5/29 主日礼拝

「わたしは主、あなたの神」 出エジプト20:1~11

 先程読んでいただいた、出エジプト20:1~17節には「モーセの十戒」が記されています。モーセの十戒は、大きく二つに分けることができます。前半は、神様と人との関係、そして、後半は、人と人との関係です。今日はその前半の20:1~11から主の御声を聞かせていたたきたいと思います。
 今日の中心の御言葉は、2~3節です。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

 モーセは、神様に命じられて、民のところに帰ってきました。そこで、神様は実際に声を出して、イスラエルの民に十の戒めを与えられました。
 20章に始まって、申命記に至るまで、神様はモーセを通して、多くの律法を与えられました。なぜ、神様はイスラエルの民にこのような律法を与えられたのでしょうか。
 それは、神様が、人間は迷いやすい小羊のような存在で、すぐに正しい道から外れてしまう者であることをよくご存じだからです。人間が正しく生きるためには、どうしてもある基準が必要だからです。
 私たちは、旅をする時に地図を見ると目的地に着くことができます。また、船が正しく航海するために羅針盤が必要です。
 神様は、そのようにイスラエルの民に人生という旅路の地図を与えて下さったのです。それが、イスラエルの民に与えられた律法です。
 「モーセの十戒」には、3つの大きな特徴があります。第一は、十戒だけが、直接神様の御声をもって語られたものです。第二番目には、十戒だけが、直接神様の指によって石の板に書かれたものであるということです。出エジプト31:18には「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。」  と書かれています。
 そして第三番目は、十戒だけが、神の箱に置かれたものです。列王記上8:9には、二枚の石の板に書かれた十戒が、幕屋の中に納められた事が書かれています。
 このように、モーセの十戒は、すべての律法の初めであり、その中心です。他の律法は、この十戒を基として定められているのです。

 十戒を与えられる前に、まず2節で、神様がどのようなお方であるかを語っておられます。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
  イスラエルの民にとって、神様というのは、ただ単に人間が抽象的に頭の中で作り出した存在ではありませんでした。
 実際に、イスラエルの民を、エジプトの国、奴隷の状態から救いだしてくださった神様です。また、出エジプトをした後も、昼は雲の柱、夜は火の柱として導いてくださり、このシナイ山まで共にいて下さったお方です。すなわち、実際に生きておられる神様、行動して働かれる神様、実際に御声をもって語られる神様なのです。
 また、人間と密接な契約を結ばれる、人格的な神様であり、イスラエルの民を愛して、祝福するために、御言葉を、また戒めを与えてくださる神様なのです。

 このモーセの十戒は、大きく2つに分けることができると最初にお話ししました。
 最初の一戒~四戒は、神様と人間との関係に関する戒めです。そして、五戒~十戒までは、人間と人間とに関する戒めです。
 イエス様は、この十戒を2つに分けて、一番重要な掟として語っておられます。
 マタイ22:36~40(P44)
「36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

  第一の掟は、37節にあります。「37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。」
 この第一の掟が、モーセの十戒の1~4戒で、5戒から10戒を一言で言うなら、
『隣人を自分のように愛しなさい。』  という第二の掟に現されています。
  今日は、最も重要な第一の掟を心にとめながら、モーセの十戒の1~4戒から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この掟を守るためにどのようにすれば良いのでしょうか。4つの事を教えられます。

(1)まことの神様だけを神とする
3節 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
  ここには、人間が守るべき一番大切な教えが書かれています。それは、まことの神様を神として、ほかの何ものも神としてはならないということです。

 親にとって、一番悲しいことは何でしょうか。
 それは、子どもが罪を犯すことです。子どもが罪を犯すと、親は自分のことのように心が痛みます。しかし、親にとって一番悲しいことは、子どもが自分を本当の親だと認めないことではないでしょうか。愛する子どもが、他の人のところに行って「お父さん」と言ったらどんな気持ちになるでしょうか。そんなことは、決してあってはならないことです。
 同じように、神様から私たちを創造され、真心から愛しておられます。それにもかかわらず私たちが、神様を父なる神様と認めずに、他のものを神様としてしまったらどうでしょうか。それは父なる神様を最も悲しませることになってしまうのです。
 しかし、礼拝されるべきお方は、天地創造をされ、今も天地万物を支配しておられる神様ただお一人だけです。

 一昨日、オバマ大統領が、被爆地である広島に、現役の大統領としてははじめて、訪問されました。それは、核兵器絶滅の第一歩であり、平和への希望でもありました。
 アメリカには、素晴らしいクリスチャンの大統領がおられましたが、その一人に、エイブラハム・リンカーンをあげることが出来ます。彼は、1861年にアメリカの第十六代大統領に就任しました。南北戦争で南軍を打ち破り、1863年1月1日に奴隷解放の宣言が布告されました。その時に400万人程の奴隷がいたと言われていますが、彼らの喜びは言いようにないほどでした。しかし、戦争はまだ続いていました。
 戦争が終わりに近づいた1865年4月4日に、リンカーンは、陥落したばかりのリッチモンドの様子を見に出かけました。船で上陸したリンカーンは、一面焼け野原になった町を見渡して、ぼうぜんと立ち尽くしてしまいました。
 その時です。物陰から、一人の老人が現れました。彼は、リンカーンを見ると「おお大変だ。救い主様がいらっしゃったぞ。」と叫んで、リンカーンの足元にひざまずいて、口づけをして拝んだのです。するとリンカーンは、「わたしを拝んではいけない。」と彼を止めさせました。そして、「あなたがひざまずかなければならないのは、天の父なる神様だけなんです。わたしもあなたも、みんな同じ神の子であり、兄弟なんだ。」そう言って、彼を立ち上がらせたのです。
 そして、共に神様に心からの感謝の祈りをささげたのです。黒人達は手を繋いで、リンカーンの周りに輪を作って、響きのあるいい声賛美を始めました。
 それから、リンカーンは何千人もの黒人達に囲まれて、神様に賛美を賛美しながら、リッチモンドの町に入っていったのです。
3節
 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
 天地創造をされ、私たちを造らた神様は、私たちを愛しておられます。その神様だけが、礼拝されるべきお方、賛美されるべき方です。そのお方に心からの礼拝と、賛美をささげましょう。

(2)偶像を造ってはならない
4節「あなたはいかなる像も造ってはならない。」
  第二戒は、神様を「いかなる像に造ってはならない。」という戒めです。
 それは、神様が霊なるお方であり、形のないお方だからです。
 申命記4:15~16aには、この時のことがこう書かれています。
「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。16 堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。」

 また、イエス様は、ヨハネ4:24(P170)でこうおっしゃいました。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 イスラエルの民は、神様の姿を見なかったのだから、いかなる偶像も造ってはならないと命じられているのです。
 神様は、霊のお方で、形を持たないお方、永遠から永遠まで存在される無限に存在されるお方です。その無限なるお方を、有限な形に現すことは不可能なことです。まず、神様が私たちの創造者です。神様は、すべての物を造られ、私たち人間をも造って下さいました。その私たちが、神様を造るということは不可能なことなのです。

 イザヤ44:9~12(P1133)には、偶像を造ること、また拝むことの空しさが書かれています。
9節
「偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」
  人間が造った偶像は、見ることも知ることも出来ません。また、何の役にも立たず、悟りもしません。また、そして、偶像の神を造った材料は、燃え尽きてしまうまきやたきぎと同じです。偶像礼拝をすることが何と空しいことかとイザヤは語っています。

 神様以外のものを礼拝することを、偶像礼拝と言いますが、第一の戒めは、人間が偶像礼拝をする事を禁じ、まことの神様だけを礼拝するようにと命じられているのです。
 人間には、昔から偶像を礼拝する習慣がありました。4000年前のアブラハムの時代には、人々は月を礼拝していました。また、モーセの時代、エジプトにも多くの偽りの神々がありました。
 また、日本には、八百万の神と言われるほど、多くの神々があり、また、死んでしまった先祖を「仏様」と祭り上げて拝む誤りを犯しています。
 そして、神様以上に大切なものが、私たちの偶像になります。財産や地位や名誉、もし、神様以上にそれらのものを大切にするなら、それらが私たちの偶像です。
 そして、一番大きな偶像が、自我です。神様はこう言われても、わたしはこう思う、わたしの人生はわたしが決めると、神様の御言葉や御心よりも、自分の思いを優先するならば、それは、自分が偶像になっているのです。

 しかし、モーセの十戒の2番目の教えで神様はこう命じられています。出エジプト20:4 「あなたはいかなる像も造ってはならない。」
  偶像を拝むことを悔い改め、自我を砕いていただいて、ただ、生きておられ、永遠から永遠まで支配しておられる神様だけを礼拝しましょう。そうするなら神様は、必ず私たちを祝福してくださいます。
 その祝福が、出エジプト20:5~6に書かれています。
「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
 しかし、私たちは、今も生きておられる、まことの神様を礼拝し、祈りましょう。そうするならば、神様は私たちを祝福してくださいます。そして、それは、私たちだけにとどまることなく、私たちの子どもや孫、そして、その祝福は幾千代に及ぶのです。

(3)主の名をみだりに唱えてはならない
7節「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」
  神様の名前は、聖なるものであるからです。
 イスラエル人にとって、名前は、非常に大切なものでした。両親は自分の子どもの名前を選ぶ時、大変神経を使いました。私たちも自分の子どもの名前をつけた時、その子が幸せな生涯を送ることができるようにと、心を込めて名前をつけたのではないでしょうか。その大切な名前をいい加減に使われるなら、誰でも怒るのが当たり前です。
 増して神様の名前です。神様は御自身の名前をみだりに唱えてはならないのです。
 また、昔のイスラエル人は、誓いを立てる時、よく神の名によって誓いました。そして、神の名によって立てられた誓いは、必ずそれを守ることが要求されました。ですから、神の名を用いて、偽りの誓いをすることは、決して赦されなかったのです。
 しかし、時が経つにつれて、イスラエルの民は、神様の名前を軽んじて使うようになり、いい加減な誓いをするようになりました。御名をみだりに唱えるものには、神様のさばきが伴います。人々が安易に誓いをするようになったので、キリストは、神の名によって誓うことを禁じられたのです。
マタイ5:33~34(P8)
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」

  しかし、主の祈りの一番最初は、「天にまします我らの父よ。願わくは、御名を崇めさせたまえ。」と祈ります。なぜ、わたしたちは主の名を呼ぶことができるのでしょうか。しかも、「我らの父よ」と親しく語りかけることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の贖いによるものです。
 私たちには、聖なる神様の名を呼ぶような、聖い心はありません。しかし、私たちの罪のために、神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかって下さったのです。そのお陰で、私たちは、神の御名を呼ぶことができるようになったのです。 
  その恵みを覚えて、神様に喜ばれる歩みをし、良い証しの生活をするならば、主の御名が崇められるのです。
 その逆に罪を犯すならば、神の御名は汚されてしまいます。ですから、私たちクリスチャンの責任は重大です。神様の御言葉に従い生活をする事によって、人々の間で、主の御名が崇められるように、共に祈りましょう。

(4)安息日を聖別する
8~11節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
  神様は、安息日を心に留めて、聖別することを命じられています。
 一週間の内、六日間ですべての仕事をして、七日目は主の安息日なので、誰もどんな仕事もしてはならないこと。それは、神様が6日間で天地を造られて、7日目に休まれて、祝福されて聖別されたからだと、その理由が語られています。
 そして、旧約聖書の中に出エジプト20章の他に、もう一つ、十戒が記されている箇所があります。それは、申命記5章です。
 その申命記5:15(P289)には、安息日を守るべきもう一つの理由が書かれています。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
 ここで言われている、安息日を守る理由は、神様がエジプトの奴隷の状態から、救いだしてくださった、そのめぐみの業を覚える日、つまり、神様の救いの業を覚える日だからです。
 聖書の原則は、安息日は、神様を礼拝し、神様の創造の業を覚え、また私たちが救われた恵みを覚える日です。これを守るなら、神様は豊かな祝福を与えて下さるというのが、神様の約束です。そして、何よりも神様を愛する心が必要です。

 下関の教会に、長い信仰生活を守ってきた老人がいました。
 そのおじいさんは、耳がとおくなり、ほとんど話を聞き取ることが出来ないほどになっていました。それでも、日曜日になると、一度も休むことなく、いつも礼拝堂の一番前に腰掛けていました。
 そして、その日のテキストである聖書の箇所を何度も読み、週報にあるその日の説教の梗概を何度も読んでいたそうです。
 ある人が、このおじいさんにこう聞きました。
「おじいさん、どうして説教が全く聞こえないのに礼拝に出席するのですか。聞こえないのに意味がないじゃないですか。」
 すると、おじいさんはニッコリ笑って、こう答えたそうです。
「礼拝は、神様を拝むことです。もちろんこの耳が聞こえれば、そんなに嬉しいことはありません。しかし、たとえ、説教が聞こえなくても、礼拝に出席することによって、神様の恵みは豊かにわたしの上に、そして、わたしの家庭にも注いで下さるのです。」
  このような神様を愛し、霊と真理をもってささげる礼拝、神様は、喜んで必ず祝福してくださるのです。

最後に、マタイ22:36~38(P44)をもう一度ご覧下さい。
「37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。」
  今日は、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛』  するために、4つの事を学びました。(1)3節 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(2)4節「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(3)7節「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」(4)8節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
 これらの戒めを、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛し、神様を愛する愛の故に、この戒めを喜んで守らせていただきましょう。


WE LOVE YAMAGATA
WE LOVE YAMAGATA

Illustration by c-awase