9/18 主日礼拝

「財産に関する律法」出エジプト記21:37~22:1~16

21章から、財産に関する律法が書かれています。今日は、その続きです。
 今日の中心の御言葉は、21:37です。
「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」

  21:37~17には、財産に関する律法が書かれています、そして22:18~20に死罪に当たる3つの罪が、更に21~27には弱い人たちを守る教えが書かれています。

 今朝は、最初の財産に関する律法から、3つのことを学びたいと思います。。

(1)家畜に関する罪(心からの悔い改め)
 今日の中心の御言葉は、21:37です。
「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」
  当時、家畜は大切な財産でした。特に牛は、畑を耕したり、物を運んだりするために用いられました。そこで、そのように牛が盗まれた場合は、他の牛を前のように飼い慣らすことは大変なことでした。
 ですから、そのような家畜を盗まれた場合、大きな償いをしなければならなかったのです。

 4節には、その家畜が生きている場合は、2倍にして償うことが命じられています。

 また5節には、自分の家畜が、他人の畑の物を食い荒らした場合は、自分の畑とぶどう畑の最良の物で、償わなければならないことかが、命じられています。

 そして、6節では、火災によって、他人の農作物を焼いてしまった場合にも、償いをしなければならないことが命じられています。

 しかし、これを屠って、殺して売ったとしたら、牛一頭の代償として牛五頭、羊一頭の台上として羊4匹で償わなければなりませんでした。
  そのように、人の財産を盗んだ場合、大きな償いが強いられたのです。
詩編の作者は、詩編37:5でこううたっています。
「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。」
  罪を犯した結果、「その罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています。」詩編の作者にとって、神様と人との前に罪を犯すことが、どんなに耐え難い重荷であるかを、このようにうたっているのです。
 そのような、負いきれないような重荷を担っている、すべての人たちに対して、イエス様はこう招いておられます。
マタイ11;28
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
  神の子であられるイエス様は、私たちのすべての罪や重荷を負って、十字架にかかって下さいました。私たちは、ただ、キリストの十字架を仰いで、これらの罪を赦しを求めるほか、この罪の重荷から、救われる道は無いのです。

  しかし、それと同時に、私たちは、自分がこれまで迷惑をかけてきた人たちに、力の及ぶ限り、これを償わなければなりません。いちぢく鍬の上にいた取税人のザアカイに、「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。」とイエス様に声をかけられた時、ザアカイは、自分の家に迎え入れ、その教えを聞いて、新しい生活を始めた時、イエス様に向かってこう言いました。
ルカ19:8
「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
  まず、財産の半分を貧しい人々に施しますと言いました。そして、次に「だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言っています。ザアカイは、ローマの手下として、税金を不正に集めて私腹を増やしていましたから、おそらく、だまし取ったお金を四倍にして返したら、自分の財産は全部無くなってしまったに違いありません。
 しかし、これが、本当の悔い改めです。すべての物を失ったとしても、イエス・キリストによって、罪が赦され、すべての重荷から解放されることほど、素晴らしい事は無いのです。

  1990年代、ウガンダは危機的な状況にありました。北部では、原因不明で治療法の無いエボラ・ウィルスが猛威をふるっていました。致死率は、50%以上で多くの命が奪われました。
 また、北部のアチェリでは、カルト的な反政府組織が子どもを誘惑して、虐待したり、ゲリラ隊として訓練して、むごたらしい行為が繰り返されていました。ウガンダの国は危機的な状況でした。
 教会が、力を失っていた時に、一人の年老いた女性が「あなたの神は生きているのか。」と牧師に問いかけたのです。その牧師は、その時から命をかけて祈り始めました。すると、神様が、「悔い改めて、悪い道から立ち返るなら、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やそう。」と語られたのです。
 そこでかみさまの憐れみを求める祈りと、悔い改めのムーブメントが家庭に、学校に、地域に広まっていったのです。子どもたちも神様を心から賛美し、国々のためにとりなしの祈りて祈るほどに、聖霊の息吹が吹き始めたのです。
 ついに、その波は大統領や政府までもとらえました。2000年を目前にした大集会で、大統領は、ウガンダの伝統的な偶像礼拝を行ってきたことを悔い改め、大統領自身が、神様を心から信じて、ウガンダという国を神様の目的のためにささげる宣言をしたのです。
 その後、反政府組織を長年鎮圧できなかった政府がついに、教会に力と助言を求めました。政府の役人や軍部は、この国の長い偶像礼拝の歴史を悔い改めて、クリスチャンのチームによる、霊的な力に依り頼みました。
 その結果、反政府組織の力は弱まって、誘惑された子どもたちも帰ってきました。そして、エボラ・ウィルスや、伝染病の発症率も低下していったのです。

