4/10 主日礼拝

「モーセが手を上げている間」 出エジプト記17:8~16

  今日、川上陽一兄の証しを伺うことが出来、感謝しています。

 高校の教師として、学校の行事や、部活のある中で、信仰を守り続けると言うことは、大変な戦いだと思います。けれども、その戦いの背後に、ご両親の祈りがあり、川上家の信仰の支えがあったことを知ることが出来ました。その川上陽一さんを神様が必ず祝福してくださることを信じています。

 

今日の中心の御言葉は11節です。

「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」

  イスラエルの民は、シンの荒野を旅だって、レフィディムに宿営しましたが、そこには、イスラエルの民が飲む飲み水がありませんでした。イスラエルの民は、モーセにつぶやくと、神様は、モーセに、杖でホレブの岩を打つように命じられ、その御言葉に従って、杖でホレブの岩を打つと、その岩から水がほとばしるように出たのです。

 そのような、素晴らしい奇跡を経験しましたが、また、大きな試練が襲ってきました。それは、今までのような水や食物によるものではなく、彼らがもっとも恐れていた、異民族による攻撃でした。

 今日は、このアマレクとの戦いを通して、主の御声を聞かせていただきたいと思います。

 

(1)イスラエルの民に襲った試練

まず8節をご覧下さい。

「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、」

この時のことが申命記25:17~18(P320)にはこう書かれています。

「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。18 彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。」

  この時、イスラエルの民を襲ってきた、アマレク人は、先祖のヤコブの兄弟、エソウの子孫だったと言われています。彼らは、先祖のエソウのように野性的で、戦いを好んで行う民族でした。また、戦い方を良く心得ている人々でした。

 申命記の、25:18に、「彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。」とあるように、アマレク人は、イスラエルの弱点を良く知っていて、疲れ切っている時に、一番後ろにいた落伍者から、攻撃をしたのです。

 それは、サタンの攻撃とよく似ています。神様は、罪の世界から脱出したばかりの私たちは、赤子のような存在です。ですから、神様はできるだけ、安全な道を歩ませて下さいます。しかし、救われたからといって、サタンの誘惑から完全に逃れることはできないのです。それどころか、サタンは、私たちを神様から引き離そうと、執拗に攻撃してきます。

Ⅰペトロ5:8(P434)

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」

  ここに、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」と書かれています。サタンが、私たちをライオンが獲物を襲うように、私たちをねらっているのです。

 それに対して、私たちは無防備であってはなりません。Ⅰペトロ5:9に

「9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」

  とあるように、サタンが襲ってくるならば、信仰によって戦わなければならないのです。

 中国に、昔、ログ沙漠と呼ばれていた恐怖の沙漠がありました。

 そこでは、夜間、仲間から遅れたり、仮眠していて出発の時に取り残されると、悪霊が話しかけてくるそうです。それは、ちょうど仲間が呼びかけるようであり、時にはその人の名前さえ呼ぶこともあったそうです。ですから、その呼びかけに騙されて、旅人がラクダに乗って歩き出すと、いつの間にかとんでもない方向に導かれて、ついには沙漠の中で死んでしまう事もありました。

 しかし、この死の誘惑に、陥らない方法が一つあります。それは、仲間から絶対に目を離さないことです。不安な時には、ロープで前の人につないでおきます。家畜には鈴をつけて仲間がどこにいるか、いつも分かるようにしておきます。そして、寝る前には、これから進むべき方向に、しるしを付けておくのです。

 サタンの誘惑に負けない方法も同じです。わたしたちが、サタンの誘惑に勝利するためには、ただ、十字架の主をしっかりと見つめて、キリストから離れないことです。

ヘブライ12:1~2(P416)

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

  イスラエルの民が、神様に導かれて、荒野を歩んでいったように、私たちは、私たちの「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」私たちの信仰の歩みを走り抜かせていただきましょう。

 

(2)主の戦いの役割  (指導者ヨシュアと祈りの人モーセ)

①指導者ヨシュア

9~10節

「モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。10 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。」

  モーセは、早速戦いの備えをしました。と言っても、この時モーセはもう80歳を超えていました。戦うには年を取りすぎていました。そこで、まず、ヨシュアを戦いの指導者として立てました。ここで、始めてヨシュアが登場します。モーセは、この時ヨシュアが深い信仰と勇気を持って、自分の後継者に最もふさわしい人物であることを知っていたのでしょう。

 そこで、モーセはヨシュアに、幾人かを引き連れて、戦いに行くように命じました。戦いの訓練を受けていないイスラエル人を連れて、ためらうことなく、野蛮なアマレク人にいどんでいった勇敢なヨシュアは、まさに、モーセが期待していた通りの器でした。

