イースターおめでとうございます。
今日のイースターに、山形南部教会の全身、1908年に設立した東洋宣教会福音伝道館山形支部の前川忠次郎牧師のお孫さんお二人と、曾孫さんが礼拝に出席されました。
山形南部教会は、1942年の宗教弾圧で、国家によって解散させられましたが、17年後の1959年に復興しました。
よみがえりの主は、時代を超えて働いておられます。
イエス様は、私たちをこよなく愛してくださって、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さいました。そして、3日の後によみがえられて、今も私たちに変わらない愛と平安を与えて下さっています。そのよみがえりのイエス様に心から感謝をささげましょう。
今日の中心の御言葉は、19節です。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
ここに「あなたがたに平和があるように。」とあります。口語訳聖書や新改訳聖書では、「あなたがたに平安がありますように」と訳されています。この言葉の方が心に響くような気がしますので、今日は、「あなたがたに平安がありますように」という題で御言葉を取り次がせていただきます。
今日の聖書の箇所は、イエス様が「あなたがたに平和があるように」と19,21,26に3度繰り返し語られています。
これは、ヘブル語ではシャロームという言葉で、ユダヤ人の間で、挨拶に使われる言葉です。すばらしい挨拶だと思いませんか。まず、左右前後の人に、「シャローム」「神様の平安がありますように」と挨拶を交わしましょう。
今日の聖書の箇所には、イエス様が「あなたがたに平和があるように」という言葉が19,21,26に3度繰り返し語られています。この3つの言葉から主の御声を聞かせていただきましょう。
(1)不安と恐れを持つ人に与えられる平安
19節の前半に
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。
週の日の初めの夕方、とありますから、日曜日の夕方です。その3日前の金曜日にイエス・キリストは十字架につけられたのです。
弟子たちは、ユダヤ教の指導者たちによって、イエス様が十字架につけられましたから、今度は弟子である自分たちが捕らえられ殺される番だと身を潜めて、家の中に隠れて鍵を閉めていたのです。
そのような、恐れと不安の中に、イエス様は来られました。
そして、真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架で傷ついた手とわき腹をお見せになられました。全人類の罪のために十字架に架かられたイエス様は、確かに三日の後によみがえられたのです。
このイエス様に出会った時、20節には
「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」と書かれています。不安や恐れが、喜びに代えられたのです。
イエス様は、罪と死に打ち勝ちよみがえられました。そのイエス様は、私たちの不安や恐れの真ん中に来てくださって、シャローム「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださり、不安と恐れを喜びに代えてくださるお方です。
今日は、山形南部教会の全身の教会を最初に開拓伝道をされた、前川忠治郎先生の、曾孫さんとそのお母様と、おばさまが、礼拝に来られています。
現在の山形南部教会の設立される108年も前のことです。1908年(明治41年)に東洋宣教会福音伝道館山形支部として、前川忠二郎牧師によって伝道が始めらたのです。その後、東洋宣教会の再編成、山形ホーリネス教会、山形聖教会、日本キリスト教団成立などの変遷があり、牧師も変わりましたがホーリネスによる伝道が続けられました。
しかし、山形伝道が始められて34年たった、1942年(昭和17年)私達の教会にとって最も苦しいときを迎えました。それが宗教弾圧であります。
この弾圧により、教会は解散させられ、当時牧師をしておられた吉沢幸平先生は牧師職を剥奪、迫害を受けました。解散後の会員は信仰を現実に試され、ある者は信仰を失ってしまったと聞いています。「残りの民」とも言うべき信徒は、山形市内の他の教会に籍を移して信仰を保ちました。そして、17年間、教会は復興されず、空白のときが流れました。
しかし、私たちの教会も宗教弾圧によって滅ぼさたのではありませんでした。
1959年5月5日東京聖書学校から、黒田愛子牧師が小原十三司先生に連れられて遣わされきたのです。そして、散らされていた信徒が、ホーリネスの教会を建て上げるために集まり、山形南部伝道所の伝道の火が再び燃え上がったのです。
山形南部教会は、弾圧によって解散させられ一度は見えるところはなくなってしまいましたが、今年の5月5日、復興して57周年を迎えます。最初の開拓から数えると108年です。
山形南部教会は、弾圧という「恐れ」と「不安」の中を通りましたが、その中に確かによみがえりの主が共にいて、私たちを導いてくださったのです。
私たちの毎日の生活の中にも、恐れや不安が襲ってきます。しかし、そのような時に、よみがえりのイエス様は、心の真ん中に立たれてこう言われるのです。
「あなたがたに平安があるように」
確かにイエス様はよみがえられて、わたしたちと共におられます。
そして、弟子たちだけではなく、私たちにも不安や恐れの中にある時に、私たちの心の真ん中に立って「あなたがたに平安があるように」と語りかけてくださるのです。