 本当の悔い改めが、人を造り変え、社会を変えていったのです。
  旧約時代のイスラエルの民が、家畜を盗んだ時、2倍、4倍、5倍の償いをしたように、私たちも、心から罪を悔い改めて、聖い道を歩ませていただきましょう。

(2)預けられた物の償い(心からの謙り)
 人から、預けられた物や金銭が無住まれた場合は、どうなるのでしょうか。
6節には、盗人が見つかった場合は、盗人は二倍にして償うように命じられています。「人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばならない。」

  しかし、もし盗人が見つからなかった場合は、預かった人が当然疑われてしまいます。その時には、預けられた人は、裁き人の前に出て、自分が盗まなかったことをはっきりと誓わなければなりませんでした。すなわち、神の名によって、無実であること厳粛に誓いをしたのです。
7節
「もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。」

  他人に預けておいた家畜が損害を受け、しかも目撃者がいない場合、預かった人は主の前に無実を誓いをして、その誓いを預けた人が認めた場合は、償いの必要はありませんでした。
10節
「自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかった、と両者の間で主に誓いがなされねばならない。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はない。」

  このように、7節~15節には、人から預かった家畜や金銭のことについての定めが、その他にも事細かく、書かれています。

  そのことを、黙想しながら、私たちの現在所有している物は、誰から預けられた物でしょうか。よく、赤ちゃんは神様からの授かり物だという言い方をしますが、赤ちゃんだけで無く。私たちの命も、財産も、家族も、才能も、その他すべてをあげて、実はすべてが神様からの授かり物なのです。
 使徒パウロはⅠコリント4:2で、こう言っています。
「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」
  私たちが、所有しているすべてのものは、残らず神様から預けられたものです。神様は、私たちを信頼して、委ねて下さったのです。ですから、私たちは、委ねられた物を自分の所有物のように思わずに、ただ、委ねて下さった神様のためにそれを用いなければなりません。
 その僕にとって大切な事が、Ⅰコリント4:1~2に書かれています。
「 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」
  私たちのすべては、神様から委ねられたものです。ですから、私たちのすべてのものを、自分の所有物のように用いるのではなく、私たちの主、神様のために用いていただきましょう。
 神様が、私たちを愛して、その命をもって救ってくださり、私たちを神の神殿として宿っていてくださるのです。その素晴らしい恵みを覚えながら、どこまでもへりくだって、主の器として用いていただきましょう。

 今、アメリカでは、大統領選挙の話題で持ちきりです。
 アメリカのジミー・カーター大統領は、若い頃、ジョージア州で、仕事に成功しても、教会で奉仕をすることを怠りませんでした。特に彼のライフワークになっていたのが、ある地域を訪問伝道することでした。前もって約束をして、家を訪問し、福音を語って、教会へ誘いました。
 忙しい仕事の中でも、伝道を欠かさず、10年を振り返ってもみると、全部で150件も訪問して、多くの人を教会に導いていました。ジミー・カーターはこのことを誇りに思い、神様の御前に胸を張れる働きだとえと思っていました。
 それから間もなく、ジミー・カーターは、州知事に立候補することになりました。生活は一変し、毎日選挙活動に忙しく走り回りました。精力的に働いたお陰で、彼は見事に当選しました。
 歓喜に包まれた時、ジミー・カーターはふと考えたのです。「わたしは、10年間、150件の家を訪問したと、誇っていた。しかし、自分を売り出すためにはたった数ヶ月で、何十万、何百万という人と握手をして、アピールをしたじゃないか。」彼は、自分が恥ずかしくなりました。
 そんな時、神様の語りかけを聞いたのです。「それでもいいから、あなたの出来る限り、証しをしなさい。」
 へりくだらされたジミー・カーターは、その後、大統領になりますが、常にへりくだって、神様を第一とした制作を掲げ、弱い人を助ける憐れみ深い大統領として仕えるようになったのです。

