今日は、治面地学兄の証しを感謝します。治面地学兄は、山大の医学部の大学院で学び、助教として教えている優秀な器ですが、今日は、その学くんが、自分の弱さの中に働かれる神様の恵みについて、証ししてくださいました。
Ⅱコリント12:9に
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とあります。
実は、昨日が学くんの誕生日でした。新しい一年の上に、弱さの中に働かれる神様の祝福が豊かにありますように祈ります。
今日の聖書の箇所には、モーセがたった一人で、約200万人のイスラエルの民を裁いて、疲れと弱さを覚えいた時に、しゅうとのエトロが、モーセに提案したことが書かれています。
今日の中心の御言葉は、24~25節です。
「:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。」
先週は、モーセとしゅうとエトロの再会の喜びと、賛美の御言葉から主の御声を聞かせていただきました。
その翌日のことが、今日の聖書の箇所には書かれています。この聖書の箇所を3つに分けて主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)一人の指導者モーセ
モーセは、いつものように、裁きの座について、人々は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいました。
エトロは、モーセがイスラエルの民に対して行っているすべてのことを見て、驚いたようです。モーセが一人で、すべての問題を裁いていたからです。
そこで、エトロはモーセにこ尋ねました。
13~14節をご覧ください。
「翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。」
エトロの質問に対して、モーセは15~16節でこう答えています。
「15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。」
神様は、モーセをイスラエルの指導者として立てられました。神様は、そのモーセにイスラエルの民を裁きを委ねられたのです。本当の裁きを行う事が出来るのは、神様だけです。そして、神様は最初にそれを、モーセという指導者に委ねられたのです。しかし、それを一人で担うことは、限りがありますし、不可能です。
今、私は、ウェスレアン・ホーリネス教団では、宣教部のさせていただいていますが、毎年2回「宣教の祈り」という祈りのしおりを、10年くらい作成しています。
最初の頃は、私一人で、全教会に連絡を取り、作成をしていました。ところが、一人でやると大変ですし、目が二つしかありませんから、誤字脱字が多くて、良く失敗をしていました。
ところが、数年前から、宣教部の委員の方々が、「私たちもやらせてください」と言ってくださって、4人で手分けをして行ってくれるようになりました。そして、私は役割分担と、編集をするようにしたのです。すると、目は8個ありますし、編集の段階で何度も目を通しますので、良いものが出来るようになりました。
それに、自分が手がけたものには愛情があるらしく、「宣教の祈り」は良いですねと、委員達が言い始め、多くの教会で祈られるようになりました。
そして、昨年からは、信徒会の方が、信徒全員に配布できるようにと、多額の献金をしてくださるようになりました。すると、信徒会の方々も「宣教の祈り」良いですねと、それを用いてくださる方が多くなっています。5月の末には、その「宣教の祈り」が完成しますので、ぜひ、それを用いて祈ってください。
最初の頃は、私が一人で奉仕をして、恵みを独り占めして、神様の御業を小さくしてしまっていたんだなと思わされました。
一人でできる事には、限りがあります。一人で神に仕えるのではなく、みんなで心を合わせて、主の働きを担わせていただきましょう。
(2)神の働きの役割分担
一人でできる事には、限りがあります。そして、無理をして、それを一人で成そうとするならば、きっといつかは倒れてしまうに違いありません。
実際に、モーセは民数記11:11~15で、神様の対してこう嘆いています。
「11 モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。12 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。13 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。14 わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。」
また、神様は、そのモーセに対して、民数記11:16~17で70人の長老を選ぶように命じておられます。
「16主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。17 わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。」
そのように、ここでエトロは、17~20節でこういう提案をしたのです。
「17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」
どんなに、有能な器であったとしても、また、神様が一人の指導者に、大切な役割を命じられたとしても、一人でそれを担うことは出来ません。また、それは神様の御心ではないのです。
あるセミナーの分団で、日本の伝道はなぜ、伸びないのかという講演がありました。それは、日本の牧師は、真面目すぎて、何でも自分でやろうとするからだと語られました。その例話として、ボクシングの選手と、サッカーの監督の違いについて語られました。
日本の伝道は、ボクシング型だというのです。伝道や牧会は、牧師がするものだと勘違いして、信徒は、牧師が伝道牧会している姿を周りにいる観客のように応援している。
応援するのだったらまだ良いのですが、うまくいかないと、牧師が悪いからだと言って批判をする信徒もいて、牧師は疲れ果てて倒れてしまう。それが、今の日本の多くの教会の姿ではないでしょうか、そして、多くの日本の牧師は、このボクサーのように疲れて、倒れてしまいそうになっているのではないでしょうか?と言われたのです。
けれども、宣教と牧会は、救われたすべてのクリスチャンに与えられた使命です。
健全な牧師の役割は、サッカーの監督のような姿で、実際にグランドでプレーをするのは信徒です。そして、この世の光、地の塩として実際に証しをするのは、信徒の役割で、それをどのよう動いたら、効率よく点に結びつくのかを考え指導するのが、牧師の役割です。そのような健全な教会として成長していくならば、日本にリバイバルが起こるのではないでしょうか。
21~23節をご覧下さい。
:「21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
