棕櫚の聖日 3/20

「岩からほとばしる水」 出エジプト 17:1~7

 今日は、国井 泉姉のお証しを感謝します。泉ちゃんが、最初に山形南部教会に来られたのは短大の一年生の時だったと思います。あの時から、神様は泉ちゃんを、哲くんとの結婚、雄歩くんの誕生、そして、いろいろな試練もありましたが、神様の愛は変わらず、いつも泉ちゃんの人生に最善の事を成してくださるお方であることを知ることが出来て本当に感謝です。

 今日は、棕櫚の聖日で、今日から受難週が始まります。

 イエス様が、わたしの罪のために十字架にかかられた苦しみと、その十字架に現されている限りない愛を覚えて、この一週間過ごしましょう。ある方は、この一週間断食をして、過ごされる方もおられます。

 山形南部教会では、水曜日に受難週祈祷会が行われ、金曜日には、十字架礼拝が行われ、その中で洗足式と聖餐式が行われます。また、いつものように、早天祈祷会やプレイズタイムも行われます。日ごろ出席されておられない方も、受難週は特別です。ぜひ、共に祈りながら十字架の主を見上げましょう。

 

 今日の中心の御言葉は、6節です。

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」

  先週は「天から与えられたマナ」についてみ言葉を取り次ぎました。そのようにして、イスラエルの民は、神様からマナを与えら与えられて40年間旅を続けることができました。                                      

 しかし、イスラエルの民にとって、生きていく上で、どうしても必要なものが、もう一つありました。それは水です。特に荒野では、水は貴重です。水袋に水を貯めておいても、砂漠の中では、すぐにその水は尽きてしまいます。

 このような時に、イスラエルの民が、しなければならないことは、荒野でマナを与えてくださった主を信頼して祈ることでした。そうすれば、神様はその祈りに答えて、満たしてくださることを、イスラエルの民は、すでにマラで経験していたのです。

 詩編103:2(P939)には

 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」と書かれています。しかし、イスラエルの民は、過去の恵みを忘れてしまい、不平を言ってしまうのです。

 その、イスラエルの民の姿と、私たちの姿はよく似ているのではないでしょうか。

 私たちも、過去に神様からいたたいた恵みを何と簡単に忘れてしまいやすいものでしょうか。

 今日は、イスラエルの民が、シンの荒野を出発して、レフィディムで宿営したところで起きた出来事から、3つの事をお話ししたいと思います。

 

(1)イスラエルの民の不平とモーセのとりなし

 シンの荒野を出発したイスラエルの民は、レフィディムに到着しました。イスラエルの民は、レフィディムに行きさえすれば、水があると期待していたのではないでしょうか。しかし、水がないことがないことがわかると、彼らは、過去の恵みをすべて忘れてしまい、心の中の不満が爆発してしまったのです。

 そして、それは、神様の代理者である、モーセに向けられました。

2~3節

「民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

  イスラエルの民は、エジプトから救われて、ここまで主に導かれてやってきました。ですから、ここでも主に信頼するべきでした。

 しかし、イスラエルの民は、これは、モーセの責任であるかのように、再び不平をぶっつけたのです。

  そこで、でモーセは、7節で神様に「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫んでいます。モーセは、エジプトからイスラエルの民を救い出したのです。それにも関わらず、水がなくなると、イスラエルの民はモーセを石で撃ち殺そうとしたのです。このような不平不満を聞き、理不尽な態度を取られることは、指導者であるモーセにとって、どんなに辛い重荷だったことでしょう。しかし、モーセはそれでも、イスラエルの民を愛し、彼らのためにとりなしの祈りをささげたのです。

  西インドで最初にクリスチャンになったヒアクームスは、クリスチャンであるということで、反抗され、迫害されました。そのときヒアクームスは、こう言いました。

「わたしどもが、片手で神をとらえ、片手で人民を祝福しようとするとき、その人民のほうに差し伸べた手を傷つけられるので、その神に向かって差し伸べた手を、一瞬、固く握りしめる。」と言っています。