  私たちの心も体も、すべてが、神様から与えられたものです。私たちの五体を通して、神様の栄光を現させていただきましょう。
パウロは、ローマ17~19でこう言っています。
「 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」
 私たちは、かつては、罪の奴隷でしたが、今は、イエス・キリストの十字架によって、罪から解放されて、義に仕える僕となりました。私たちのすべてを神様にお献げして、心からへりくだって、神様にお仕えさせていただきましょう。
 私たちの、命も体も賜物も、すべて神様か私たちに委ねてくださったものです。その恵みを覚えて、主に栄光を帰す生活をさせていただきたいと思います。

(3)処女に関する定め(聖霊の満たし)
15~16節
「15 人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。16 もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない。」
  結婚前の娘は、ある意味で父親の所有物であると考えられていました。ですから、結婚していない処女を誘惑して、彼女と寝た場合には、必ず花嫁料銀50シェケルを支払って、彼女と結婚をしなければなりませんでした。(申命記22:29)
「共に寝た男はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない。」
  今日、結婚の制度を無視して、婚前交渉を当然のように考えている若者たちが、増えていますが、そのような時代だからこそ、この聖書の教えに従うべきではないでしょうか。
  結婚の制度を軽んじる人々は、必ず神の裁きがあるからです。
 ヘブライ13:4
「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」

  結婚式の誓約の最後に、命の限り、節操を守ることを誓いますか?という質問があります。節操を守るという言葉は、性において清くあることです。
「いのちのかぎり、この男性だけを、この女性だけを愛します。」という約束です。それは、幸せな夫婦として歩むために一番大切な約束です。

 若者にとって、性というのは、大きな誘惑です。しかし、その具体的なことにおいて、清くあることが、神様の前に清くあることに通じていくのです。
 一度失敗したからといって諦めないでください。イエス様は、十字架の血潮によって赦し、清めてくださいます。今、置かれているところから、清い生活を始めてください。

マタイ25:1~ 花婿を迎える10人の乙女のたとえが書かれています。
10人の乙女が、花婿の到着を待っていました。愚かな乙女は、ともし火は持っていましたが、油を持っていなかったのです。5人の乙女は賢い乙女で、壺に油を用意していました。
 花婿の到着が遅れて、ともし火が消えそうになりました。愚かな乙女は、賢いおとめに油をくださいとお願いしましたが、賢い乙女は、あなたがたに分けてあげる油はありませんと断られてしまいます。そこで、愚かな乙女が、お店に油を買いに行っている時に「花婿の到着だ」という声が聞こえたのです。
 後で、愚かな乙女が帰ってきますが、その時には、扉が閉められて、中に入ることが出来なかったのです。
 油とは、聖霊です。私たちの心がいつも聖霊に満たされていなければ、再臨の主が来られた時に、イエス様をお迎えすることが出来ないのです。賢い乙女が、いつも油を絶やさなかったように、私たちも聖霊にいつも満たされて、再臨の主をお迎えする備えをさせていただきましょう。

マタイ25:13
「13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
  これは、再臨の主のたとえです。再臨の主がいつ来られるのか、その日、その時は、私たちには分かりません。どうでしょうか。解決されていない罪が無いでしょうか。もし、今日その罪が示されるならば、今日、その罪を悔い改めて、清めていただきましょう。
、いつ主が来られて良いように、、花婿であるイエス様をお迎えする準備をさせていただきましょう。

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日   8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日 10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日 16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日   8:45〜

                       9:35〜

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
WE LOVE YAMAGATA

Illustration by c-awase