります。
そのように、この世には、年中何かについてつぶやいている人がたくさんいます。しかし、つぶやきというのは、最善を成して下さる神様への不信仰です。また、つぶやきは、他の様々な罪悪を産む母のようなものです。イスラエルの民のようにつぶやく心を悔い改めて、ただ神様を信じ、信頼して感謝の生活をさせていただきましょう。
(2)必要を満たして下さる神
しかし、神様はそのようにつぶやくイスラエルの民を、見捨てられませんでした。そのつぶやきを聞いて、受け止めて、聞き届けて下さったのです。
12節
「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
神様は、イスラエルの民の不平を聞かれました。そして、夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹すると約束されたのです。
それには、目的がありました。それは、このことを通して、神様は御自身が、イスラエルの民の神であり、主であることを知るようになるためでした。
神様が、約束された通り、夕方になると、うずらが飛んできて、肉を食べることが出来ました。
そして、翌朝になると、宿営の一面に露が降って、それが上がると、白い霜のようなものが地面にありました。神様が与えて下さったパンです。
15~16節
「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
神様から与えられた、マナを見た時に、イスラエルの民は口々に「これは一体何だろう」と言いました。「これは何だろう」というヘブル語は、マンフーと言うそうです。マンフー、マンフー、とみんなが口々に言っている内に、この食べ物をマナと呼ぶようになったそうです。
31節にはマナについてこう書いています。
「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」きっととても美味しかったに違いありません。
イスラエルの民は、このようにして、神様が与えて下さるマナとうずらで養われて、40年間荒野を旅をすることができたのです。
スタンレー・ジョーンズが、アフリカの奥地に宣教に出かけて行った時のことです。6週間肉を食べることが出来ず、10日間バナナのような食料も得ることが出来ず、一緒に出かけて行った人達がみんなやせて力がなくなってしまいました。
このままでは、餓死してしまうのではないかと思い始めた時、スタンレー・ジョーンズはこう言ったそうです。「それでも、神は不思議な御手をもって、私たちを養いたもうお方である。」その言葉が、まだ終わらないうちに、たちまちホロホロ鳥の大群がそこに飛んできたのです。それを、捕まえて料理をして、満腹になるまで、鳥肉を食べることが出来たそうです。
私たちの神様は、私たちの必要をご存じのお方です。そして、必ずその必要を満たしてくださるお方です。この神様を、信じ、信頼して従って行きましょう。
(3)マナで養われた神様
神様は、イスラエルの民を、マナをもって養って下さいましたが、そのマナを集めるためにいくつかの決まりがありました。
16節
「主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
モーセは、「1日に家族がだべる分だけ集めなさい。たくさん集めて残しておいてはいけません」といいました。ところが、中には欲張りの人がいて、たくさんマナを集めました。ところが、次の日になると、虫が湧いて食べられなくなったのです。
ただ、六日目だけは、二日分のマナを食べても良いことになっていました。7日目は、神様を礼拝する特別な日だからです。この「天から与えられたマナ」について3つの事をお話しします。
①このマナは、霊の糧である御言葉です。
このイスラエルの民が、マナで毎日養われたことは、今の私たちが、いのちパンである御言葉をもって養われるのとよく似ています。
エレミヤは、15:16(P1206)で、神様の御言葉についてこう言っています。
「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」
そしてマナは、毎朝集めなければなりませんでした。それと同じように、私たちも、朝一番に主の御言葉を、味わう事が大切だということを現しています。
イスラエルの民が、毎日、マナを集めて養われたように、私たちも、毎日霊の糧である御言葉をいただき、その御言葉に養われて、信仰の旅路を歩ませていただきましょう。
森永製菓のマンナというビスケットを知っていますか。この森永さんは、御言葉に従うクリスチャンで、このマンナという名前は、この聖書の箇所から付けられました。
日本で初めて洋菓子を製造販売したのは、明治30年ころ、キャラメルで有名な森永太一郎さんです。
