今日は、母の日です。周りにいるお母さん方に、「お母さんありがとう。」と挨拶をしましょう。
今日は、頌くんのお母さんの、川崎直未姉の証しを聞くことが出来感謝です。頌くんは、毎週一人でホサナに出席するようになりました。最初の内は、送ってくれたお父さんやお母さんと別れる時、大泣きをして大変だったのですが、最近はホサナになれて、まっすぐに会堂に入るようになりました。
それでも、礼拝にお父さんやお母さんが来ると、満面の笑みで本当に嬉しそうな顔をするのです。その頌くんの顔を見ると、頌くんが、どれだけ両親に愛されて育っているのかがよく分かります。
19章から24章には、シナイ山で、神様に選ばれ、愛されているイスラエルの民と神様とが結ぶ契約のことが書かれています。
今日の中心の御言葉は、19:8です。
「民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。」
イスラエルの民は、エジプトの国を出て、三ヶ月経ちました。そして、レフィディムを出発して、シナイの荒野に到着しました。そこで、彼らは荒野で、山に向かって天幕を張りました。
この山が、どこの山であるのかいろいろな説がありますが、伝統的に受け入れられているのは、シナイ半島にあるジェベル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」という意味)です。
この山の前には、長さが4キロ、幅が600メートルから1キロの「エル・ラーハ」と呼ばれる広い谷があって、イスラエルの民が長期間滞在するのに最も適した場所でした。現在でも、シナイ山に登る人達の観光地として、ホテルなどが建ち並び、賑わっています。
このシナイ山は、2293メートルの非常に高い山で、モーセが、燃える柴の中から神様の召命を受けた場所でした。
出エジプト3章にその時の出来事が書かれていますが、12節で神様はモーセにこう言われます。
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
モーセは、この時の約束を、思い起こしたに違いありません。
モーセは、この約束の通りもう一度、このシナイ山に登っていきました。そして、あのモーセが召命を受けた時のように、もう一度、主の臨在に触れたいと思って、山に登っていったのです。
そして、神様はこの山で、イスラエルの民と契約を結び、律法を与えられるのです。
まず、19:4で神様はこう言われます。
「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。」
神様は、エジプトに対して、大いなるさばきをくだされました。それは、10の災いと、紅海をイスラエルの民が渡り終わった時、すべての兵隊が紅海の水に飲み込まれてしまったことに表されました。
そのさばきの時に、神様は、鷲が翼にひなを乗せるように、イスラエルの民を守られたのです。4節の後半に「また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。」 と書かれていますが、その事が、申命記32:11に書かれています。
「鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように、12 ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった。」と書かれています。
神様が、エジプトに大いなるさばきをくだされた時、イスラエルの民を、鷲がひなを翼に乗せて運ぶように、愛情をもって、エジプトから導き出されたのです。
イスラエルの民をこのシナイ山に導き出したのには、理由がありました。5節をご覧ください。
「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」
ここに、「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば」と書かれています。
モーセが、イスラエルの民をシナイ山に導いたのは、神様がイスラエルの民と契約を結ぶためでした。
かつて、神様はアブラハムと契約を結ばれましたが、今度は、イスラエルの民と契約を結ぼうとされているのです。そして、この契約を守るならば、イスラエルの民に3つの祝福が与えられる事が約束されています。
(1)神様の宝となる。
5節
「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」
神様との契約を守るならば、神様はイスラエルの民に「わたしの宝となる」と約束しておられるのです。
5節の後半に「世界はすべてわたしのものである。」と神様は言われています。全世界の民は、神様によって造られた、かけがえのない大切な存在です。しかし、感謝な事に、神様と契約を結ぶ民は、特別な「宝」の民とされるのです。
申命記7:6で、神様は、選ばれたイスラエルの民のことをこうおっしゃっています。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」
それは、新約の光に照らすと、現在のわたしたちクリスチャンのことを表しています。キリストによって、贖い出されたクリスチャンの一人一人も、神様に所有された特別な、世界にたったひとつしかないかけがえのない「宝」なのです。
今日は、母の日ですが、あるお母さんの証しです。