(2)不信仰な者に与えられる平安
2番目は、トマスに語られた言葉です。
26節
「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
24~29節には、トマスの事が書かれています。
トマスのことは、24節で
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」と紹介されています。
この「ディディモ」というのは、双子という意味です。トマスが実際に双子であったかどうかは分かりません。
けれども、ある学者は、トマスが実際に双子であったかどうかということよりも、彼の内にある2面性、疑い深いトマスという一面と、信仰の人トマスという一面の2面があるということが、このディディモという名前があらわしているのだと言っています。
o疑い深いトマス
イエス様にお会いした弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た。」と言いました。
けれども、トマスは信じることが出来なかったのです。
その時、トマスはこう言います。
25節
「トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
本当にリアルな言葉です。トマスは「目で見て、実際に手で触れて見なければ信じない。」と言ったのです。ここに、疑い深いトマスの姿がはっきりと現されています。
けれども、それは、トマスだけではありません。他の弟子たちもトマスと同じでした。他の福音書を見ると、女達が復活の知らせを伝えたとき、他の弟子たちも疑って信じることが出来なかったことが書かれています。
そして、それは私達にも同じことが言えるのではないでしょうか。一度死んだ人がよみがえって、合いに来たなどと言うことは決して常識では考えることの出来ないことです。
私たちも信仰と不信仰の間で、苦しむことがあるのではないでしょうか。
神様は、愛のお方で、私たちに最善のことをなしてくださることは、頭では分かる、でも、どうしても、それを受け入れることが出来ないことがあります。
そのような時に、このトマスのことを思い出して下さい。トマスの素晴らしさは、そういった自分の不信仰を正直に認めたということです。
自分の気持ちを正直に語るということは、勇気のいることです。
特に日本人は、「長い物には、巻かれろ」ということわざがあるように、自分が納得出来なくても相手に合わせてしまいます。しかし、トマスは違いました。
それも、仲間の1人、2人の証言が信じられないと言うのではありません。10人全員の証言です。けれども、トマスは、信じてもいないのに信じているなどとは絶対に言えなかったのです。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た。」と言うので、仕方なく、自分の納得出来ない気持ちを偽って、弟子たちに調子を合わせるようなことはしませんでした。
よみがえりのイエス様は、信じたくても信じられない気持ちを正直に言い表したトマスに、そのよみがえりの姿をはっきりと表されたのです。
o信仰の人に変えられたトマス
8日目に、イエス様は再び、よみがえりのイエス様の姿を弟子たちに表されました。
この時はトマスも一緒でした。イエス様は、トマスの心のようにかたくカギのかけられている部屋の中に入ってこられ、その真ん中に立たれました。
そして、「あなたがたに平和があるように」 と声をかけられたのです。
そして、トマスに向かって、両手を差し出して言われました。
27節「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
この時、イエス様はこの疑い深いトマスにもはっきりと分かる形で、手の釘後を差し出し、わき腹を見せられたのです。この時、イエス様は1度もトマスをせめたり、叱ったりしておられません。トマスは、復活の出来事を信じたくなかったのではありません。他の弟子たちと同じように信じたかったのですが、どうしても信じることが出来なかったのです。その苦しみをイエス様は知っておられました。そして、すべてをご存じのイエス様がトマスのもとに足を運んで下さったのです。トマスは、この時よみがえりのイエス様に出会いました。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
と、イエス様の声を直接聞いたのです。
もう、どんなに疑い深い、トマスでもこれ以上疑うことは出来ません。
トマスは、よみがえりのイエス様を前にして「わたしの主、わたしの神よ」とはっきりと告白したのです。
その後で、イエス様はトマスにこうおっしゃいます。
29節
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
「見ないのに信じる人は、幸いである。」
わたしたちは、トマスのようによみがえりのイエス様を見たり、直接イエス様の声を聞いたりすることは出来ません。
けれども、トマスが自分の気持ちを正直に話したように、私達も正直な気持ちをイエス様に申し上げ、心からよみがえりのイエス様との出会いを求めるならば、私達にはっきりと解る形で、私達に出会いを与えて下さるのです。
「あなたがたに平和があるように」イエス様は、不信仰な私たち、罪人の私たちにも、よみがえりの姿を表し、信仰の人に変えてくださるお方です。
(3)遣わされていく者に与えられる平安
21~22節