 

②丘のいただきに上ったモーセ

10節の後半から11節にこう書かれています。

「モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」

  モーセとアロンとフルは、丘の頂に登りました。そして、モーセは手を上げたのです。

なぜ、モーセは、この大変な戦いの時に、丘に上って手を上げたのでしょうか。

 それは、全知全能の主に祈るためでした。

 詩編63:5でダビデはこう告白しています。

 「命のある限り、あなたをたたえ/手を高く上げ、御名によって祈ります。」

  また、パウロはテモテに対して、Ⅰテモテ2:8でこう書いています。

「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」

  祈りの人、モーセは、この時も、イスラエルとアマレクの戦争の状況を見つめながら、手を上げて、神様に祈っていたのです。

 そして、不思議なことに、モーセが手を上げて祈っていると、イスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になったのです。どうしてでしょうか。それは、この戦いは主の戦いだったのです。ですから、この戦いの勝敗は、実はモーセのとりなしの祈りにかかっていたのです。モーセは、そのことを良く知っていました。

 サタンに勝利するために、祈りほど大切なものはありません。モーセは疲れ果てるまで、イスラエルの民のために祈り続けました。そして、モーセの祈りがヨシュアに力を与えたのです。

 教会の中には、ヨシュアのように、実際に体を動かして奉仕をする器も必要です。しかし、何よりも大切なのは、とりなしの祈りです。どんなに素晴らしい奉仕が成されたとしても、もし、そこに祈りがなければ、それは、神様の業ではなく、空しいものになってしまいます。私たちも祈りによって、神様の勝利の御業を見せていただきましょう。

 神の子であられるイエス様でさえ、その生涯は、祈りによるものでした。

ヘブライ5:7(P406)

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」

  体を動かして奉仕をすることも必要です。しかし、何にも増して祈りほど大切なものはありません。私たちも、モーセや、モーセの祈りを支えたアロンやフルのように、祈りによって、神様の素晴らしい勝利の御業を見せていただきましょう。

 こんな話を読みました。昔、アルメニアの一商人が、商隊を組んでトルコを旅していました。ところが、この商隊を強盗団が尾行しており、野営したところを襲撃しようと狙っていたのです。

 やがて夜となり、強盗団は計画通り商隊を襲撃しようとしました。ところが、昼間には何もなかった所に高い塀が張り巡らされており、どうしても侵入することができませんでした。

 次の夜、再び彼らはキャンプ地を襲いましたが、これまた高い塀に阻まれて侵入できませんでした。

 3日目、やはり同じようにキャンプは塀で守られていました。ところが、その夜に限って、塀の一部に小さな破れ目があったのです。強盗たちは一人一人そこから中に侵入していきました。

 しかし、不思議な出来事に恐れを感じた親分は、商人を揺り起こしました。そして、この3日間の出来事について、彼に尋ねました。

「いったい、この不思議な出来事の意味は何なのだ。それを教えてくれたら、お前たちの荷物には手を出さないでおいてやる」。

 商人は言いました。「私は塀など作りませんでした。ただ、私はイエス・キリストを信じる者であり、毎晩聖書の神に旅の安全をお祈りしています。私は、神がすべての悪から私を守ってくださることを確信し、この身を委ねています。しかし、今夜はとても疲れて眠かったので、口先だけの祈りをして寝てしまいました。あなた方が破れ目から侵入できたのは、そのためでしょう」。

 祈りこそが、神様の全能の御手を動かす原動力です。祈りの手を上げる時、私たちはサタンに勝ち、祈りの手を下ろすと負けてしまうのです。祈りの手を上げ続けて、主の素晴らしい御業を見せていただきましょう。

 

③祈りの助け手、アロンとフル

 モーセは、イスラエルが勝つために、祈りの手を上げ続けなければなりませんでした。ところが、モーセは手を上げ続けようとしましたが、やがて、手は疲れ、重くなってきました。そこで、アロンとフルは、両側からモーセの手を支えたのです。

12節

「モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」

  3人とも年を取っていましたが、アロンとフルは、石を持ってきてモーセをその上に座らせ、その祈りの手を支え続けたのです。そのようにして、モーセは日の沈むまで、祈りの手を上げ続けました。

 そして、ついに、ヨシュアはアマレクとその民を剣の刃で打ち破る事が出来たのです。

 私たちクリスチャンは、自分の人生が祝福されるようにと祈らなければなりません。しかし、それだけでなく、モーセがヨシュアのために祈ったように、またアロンとフルがそのモーセを支えたように、他の人のために祈る、「とりなしの祈り」も大切です。