エトロは、更に具体的に、イスラエルの民の中から、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に価する人物を選ぶように提案します。具体的には、千人隊長、百人隊長、50人隊長、10人隊長を民の上に立てることです。そのようにして、小さな日常の出来事は、それらの長が裁き、大きな事件をモーセが裁くように提案したのです。
エトロは、モーセが良い指導者としての働きが出来るようにと、モーセの荷を軽くしようとしたのです。
神様の御業は、一人で行う事はできません。クリスチャン一人一人に素晴らしい賜物が与えられています。そのそれぞれの賜物が、教会を建てあげていくために必要なのです。
パウロは、Ⅰコリント12章で、教会をキリストの体に譬えています。
Ⅰコリント12:27~28
「27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」
キリストを頭とする教会は、それぞれが、キリストの肢体です。そして、体のどの部分も必要でない部分がないように、すべての部分が必要なのです。
みなさんには、どのような賜物が与えられているでしょうか。神様は、すべての人に大切な賜物を与えておられます。そして、その賜物は、かけがえのない大切な賜物なのです。その賜物を用いて、キリストの体の大切な働きをさせていただきましょう。
今日は、教会総会が行われ、山形南部教会も新しい歩みが始まります。後ろに、奉仕者表を貼っておきましたので、ぜひ、奉仕者表に名前を書き込んでいただいて、新年度、共に神様と人とにお仕えしましょう。
(3)神様に用いられる人
21節には、どのような人が、神様に用いられる条件が書かれています。
「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」
エトロは、「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を」選ぶようにと、選ばれる人の条件を語っています。
ここでの資格は、この世での基準とまったく異なるものです。
①神を畏れる有能な人
大きさは様々ですが、人々を治めるためには、神様からの知恵が必要です。そして、箴言9:10(P1002)には、
「10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。」と書かれています。この世の能力や、この世の知恵では、神様に用いられることは出来ません。何よりも大切なのは、神様を畏れ敬う聖い心、神様の御言葉に対する絶対信頼と服従です。
そのような神様を畏れる心をもっているならば、その隊の人々を、神様に従う者として導くことが出来るのです。
②不正な利得を憎む人
「不正な利得を憎む」人です。主を畏れる人は、当然不正の利得を憎みます。特に多くの責任を任された人は金銭に対して無欲でなければいけません。
そのような人としてネヘミヤを思い出します。エルサレムの城壁を再建した人ですが、彼はこう言いました。
ネヘミヤ5:15
「わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。」
このように、能力以上に、神を畏れて、「不正な利得を憎む」聖い心が、教会での責任ある働きの中で必要なのです。
③謙遜な人
この謙遜はモーセに見ることが出来ます
出エジプト18:24~25
「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。」
モーセは、この時しゅうとエトロの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにしました。
モーセの特徴の一つは、謙遜です。モーセのことが民数記12:3にこう書かれています。
「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」
この時、モーセはイスラエルの民約200万人をひきいる指導者でしたから、しゅうとエトロの助言を退けることは、いとも簡単なことでした。けれども、モーセはその立場に自分をおきませんでした。あくまでも、主のしもべとして、しゅうとエトロの言葉に謙遜に従ったのです。
モーセは、イスラエル全体の中から神を畏れる有能な人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任命しました。小さい日常のことは、各隊の隊長が裁き、大きな事件だけをモーセが裁くようになったのです。
奴隷制度廃止のために行われた、南北の戦争が行われていた時代の事です。
寒い冬の日に、北軍の司令官ワシントンが、外套に身を包んで戦場に向かいました。
そこでは、防壁をつくる仕事が、急いで兵士達によって行われていました。その一廓で、小隊長の指揮の下で、一団の兵士が丸太を持ち上げるためのに、汗を流していました。小隊長のかけ声で、兵士達は、満身の力をこめて丸太を持ち上げました。ところが、あと少しというところで、ドンと倒れてしまいました。
何度も、やり直そうとしましたが、少し力が足りませんでした。またもや、小隊長のかけ声に従って、持ち上がられて、あと少しという時に、ワシントンが通りかかりました。すると、ワシントンは、兵士の中に加わると一緒になって、とうとう丸太を押し上げたのです。
ワシントンは、号令だけをかけて、力をかそうとしなかった小隊長に向かってこう言いました。
「こんなに思いものを持ち上げるには、他の人の助け手が必要です。それなのに、なぜあなたは、兵士に力をかさなかったのですか?」
するとその小隊長は「私の助けがないかだって?君は、私が小隊長であることを知らないのか?」
「なるほど!」ワシントンは、おもむろに、外套を脱いで、軍服になって答えました。
「私は、司令官に過ぎない。今度あなたが兵士たちに重すぎる丸太を押し上げなければならない時には、私を呼びつけて下さい。」
この時、どんなにこの小隊長は、恥ずかしい思いをしたことでしょうか。小隊長にとって大切な事は、司令官に従うことでした。そして、自分の利益を求めるのではなく、謙遜になって共に戦うことでした。
そして、このワシントン司令官の謙遜な態度によって、この軍隊の人たちは、一つになって戦い、見事に勝利を収めたのです。
24~25節
「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。」
神様の祝福は、モーセが、しゅうとエトロの言葉に従ったように、神様を畏れ、不正な利得を憎み、謙遜な器に与えられます。
私たちも、モーセを始め、各隊長に選ばれた人達のように、神様を畏れ、不正な利得を憎み、謙遜な器として、神様に用いていただきましょう。
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