そのお母さんが、病気の治療のために、病院に入院することになりました。入院中は、3人の息子にもなかなか会うことができません。
ある日、ついにさみしくなったのか、次男が病院に電話をかけて、こう尋ねました。
『ママ、子どもの中で誰が一番好き?』
後ろでは末っ子が『そりゃぼくでしょ』と言っている声も聞こえてきます。次男は心配そうな声で、『ちがうよね、一人だけじゃないよね?』とお母さんの顔をのぞき込んで聞きました。
このお母さんは、胸がギューと抱きしめつけられるような思いになりました。そして、『あなたがが一番好きだよ!』と答えました。そして、『でもお兄ちゃんも一番だし、弟も一番、みんな一番なんだよ』と答えました。
3人の息子に対する愛は、決して三分の一ではありません。一対一で、一人一人100%愛しているのです。
この時に、このお母さんは、イエス様の愛も同じだと気がついたのです。その時のことをこう書いています。
「今まで、私は、イエス様はみんなのために十字架にかかってくださって、その中の一滴が私を救い、きよめてくださったのだと思っていました。しかし、イエス様の愛は一対一で、100%の愛だと気づいた時、十字架の血は最後の一滴まで、100%私のためだけに流されたってことがよくわかったのです」
申命記7:6
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」
イスラエルの民が、神様から選ばれた神の「宝」であったように、私たちも、神様から選ばれ、イエス・キリストの十字架の一方的な愛によって愛されている、神様の「宝」なのです。
(2)祭司の王国とされている
6節
「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
祭司というのは、神様と人との間にあって、罪を犯した者のために犠牲の献げ者をささげ、とりなしの祈りをささげる特別な務めが委ねられていました。
イスラエルの民は、神様と契約を結ぶことによって、神様と他の民族との間の仲介者として、全世界の民族を神様に導くための、とりなしの祈り手とされたのです。
イスラエルの民は、この素晴らしい契約が与えられ、この特権が約束されていましたが、彼らは、この契約を守ることができませんでした。
そこで、神の子であられるイエス・キリストが、祭司がささげる全焼のいけにえの代わりに、十字架で命を捨てて贖いの業を完成してくださいました。そして、あの十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (.ルカ23:34)ととりなしの祈りをしてくださつて、全世界の人々を救う大祭司となってくださったのです。
ヘブライ4:14~16(P405)
「14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
神の子であられるイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、とりなして下さり、救ってくださいました。今、私たちが恵みに与っているのは、この真の大祭司であられるイエス・キリストの恵みの故です。
4月14日に震度7の熊本大震災が起き、49名の人が亡くなり、1500名近くの方が重軽傷を負われました。まだまだ余震も続いていますし、水道がガスが使えない地域があると聞いています。なお、祈っていきたいと思います。
今から、15年前のテロ事件を忘れることができません。2001年の9月11日、110階建ての世界貿易センタービルに飛行機が激突しました。この9,11テロは世界が大きく変わる転換点となりました。
最初の1機目の飛行機が、超高層ビルであるツインタワーの北側の棟に突入し爆発炎上する中、無事に脱出した人がいました。
92階に飛行機が突入してきましたが、その人は100階にいたのです。
その衝撃でエレベーターを使うことができず、階段を使うしかありませんでした。ビルは火がぼうぼうと燃え、煙が高く立ち昇り、いつ崩壊するか分からない中を必死で100階から駆け下りました。その時彼にある言葉が聞こえました。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」(ローマ10:13) 。聖書の言葉が心に聞こえてきたのです。
彼は死ぬか生きるかという切羽詰った状態の中、「Jesus! Jesus!」と御名を叫びながら、階段を駆け下りました。そして多くの人が後ろに続いていたので、彼は「Call GOD! Call Jesus!」「神様の御名を呼びなさい。イエス様の御名を呼びなさい。」と声を張り上げて、叫びました。
すると皆が「神様、イエス様」と大声で叫びながら、彼の後からついて来たのです。
階段を駆け下りていく途中、火が妨げます。しかし、イエス様の御名を呼ぶと、火が分かれました。また、煙だらけでみえなくなる時もイエス様の御名を呼ぶと、煙が散っていったのです。階段を駆け下りていく50分の間、そのたび毎に、何度も火が左右に分かれ、煙が分かれていったのです。
こうして、彼らがビルの1階に辿りつき、1階のドアの外に出てくるや否や、ビルが崩壊したのです。そしてこの証は、次の日にアメリカ中を覆う大きな話題となったのです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」(ローマ10:13)