森永さんと奥さんは、たった二坪の土地から洋菓子作りを始めました。その当時は、和菓子しかありませんでしたから、洋菓子は飛ぶように売れました。そんなある日、和菓子の組合が、洋菓子の入れ物を、あげぞこにしてくれと言ってきたのです。
当時のお菓子屋さんは、みんなお菓子を上げ底にして利益を上げていました。
「あんなた作る方だからいいかもしれないが、わしらは売る方だ。これじゃ商売あがったりだ。もし上げ底にしてくれないのなら、もう組合ではいっさい買わないことにするから。」と圧力をかけてきたのです。
けれども、森永さんは、毎日聖書を読んでいましたので、人をだまして儲けるのはよくないということは良く知っていました。そごて、森永さんは答えました。
「私は人様をだますような商売をしたいとは思いません。天のお父様は、私を一度もだまされなかったのに、子である私が、どうして人様をだますことができましょうか。」
と言って、神様の御言葉に従ってどうしても上げ底にはしなかったのです。
その結果、どうなったと思いますか。
お菓子の上げ底はなくなり、森永さんの小さなお店は、神様に祝福されて、大企業に成長していったのです。
16節
「主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
イスラエルの民が、毎日、マナを集めて養われていったように、私たちも霊のみ言葉である聖書を毎日読んで、神様の御言葉に従って歩ませていただきましょう。
②安息日を聖別する事
22~23節
「六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
マナを集める時、6日目には、いつもよりも二倍のマナを集めるように命じられました。安息日には、マナが降らなかったからです。このように神様は、安息日の必要を教えて、これを守るように命じられていたのです。
ある役員をしておられた方の証しです。この兄弟は、23歳の時に、救われました。この時、車田牧師からクリスチャンとして、3つの事をしっかり守るように勧められました。
1、礼拝を守ること
2、十分の一の献金をすること
3、つとめて諸集会に出て、教会の人達との交わりをすること。
彼は、その時、古本屋をしていました。当時の商人は、年二日の休暇しかなく、それに日曜日はかき入れ時だったので、礼拝厳守と言われて大変困ってしまいました。
けれども、彼はその解決を聖書の御言葉に置きました。
イザヤ書58:13~14a(P1157)
「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら14 そのとき、あなたは主を喜びとする。」
彼は、自分の都合に信仰を会わせるのでなく、神の御言葉の約束を信じ、自分の生活を御言葉にあわせることに決心をしたのです。
さて、このイザヤ書の御言葉に立って、聖日厳守を実行した時どうなったでしょうか。
彼は、月末に帳簿を計算して、神様に感謝の声をあげました。収入は、減っていなかったのです。
23節
「モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
ビーチャーという聖書学者がこう言っています。
「安息日なき人は、笑顔なき人、花なき夏、庭園なき家のようなものである。安息日は、沙漠におけるオアシス、荒野における青野原に似たものである。」
礼拝を大切にして、神様の豊かな祝福に与りましょう。
③この命のパンは、イエス様御自身です。
ヨハネ6:30~35
「そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
今受難節を迎え、来週は、棕櫚の聖日、受難週を迎えます。イエス様は、「命のパン」となって下さり、私たちの罪のために十字架で肉を裂かれ、血を流して救いの道を開いて下さいました。その、イエス様を信じて受け入れるならば、私たちは、救われて、決して飢えることなく、渇くことのない永遠の命が与えられるのです。このイエス様の十字架の苦しみと、その十字架に現されている、限りなき愛を覚えて、今の時を過ごしましょう。
今日は、天から与えられたマナから、主の御声を聞かせていただきました。
神様は、私たちの叫びを聞いてくださり、必要なものを与えてくださるお方です。
また、イスラエルの民が、毎日、マナを集めて食べたように、私たちも、霊の糧である御言葉をいただき、安息日を聖別しましょう。そのようにして、「わたしは命のパンである」とおっしゃるイエス様を心の中にお迎えして、豊かな祝福の中を歩ませていただきましょう。
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