 私たちは、人から反抗され、迫害される時、それだけ一層、神様に近づき、また、その助けを神様に呼び求めるように、追い込まれるのです。

  童話作家のアンデルセンは、貧しい靴屋の父と家政婦の母のもとで育ちました。

 アンデルセンが生まれた時、赤ちゃんのベッドがなかったため、ある金持ちが葬儀場に置いていったベンチを改造して作ったほどでした。

 さらに、アンデルセンの父親は、アルコール中毒者で、毎晩酒に酔って帰ってきては、息子のほっぺたを殴りました。アンデルセンは、そのような家庭で育ったので、小学校を中退して、文学の授業も受けることが出来ませんでした。

 そのような環境で育ったのに、どうしてあのような美しい童話を書くことができたのでしょうか。その質問に、彼はこう答えたそうです。

「わたしは、苦しい環境の中でも、わたしに注がれた神様の祝福を手にすることにしました。たとえ、父が恐ろしくても、父の聞かせてくれる話しを聞くことは好きでした。そして、狭い屋根裏部屋に寝そべって空想をすることを楽しみました。わたしは、今でも父が良い人だと信じ、貧しい家をわたしの祝福だと信じています。考えてみれば、逆境はわたしの祝福でした。わたしは貧しいが故に、「マッチ売りの少女」を書き、自分の外見を馬鹿にされたがために、「みにくいアヒルの子」を書くことができましたから。」

 荒野の道を歩んでいるとしても、神様の恵みと祝福は変わることがありません。そのことを覚えるならば、不平や不満の話しを、愛と感謝の話しに書き換えることが出来るのです。

 私たちも、たとえ今の現状がどうであったとしても、変わらない神様の愛と祝福を覚えて、愛と感謝によって、執り成しの祈りをささげる者とさせていただきましょう。 

 

(2)主を試みたイスラエルの民

そのモーセの答えが2節に書かれています。

「民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」

  モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」と言っています。「主を試みる」

とは、どういう意味でしょうか。

 聖書には、試みると言う言葉が、3つの形で書かれています。

①神様が人間を試みる                                              

 神様が人間を試みるというのは、人間に対する試練を表しています。これは、人間の信仰を試し、取り扱って、聖めるためのものです。

②サタンが人間を試みる場合です。このサタンからの試みは、「誘惑」と呼ばれます。神の子てせあるイエス様も、40日の断食の後、荒野で、サタンの誘惑にあったのです。

③人間が神様を試みること

 聖書には、人間が神様を試みることは、原則として禁じられています。

申命記6:16(P291)

「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

  イエス様は、この御言葉でサタンの誘惑に打ち勝ったのです。

 例外として、イザヤ書7:11では、アハズ王に対して、神を試みることが勧められています。また、有名な、マラキ書3:9~10では、10分の1の献げものをもって、神様が天の窓を開いて、祝福してくださるかどうか試してみよ。と勧められています。

 なぜ、人間が神様を試みることが、このように、ある場合には許され、ある場合には禁じられるのでしょうか。それは、私たちの信仰のあり方によるのです。

 信仰をもって神様を試みるのは、許されることです。信仰をもって10分の1をささげるなら、必ず神様は天の窓を開いて祝福してくださると信仰をもって神様を試みるなら、神様は必ず、祝福してくださいます。

 しかし、不信仰のゆえに、神様を試みることは、許されないことです。

 不信仰の故の試みというのは、7節の後半に「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。」とあるように、神様の臨在を疑ったり、神様は、必ずわたしたちを救い出してくださるという神様の力を疑うことです。

 民数記14:22~23(P236)には、イスラエルの民は、多くの奇跡を目の当たりにしながら、荒野で10度も神様を試みたために、先祖の誓った地に、行くことはできないと書かれています。

「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、23 わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。」 

 また、ある時には、主を試みたために、蛇にかまれて死んでしまったことが、Ⅰコリント10:9(P312)に書かれています。

 私たちにも、そのような神様を試みたり、疑ったりする心がないでしょうか。

 たとえば「神様は、もう私のことなんか助けてくれない。」と思ってしまったり、「神様はこんな事まではできないだろう。」と神様の御業を小さくしてしまったり、「神様は私のうちにおられない」と神様の臨在を疑ってしまったことがなかったでしょうか。それは、神様を試みることであり、不信仰からでるものです。不信仰を悔い改め、信仰の歩みをさせていただきましょう。

 イスラエルの民は、ここでも、水がなくなったときに、不信仰に陥り、モーセを石で殺そうとさえしたのです。

 