 マザー・テレサの本に、彼女にも、彼女のためにいつも祈ってくれる祈りの助け手がいたことが分かります。ジャクリーヌさんというその方は、修道女としてマザーと共に働きたかったのに、病弱のためかないませんでした。マザーは、気落ちしたジャクリーヌさんに手紙を書き、背後の祈りの奉仕を願ったのです。マザーは、自分の代わりに痛みに耐え、祈ってくれるジャクリーヌさんを「第二の自分」と呼び、ノーベル平和賞の受賞の時には、一緒に表彰式のステージに上がったそうです。マザーテレサのあの働きを、ジャクリーヌさんはという素晴らしい祈りの助け手がいたのです。

  私たちも、モーセがヨシュアのためにとりなしの祈りの手を上げ続けたように、またアロンとフルがモーセの祈りの手を支え続けたように、私たちも、神様から委ねられているとりなしの祈りの手を上げ続けていきましょう。

 

(3)主はわが旗(アドナイ・ニシ)

 イスラエルは、見事にアマレク人に勝利をしました。しかし、モーセは、戦いの勝利の栄光を、決して自分自身にも、実際に戦ったヨシュアにも帰していません。

 モーセは、勝利を知ると、祭壇を築きました。

15~16節

「モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、16 言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」  「主はわが旗」  というのは、ヘブル語で「アドナイ・ニシ」と言います。イスラエルに勝利をもたらしたのは、人間の力ではなく、祈りに答えて主の力であったことが、明らかにされたのです。

 4世紀の始めに、キリスト教を公認したローマの皇帝コンスタンチン大帝は、幻のうちに十字架を見て「これによって勝て、これによって勝て」という声を聞いて、それ以来、十字架を旗印として戦い、隣国と戦い、不思議な勝利を得たそうです。

 「主はわが旗」(アドナイニシ)、私たちもイエス・キリストの十字架を旗印として、主にある勝利をおさめさせていただきましょう。

  大阪府門真市に、山本清しさんというでブリキ職人がいました。

 山本さんは、若い頃悩み多き人生を過ごしていましたが、ある日、一枚のビラによって教会に導かれ、イエス・キリストを信じて、人生が新しく作りかえられたのです。

 ブリキ辱人をしていた山本さんは、口べたでしたが、イエス様の愛を伝えたいと思って、Tシャツの前と後ろに聖書の御言葉を書いて、それを着て通勤するようになりました。新しいTシャツを買うたびに、人が救われるような御言葉を選んで、その御言葉を書いて、春から夏に、それを着て通勤をするようになりました。

 朝、神様に「今日のシャツの聖句が、だれかの心にとどまって、救いへの導きになりますように。こんな土の器ですが、神様用いてください。」と祈ってそのTシャツを着ます。

 道を歩けば、ジロジロ見られます。電車の中では、前の人と後ろの人がシャツの御言葉を読む視線を感じます。

 時には、後ろから肩をたたかれて、「兄ちゃん、背中になかなかいいこと書いてあるね。」と言われたり、時には大声で笑われることもありました。でも、笑われようが、けなされようが、一生にただ一人でもいい、誰かの霊の目が目覚め、救いのきっかけとなればいいと思って御言葉入りのTシャツを着て通勤をしたのです。

  その山本さんが、こう言っています。

「あんたは勇気がある」とよく言われますが、そうじゃない。わたしは本当に弱い人間ですが、あの一枚のチラシによって教会に導かれ、このようにわたしの人生を変え、青年時代から今日まで導いてくださった神様の愛を思うと、じっとしていられないのです。」

 この山本さんのように、クリスチャンとしての旗印を明らかにすることは、本当に大切なことです。

15~16節

「モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、16 言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」

 イスラエルの民が、最初に戦いで、祈りによって勝利をした時に、「神はわが旗」「アドナイ・ニシ」と旗印を明らかにしました。そのように、私たちも、クリスチャンという旗印をはっきりと掲げて、良き証し人として用いていただきましょう。

 特に、新年度を迎えて、新しい歩みが始まりました。最初が肝心です。最初に、クリスチャンという旗印をはっきり掲げるならば、みんなは、私たちの事をそのように見てくれます。けれども、後になって、「私はクリスチャンなので、日曜日は休ませてください。」とか「お酒は飲みません。」と、クリスチャンであることを告白するのは大変なことです。

 「主はわが旗」(アドナイニシ)、イスラエルの民が最初の戦いで、神の民であるという旗印を掲げたように、私たちも、祈りの手を上げて、最初にキリストの十字架を旗印を掲げて、信仰という旅路を歩ませていただきましょう。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase