9/11 主日礼拝

「目には目、歯には歯」出エジプト21:18~36

  出エジプト記12章37節に、出エジプトをしたのは、「壮年男子だけでおよそ60万人だった。」と書かれています。ということは、女性を入れると120万人、子どもたちを入れると200万人近くのイスラエルの民が、出エジプトをして、このシナイ山のふもとに滞在していたことになります。
 それだけ多くの人たちが、秩序を保って生活をするためには、どうしてもお互いに決めごとが必要でした。それも、一人一人が自分の都合の良い規則を言い始めたら大変なことになってしまいますし、おそらく、収拾のつかないことになってしまったことでしょう。
 その事を神様はご存じでした。そこで、20章では、シナイ山でモーセを通してイスラエルの民に、十戒を与えられました。また、それだけでなく、21章以下では、生活に必要な律法を事細かく定められたのです。

 前回は、奴隷と死刑に関する定めについて学びましたが、今日は、出エジプト記21:18~36を読んでいただきましたが、この聖書の箇所には、死刑には至らないいくつかの犯罪について書かれています。

 中心の御言葉は、24,25節です。
 「目には目、歯には歯、手には手、足には足、25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
 今日の聖書の箇所を、人間に関する掟と、家畜に関する掟の2つに分けることが出来ます。

(1)人間に関する掟
  法律の重要な原則は、平等に裁かれること、特に弱者に配慮がなされなければなりません。このイスラエルに与えられた律法は、今から3000年も前に定められた法律であるにもかかわらず、その点でも優れた法律で、すべての国の法律の基礎となっていきます。それでは、一つ一つ見ていきましょう。

①けんかによる障害(18~19)
「人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、19 もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。」
  人々けんかをして、石やこぶしで殴った場合、相手が死なないで、床に伏したとしても、もし、回復して、杖をついて外を歩き回ることが出来るようになれば、罰を免れる事が出来ます。しかし、その完全な治療のための費用を払うことは、勿論ですが、相手が休んだ損害賠償の分も払わなければなりませんでした。

②妊婦に対する障害(22,25)
 「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。」
  けんかをしていて、妊婦が流産した場合は、子どもが死ねば、加害者には死刑を命じられます。そして、赤ちゃんの命に別状がなかったとしても、裁判を通して女の夫の要求する金額を支払わなければなりませんでした。

③殺傷自己を起こした場合(23~25)
「もし、その他の損傷があるならば、命には命、24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
 「目には目、歯には歯、手には手、足には足」というこの箇所を読むと、相手への復讐を促しているかのように思いがちですが、決してそうではありません。
  人間というのは、自分が被害に遭った時、その被害を冷静に受け止めることは非常に難しいものです。普通なら、自分が被害を受けた時、二倍にも、三倍にもして復讐をしたくなるのではないでしょうか。子どものけんかも、大人の争いも、国家間の戦争も、このようにしてだんだんエスカレートしていきます。
 そのような、人間の愚かさをご存じの神様は、律法を通して、自分が受けた傷以上の傷を相手に負わせてはいけないと命じているのです。それが、「目には目、歯には歯」という意味です。
 これは、律法の上では、非常に優れた律法です。
 しかし、聖書が最も求めていることは、復讐することよりも、むしろ相手に善をもって答えることです。
レビ記19:18(P192)
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

  その事を、イエス様は、マタイ5:38~42(P8)で、律法の足りないところを福音によって補っておられます。
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

38節
 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
  私たちも、このイエス様を心の中にお迎えし、イエス様の愛に満たされて、愛によって律法を全うさせていただく者とさせていただきましょう。

 サムエル記24章に、サウロがダビデを殺そうとして捜し回る事が書かれています。イスラエルの王サウルは、ダビデをねたんでダビデを殺そうとして、ダビデを捜し回りました。ところが、ある日サウルが疲れ果てて、洞窟に入って寝ると、その洞窟の奥に、ダビデが身を隠していたのです。
 自分を殺そうとしているサウルが、目の前で寝ているのです。サウルを殺す絶好のチャンスです。
 しかし、ダビデは、この時サウルが神様から油注がれた王であることを知っていました。そこで、ダビデは、悪をもって悪に報いず、善をもって善に報いたのです。ダビデは、そっと、サウルの近くにより、サウルの着物の袖を切り取りました。
 ダビデは後で、サウルがこの洞窟を出た後から、ついていって、その訳を話すと、サウルは非常に感動して、声をあげて泣きました。
 その時に、ダビデはこう言ったのです。サムエル記上24:17~20(P469)
「ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、18 ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。19 お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。20 自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。」
  ダビデは、この時、悪意をもって悪に報いず、善意をもって悪に報いて祝福を受けました。

 マタイ5:40でイエス様はこうおっしゃっています。
「40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」

 9月の末に、日本伝道会議が、神戸で行われます。その中のオプションの一つに、賀川豊彦の生家を訪ねるツアーがあって、それを選択して行けるのを楽しみにしています。
 賀川豊彦は、貧しい人に仕え、貧しい人と共に生きた人として有名な人です。
 賀川豊彦は、神学校在学中の明治42年に、神戸市新川の貧民街の二畳の小屋に移り住んで、伝道を開始しました。
 さっそくやってきたのは、伝染病の皮膚病に犯された男で、一夜の宿を求めました。
 その日、賀川豊彦は、我慢をしてこの皮膚病の人と一緒に一組の布団にくるまって寝ました。
 次の日に、裸同然の物乞いがやってきたので、彼は自分のシャツを脱いでやりました。
 すると、その次の日に、また、この男があらわれて、今度はズボンと上着をくれというのです。仕方なく、賀川先生は、求められるままに与えたので、ボロボロのシャツとズボン下一枚になってしまったのです。
 賀川先生は、相当の覚悟をして貧民街に入り込んだのですが、さすがの彼も、とうとう逃げ出したくなってしまいました。
 周りの人たちも「あいつは、きっと逃げ出すぞ。」と冷たい目で見ていました。
 ところが、賀川先生は、そこにとどまり続けたのです。それは、イエス・キリストの十字架の故でした。「イエス様は、私のような罪人のために命を捨ててくださった。」
そのイエス・キリストの十字架を見あげたのです。賀川先生は、その十字架の愛によって、その貧民街にとどまり続けることが出来たのです。
 やがて、近所の人たちは、まだ若かった彼を尊敬するようになりました。そして、何かと彼に相談をするようになって、教会に集う人たちが起こされたのです。
 賀川豊彦自身が、日記にこのように書いています。
「神は最もいやしい人たちの間に住まわれる。神は、刑務所の囚人の部屋に積もるちりの上に座られる。神は非行少年とともに立ち、乞食とともにおられる。神は、病人の間に住み、失業者ともに立っておられる。神に会おうとするものは、神殿に行く前に刑務所を訪れるがよい。教会に行く前に病人を見舞うがよい。聖書を読む前に物乞いを助けるがよい。」と。

 そして、私たちの救いのために、このことを完全に成し遂げて下さったお方が、神の子であられるイエス・キリストです。イエス様は、自分を十字架につけた、ファリサイ人や律法学者、実際に自分を十字架に釘付けた兵隊を前に、とりなしの祈りをされたのです。
 それだけではありません。罪を犯し、滅びに向かっている、全人類のために十字架で命を捨ててくださったのです。
 その十字架の愛によって今、私たちは生かされているのです。その事を覚えて、私たちも、「目には目、歯には歯」という生き方から、右の頬を打たれたら、左の頬を出し、下着を取られたら上着をも与え、一マイル行くように言われたら、一緒に二マイル行くように、悪意に対して善をもって答えていく愛の人として歩ませていただきましょう。

(2)家畜に対する障害(33~36節)
33~36節には、家畜に対する律法が書かれています。
まず、33~34には、井戸に他人の牛が落ちた場合の定めが書かれています。
「人が水溜めをあけたままにしておくか、水溜めを掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、34 その水溜めの所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。」
  家畜も、被害に遭うことがあります。例えば人が、井戸のふたを開けたままにしていたために、牛やろばが落ちてしまったりすることです。その時には、井戸の持ち主は、家畜の持ち主に、お金を払うことによって償わなければなりません。ただし、その際に死んだ家畜は、井戸の持ち主のものとなりました。

 次に、35~36には、牛が牛を殺した場合の定めが記されています。
「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。36 しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。」
 ある人の牛が、他人の牛を突いて殺した場合は、生きている牛を牛を売って、その代金を両者で分けて、また、死んだ牛も分けられました。

 ここで、神様の関心が、家畜までに及んでいることに神様の愛を感じます。

 詩編36:7にこうあります。
「恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」

  イエス様は、マタイ10:29で
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とおっしゃっておられます。
 1アサリオンというのは、1デナリオンの16分の1で、当時の一番小さな単位のお金でした。マタイは、雀2羽は一アサリオンで売られていますが、神様の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはないと書いています。
ところが、ルカによる福音書12:6には、
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」
と書かれています。2羽1アサリオンです。ということは、2アサリオンでは、何羽買えますか。4羽です。それなのにここには5羽と書かれています。ということは、1羽はおまけです。
 このように、神様は、人間の目には何に価値もない、ただのおまけのような者をも顧みられるというのです。このおまけの雀も、神様にあっては大切なものなのです。
 神様は、一羽の雀をも目を留められ、養い、愛しておられるのです。私たちは、あの雀よりはるかにまさっています。神様がある一羽の雀にさえ目を留めてくださるイエス様は、私たちを顧みてくださらないはずはありません。

 神様の愛は、獣や雀、牛やロバにまで及んでいるのです。

 アメリカの第十六代大統領エイブラハム・リンカーンが、まだ若い頃、スプリングフィールドから馬に乗って隣りの町に行く途中、一匹の豚が、泥沼に落ちて悲鳴をあげていました。
 周りの人達は、その豚を見て、おもしろがっていましたが、リンカーンは、とても見ていられないといって、「馬車を止めてください。」と頼んで、自分がその泥沼に入っていって、そのあわれな豚を救ってやったのです。
 この時、アブラハム・リンカーンは、公務のため、新しい服を着て、急いでいました。ところが、泥沼に溺れている豚を見ると忍びなく、着ていた新しい服は汚れ、公務の時間には遅れてしまいましたが、この子豚を救い出したのです。
 このリンカーンの一頭に対する忍びない心が、やがて、二百万人の黒人が奴隷であるのを憐れに思い、これを救うために命を投げ打ったのではないでしょうか。私たちの愛も、そのような豊かなものでありたいと思わされます。

 イエス様も、このリンカーンと同じようなことをしてくださいました。私たちは、罪を犯し、永遠の滅びに向かっています。しかし、そのような私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださるために、罪に汚れたこの世に来てくださったのです。そればかりか、私たちの罪の身代わりに、十字架で命を捨てて、私たちを救ってくださったのです。
24,25節を一緒に読みましょう。
 「目には目、歯には歯、手には手、足には足、25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
  神様は、イスラエルの民を愛されて、秩序正しい生活をするために、律法を与えられました。そして、さらに進んで、十字架の愛によって互いに愛し合うことを示されたのです。
 この神様の愛に満たされて、神様を愛する愛、人を愛する愛をもって、主の御言葉に従っていきましょう。

 イエス様が、出エジプト21:24~25章を引用されて語られた、マタイ5:38~42をもう一度読んでお祈りをしましょう。
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

  律法を守ることは、大切なことです。しかし、その律法の中で一番大切な教えは、神様を愛し、人を愛する事です。イエス様の愛に満たしていただいて、愛に生きる者とさせていただきましょう。

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

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毎週日曜日 16:30〜

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フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

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毎週土曜日   8:45〜

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毎週木曜日 16:00~

 

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毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Illustration by c-awase