「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
イエス様は、弟子たちの罪を赦され、整えて弟子たちを遣わされました。それも、自分の力で頑張れ、というのではなく、「聖霊を受けなさい。」 言われ、よみがえりのイエス様が聖霊という形で、私たち心の中に宿ってくださり、共に働いてくださるのです。
あの、三度イエス様を裏切ったペテロでしたが、イエス様は、ガリラヤ湖でペテロに現れ、三度も「わたしを愛するか」と尋ねられて全ったき赦しと使命を与えられました。
このペテロは、やがて聖霊を受け、迫害や殉教の死も恐れずに、福音を伝える人に代えられました。
また、イエス様がよみがえられた事を信じられず、イエス様の十字架のくぎ跡を手やわき腹を触ってみなければ信じないと行ったトマスにも、イエス様は、現れてくださり、十字架で傷ついた手と、わき腹とを見せられて「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 と確かにイエス様がよみがえられた事を示されたのです。
このトマスは、伝説によると、やがて遠いインドの地に福音を宣べ伝え、殉教の死を遂げたと言われています。
ペテロとトマスだけではなく、すべての弟子たちが、このように整えられて遣わされていきました。
そして、神様は、私たちにも「聖霊を受けなさい。」と聖霊に満たしてくださって、私たちを福音を伝えるために遣わしてくださるのです。
今年の9月に、日本宣教会議が神戸で行われます。そのプログラムの中に、賀川豊彦の生誕の地に行くコースがあります。
賀川豊彦というと、日本を代表するクリスチャンで、神戸の貧民街で福音を宣べ伝えた、世界的な偉人と言われる人物です。
賀川豊彦は、幼い頃、いつも学校で「めかけの子、めかけの子」と馬鹿にされながら育ちました。そんな賀川豊彦は15歳のとき、東京に上京して昼は印刷屋のお掃除をし、夜は勉強しました。彼は未来を夢見ていたのです。
しかし、21歳の時、絶望状況に陥りました。肺病が悪化し、吐血が続き、医者から「もう手遅れです」と言われ、見捨てられたのです。死の宣告を受けたので絶望しました。彼は寝床で寝たまま人の迷惑になるよりは自殺を選ぼうと思ったのです。
しかし賀川豊彦は数年前に宣教師から福音を聞き、イエス様を受け入れていましたから、神様のみことばを思い出したのです。
「イエス様は裏切られて過酷な苦しみを受けたとき、自殺を考えただろうか?いや。イエス様は最後まで希望を捨てなかったではないか!あの十字架に架けられたときも、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、十字架のはずかしめをも耐え忍ばれたではないか!
イエス様は『わたしはよみがえりであり、いのちです』と挫折と絶望の中でも『復活の希望を持て!』と訴えておられるではないか!そうだ。そうに違いない!」。
この時、賀川豊彦に「わたしはよみがえりであり、いのちです」というイエス様のみことばが心に強く響いてきました。それから彼はそのことばを口ずさみ、それを心に刻み、絶望ではなく、復活の希望を心に思い描いて新しい出発をしようと考えました。
彼はこの聖書のみことばを通してビジョンをいただいたのです。すると不思議なことに、体に力が流れ込んできました。
彼はその場で起き上がり、リヤカーに自分の荷物を載せ、神戸の貧民街に入り、人々から相手にされていなかった娼婦、酔っ払い、やくざたちに自分が悟った復活の希望を伝えたのです。
彼はこう訴えました。「皆さん、皆さんは貧しくてここにいますが、絶望の中でも希望があります。イエス様を迎え入れると、絶望の中で希望が芽生えるのです。希望の花が咲きます。希望の実がなり、再出発ができるのです。」
『わたしはよみがえりであり、いのちです』賀川豊彦は、よみがりのイエス様の力によって、絶望の中でも希望を握り、希望の福音を伝えました。
この希望が彼の絶望的な悪性の肺病に打ち勝ち、貧民街でキリストの福音の花を咲かせ、後に世界的偉人となったのです。
ここにおられるお一人お一人が、この礼拝から、キリストの愛の証し人として遣わされて行くのです。家庭に、職場に、学校に、またこれから出会うすべての人のために、私たちは、遣わされて行きます。
自分の力に頼ると、弱さや足りなさを感じて、「私にはできない」と尻込みしてしまうようなことがあるかも知れません。
そのような、私たちに、イエス様は「あなたがたに平安があるように」と語りかけてくださるのです。そして、語りかけて下さるだけではなく、よみがえられたイエス様が、いつでも、どこでも、どのような状況の中でも共にいて下さるのです。だから、大丈夫なのです。
21~22節
「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
22節にイエス様が「彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」と言われています。「聖霊を受けなさい。」この聖霊に満たされてこのところから遣わされて行きましょう。
よみがえりのイエス様は、わたしたちにもこう言われます。シャローム「あなたがたに平安があるように」
イエス様からこの「平安」をいただき、「聖霊」に満たされて、キリスト様の愛を一人でも多くの方々に伝えさせていただきましょう。
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