そして、私たちを救ってくださった神様は、滅びに向かって歩んでいる人々の救いのために、祭司として、とりなしの祈り手となり、キリストの救いに導くことを願っておられるのです。
(3)聖なる国民
6節
「6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
ここに「聖なる国民となる。」と約束されています。これは、契約の血によって、その罪を赦していただき、神様から聖別された民にされるということを意味しています。
旧約の時代は、罪を犯すと、その度に、祭司のところに行き、祭壇でいけにえをささげて、罪の赦しと清めをいただいていました。
旧約の契約は、律法を行いによる契約でした。神様はその契約を完全に守ってくださるお方です。しかし、イスラエルの民は、この律法を行う事が出来ずに、何度も神様のもとを離れ、神様の御心を悲しませました。私たちも、イスラエルの民のように、自分の力では、神様との契約を守り、行う事は出来ません。
クリスチャンになったのだから、クリスチャンらしく生きなければ、もっと、聖書を読み、奉仕をし、献金をささげなければと自分の力で、聖い生活を行おうとしてはいないでしょうか。もし、そのような聖潔を求めているとしたら、どこかで行き詰まってしまいます。
けれども、イエス・キリストは、十字架の一方的な恵みによって、新しい契約を与えて下さったのです。
ヨハネ13:34~35
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ここに「わたしがあなたがたを愛したように」とありますが、イエス様は私たちの救いのために十字架で命を与えて下さいました。その一方的な愛によって私たちは救われたのです。その愛に生かされる時、私たちもイエス様の愛を行う、聖い証し人に変えられて行くのです。
愛によって息子の生き方を変えた一人のお母さんの話しをしたいと思います。
2人の青年が賭け事をしていました。2人はとうとう警察に捕まり裁判にかけられて有罪判決を受け、刑務所に入ることになりました。そのうちの1人の青年の家は裕福で、すぐに保釈金が支払われて解放されましたが、もう1人の青年は貧しい家庭だったので費用がなく、牢につながれたままでした。
そこで彼のお母さんは、どうにかして息子を救おうと石切り場で石を運ぶ日雇い労働で終日働きました。するとある日、大きな石が彼女の手の上に落ちて、指の骨が折れてしまったのです。
そのお母さんは包帯をして息子の面会に行きました。
「お母さん、その手はどうしたの?」「実は今、お前を救い出すために毎日働いているの」お母さんは息子に隠して働いていましたが、この時初めて事の次第を打ち明けました。
やがて母は保釈金を払い、息子を刑務所から救い出しました。青年が家に帰ったその日、裕福な家の青年がやって来て再び彼を賭け事に誘いました。しかし、彼は断固とした態度でこう言ったのです。
「ぼくはもう2度と賭け事はしない。君はすぐに釈放されたけど、僕は母の血と汗と涙の結晶で救われたんだ。これ以上、母の愛を踏みにじることはできない。だから2度とここには来ないでくれ」
母親の愛が、彼の人生を変えたのです。
イエス・キリストの十字架も、このお母さんの愛によく似ています。イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。その、イエス・キリストの十字架の愛に生かされる時、私たちは罪から離れ、聖い生活をする事が出来るのです。
今日は、神様の契約を守る者に与えられる3つの事とをお話ししてきましたが、その特権に与るために必要なことがあります。それは、神様の言葉に従順に聞き従うかどうかが、問われるのです。
神様は、決して御自分の契約を強制されるようなお方ではありません。私たちが、喜んで契約に聞き従うかを確かめられるのです。
モーセは、戻ってくると、長老たちを集めて、主が命じられた言葉をすべて、彼らに語りました。
それに対して、イスラエルの民は、8節でこう答えています。
「民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。」
モーセが、イスラエルの民の言葉を主に取り次ぐと、
9節
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」と語られました。
ここで、神様は濃い雲の中で、モーセに臨み、神様が直接モーセに語られると言っておられます。そして、モーセは、その神様から聞いた言葉を、イスラエルの民は聞くのです。それは、いつまでも、モーセを信じて従うようになるためです。
神様は、人を通して、契約の約束を与えて下さいます。モーセを通して、契約に従うならば、「わたしの宝」となり「祭司の王国」とされ「聖なる民」とされると約束されました。そして、それは、イスラエルの民に伝えられ、それは、全世界の救いと祝福になるためでした。
神様は、私たちを必要としておられます。主の言葉を聞いたならば、イスラエルの民が皆、一斉に、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」 と答えたように、私たちも主の御言葉に聞き従いましょう。そして、まだ、福音を知らないと多くの人々に、素晴らしい福音を広く伝えるために用いていただきましょう。
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