(3)岩からほとばしる水

5~6節

「主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」

 イスラエルの民が、神様を試み、不平を言って、モーセを石で殺そうとしたにもかかわらず、神様は、愛のお方です。この時にも、一方的な恵みによって、不信仰なイスラエルの民の必要を満たしてくださいました。

 神様は、モーセにホレブの岩を打つように命じられました。

 モーセは、神様の命令に従って、ホレブの岩に近づいて、神の杖で岩を打つと、そこから水がほとばしり出て、イスラエルの民は、飽き足りるまで、清い水を飲むことができたのです。

 この時のことが、詩編105:40~41(P944)に書かれています。

「民が求めると、主はうずらをもたらし/天のパンをもって彼らを満足させられた。41 主が岩を開かれると、水がほとばしり/大河となって、乾いた地を流れた。」

  神様は、私たちを愛し、岩からほとばしる水を与えてくださるお方です。

 パウロは、このホレブの岩のことを語っています。Ⅰコリント10:1~4(P311)

「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、3 皆、同じ霊的な食物を食べ、4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

  この意味は、モーセがホレブの岩を打ったように、神の子であられるイエス・キリストが、私たちの罪身代わりに、打たれてくださったということです。そのことが、イザヤ53:5(P1149)に預言されています。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

  今日から受難週に入ります。イザヤが預言したように、イエス・キリストは、ホレブの岩が打たれたように、十字架にかかられる前に、40に一つ足りないムチを打たれ、茨の冠をかぶらせられ、あのカルバリの丘で、全人類の罪の身代わりに両手、両足委をむち打たれ、脇腹に槍を刺されたのです。それは、私たちの罪のため、私たちの救いのためでした。そのイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪は許され、永遠の命に至る水が与えられるのです。

  ホレブの岩から、生ける水がほとばしり出ました。そのように、そのように、キリストは、命の水を私たちに与えてくださるお方です。

ヨハネ4:13~14(P169)

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 先週は、ウェスレアン・ホーリネス教団の年会のためにお祈りをありがとうございました。今年は、「善い働き人になれ」というテーマの元、テサロニケの信徒への手紙から、三回の聖会と、二回の早天祈祷会で御言葉が取り次がれました。

   その閉会礼拝で、ある夫婦の証しをしてくださいました。一人の婦人が、一時間位かけて、教会に来るようになりました。最初は、礼拝だけでしたが、祈祷会にも熱心にこられるようになりました。それから、数ヶ月後のことです。ご主人から、電話があり、「1月4日に教会に行きますので、時間を取ってください」ということでした。

 ご主人が教会に来られて、最初におっしゃったことは、「わたしは、教会が大嫌いです。」と言う言葉でした。困ったなぁと思いましたが、話しをよく聞いてみると、奥さんが教会に熱心に行くようになったので、ある日、「教会に行くな。教会に行くなら、離婚だ。」という話しになったそうです。すると、奥さんは、「あなたと離婚はしたくありませんが、教会には行きます。」と言ったというのです。

 話しを聞いているうちに、「私は、昔はこんな人間じゃなかったのです。私の心は渇いています。」と言い始めたのです。

 そこで、先生は、先程お読みした、ヨハネ4:13~14を開きました。

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 そして、この御言葉から話しをして、お祈りをすると、このご主人が、その場で、男泣きに号泣し始めたのです。そして「これから、教会にきます。」と言って帰り、今では、ご夫婦そろって、喜んで教会にこられるようになったそうです。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13~14)イエス様は、私たちの心と生活に、生ける水を、与えてくださるお方です。

  しかも、その水は、ホレブの岩からほとばしり出たのと同じように、無代価で求めるものには、誰にでも与えられるのです。

黙示録22:17(P470)

「"霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」

  今日は、レフィディムで、モーセが神様に命じられた通り、杖で岩を打つと、その岩から水が湧き出た話しを学びました。神様は、岩からも水を湧き出すことの出来るお方です。 どうでしょうか。今、心の中が渇いておられる方がおられないでしょうか。もし、心から渇いているならば、イエス様の十字架を見上げてください。岩が杖で打たれたように、イエス様は、十字架でその肉を撃たれ、血を流されました。その十字架の贖いによって、私たちの心の渇きは癒やされ、渇くことのない、愛と喜び、そして、永遠に渇くことのない命の水をいたたくことが出来るのです。

 受難週、この素晴らしい十字架の愛の中を歩ませていただきましょう。


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Illustration by c-awase