今日のメッセージを、金曜日にしましたが、ほとんど準備が終わったと思った時に、バッテリーの電源が切れて、原稿が全部消えてしまいました。その時のショックは大きくて、頭が真っ白になってしまいました。
けれども、次の日、神様は何を語りたいのだろうかと考えました。そして、聖書をもう一度読み直しました。その時に、最初は、「あなたたちと結ばれた契約の血」という題で8節の御言葉を中心に御言葉を取り次ぐつもりでしたが、この聖書の中で、モーセの祈りの大切さを教えられたのです。そこで、今日のメッセージは、「契約の締結とモーセの祈り」としました。
今日の中心の御言葉は、18節です。
「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」
聖書の中では、大切な事が行われる時、必ず祈りがささげげられています。
今日は、出エジプト24章を読んでいただきましたが、この箇所は、非常に大切なところです。なぜならば、ここで、神様とイスラエルの民との契約が結ばれるところだからです。この非常な大切な時に、モーセは真剣な祈りをささげています。
今日は、その契約の締結とモーセの祈りの姿から、主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)モーセの祈り
1~2節
「主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
モーセは、主が命じられた通り、アロンとナダブ、アビブおよびイスラエルの70人の長老と一緒に、シナイ山に行きましたが、彼らをシナイ山のふもとに残して、モーセだけが、主のもとに登りました。
このモーセの祈りは、イエス様のゲッセマネの祈りを思い出させます。イエス様は11人の弟子たちを、連れてゲッセマネの園に行かれましたが、その内8人を入り口にとどめて、ペトロとヨハネとヤコブだけを連れて行きますが、しばらく行くと、また、彼ら3人もそこにとどめて、イエス様はさらに石が届くくらいの所まで進んで、一人でひざまずいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 (マルコ14:36)と祈られました。
みなさんは、神様と一対一で真剣に祈ったことがあるでしょうか。ヤコブは、ヤボクの渡しで、神の使いと夜明けまで格闘しました。創世記32:23~33にその事が書かれています。天の使いが、 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」 と言うと、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と答えます。そして、ついにもものつがいが外されてしまうのですが、その時に、ヤコブは、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」と言われたのです。もものつがいが外されてしまうと自分の力では戦うことが出来ません。自分の力で戦うのでは無く、神様にすべてを委ねた時、ヤコブ「おしのける者」からイスラエル「神の勝利」という名前に変えられたのです。
神様は、一対一で祈る真剣な祈りに答えてくださるお方です。
特に、人生の大切な選択をする時、例えば、進路を選択する時、結婚や就職など大切な人生の岐路に立たされた時。また、特別な神様からの恵みを求めている時、例えは、救いの恵みや聖潔の恵み、また献身の導きを感じているなら、ぜひ、神様と一対一で真剣な祈りをささげてください。神様は、必ずその祈りに答えて下さいます。
そして、神様から御言葉をいただいてください。その御言葉が、これからの大切な力になっていくのです。
(2)神様とイスラエルの民の契約(3~8節)
モーセは、シナイ山から戻ってくると、イスラエルの民に、主のすべての言葉と法とを読み聞かせました。すると、それを聞いたイスラエルの民は、3節で、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と声を一つにして答えたことが書かれています。
モーセは主の言葉をすべて書き記して、朝早く起きて、5つのことを行いました。
①祭壇を築いた
4節「モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。」
祭壇は、神様の臨在の象徴です。そして、12部族が主の戒めに従う証拠として、12の石の柱を建てたのです。
私たちも、神様に心からの礼拝をおささげしましょう。
②焼き尽くす献げ物と、若いの献げ物をささげた。
5節「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。」
焼き尽くす献げ物は、罪の悔い改めを表します。イスラエルの民の罪を心から悔い改めて、神様との和解を回復したのです。
私たちも、神様と私たちとの間に、解決されていない罪があるならば、その罪を悔い改めて、新聖歌に「我と主の間に隔てはなし」とあるように、主との豊かな交わりを回復させていただきましょう。
③ モーセは、血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた
6節「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、」
これは、契約するお互いが、一つであることを意味します。
④契約の書を読み聞かせた
7節「契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、」
モーセが、契約の書を取り、民に読んで聞かせると、イスラエルの民は、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言いました。イスラエルの民は、モーセによって読まれた契約の書に同意したのです。
⑤最後に、血の半分を取って、民に振りかけた
8節「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
3番目の所で、主の祭壇に血を振りかけた事が書かれ、5番目に、鉢の中に取っておいた半分の血が、イスラエルの民に振りかけられたことが書かれています。それは、神様と、イスラエルの民が血によって一つにされたことを現しています。
イスラエルの民は、神様に対する従順を約束し、神様はイスラエルの民に対して祝福を約束されたのです。
このようにして、神様とイスラエルの民の間に、記念すべき古い契約(旧約)が結ばれたのです。
「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」とイスラエルの民が3節と8節で2回告白しています。これは、心からの告白でした。しかし、間もなく、イスラエルの民は、その心からの神様との契約を破ってしまいます。
人は、律法を欠けなく行うことによって、義とされることは出来ません。ただ、神様の一方的な恵みによって、罪を赦され、義とされるのです。
そのことが、モーセが、いけにえの血を、半分を祭壇に注ぎ、半分をイスラエルの民に振りかけたことに現されています。
これは、神の子であられる、イエス・キリストの十字架に現されています。イエス様は、神様と私たちとをとりなすために、十字架で尊い血潮を流して下さいました。その十字架の血潮によって、私たちの罪は赦され、聖められるのです。
御子イエスの血は、牛や羊の血とは違います。イエス・キリストの十字架を信じて救われる者には、新しい命が与えられ、御子イエスの血が、あらゆる罪から聖めてくださるのです。
Ⅰヨハネ1:7(441)
「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
私たちは、自分でどんなに頑張っても、聖くなることはできません。しかし、イエス様の十字架の血潮は完全です。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」その御子イエスの血潮によって、聖めていただきましょう。
(3)教えと戒めを記した石の板とモーセの祈り
12~13a節
「主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。」
神様は、イスラエルの民を教えるために、十戒を石の板に刻んで授けようとされました。神様自らが刻んだ、戒めがどんなに尊いものであったかは、言うまでもありません。
しかし、それにまさって、大事なものがあります。それは、人の心に刻まれた神様の戒めです。私たちは、その身が生きた御言葉となることを神様は望んでおられるのです。
使徒パウロは、コリントの信徒達に向かって、こう言っています。
Ⅱコリント3:3(P328)
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」
パウロは、コリントの信徒たちの事を、キリストの手紙であると言っています。そして、それは、墨で書かれた手紙で無く、生ける神の霊によって書かれた手紙、石の板では無く心の板に書かれた手紙ですと言っています。このような、クリスチャンになることができたらどんなに素晴らしい事でしょう。
良く頭の良い人を、ウォーキングディクショナリーなどと言ったりしますが、ウォーキングバイブル、頭だけで、聖書の御言葉を知っているのでは無く、聖書の御言葉を聖霊によって刻まれ、キリストの手紙として用いられるお互いでありたいと思います。
それでは、どうすれば、そのような器になることが出来るのでしょうか。
それは、祈りによる以外ありません。
15~17節
「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。」
モーセは、アロンにイスラエルの民を託して、神の山シナイ山に登りました。
そのシナイ山で、モーセは何をしていたのでしょうか。16節の前半に、「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。」と書かれています。そして、後半に、「七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」と書かれています。モーセは、6日間何をしていたのでしょうか。モーセは神様の臨在の中で、神様の啓示を心から待ち望んで祈っていたに違いありません。そして、7日目に神様の特別な啓示を受けたのです。
ペンテコステの時もそうでした。10日の間、使徒達は、神様が約束した聖霊を待ち望んで、心を合わせて熱心に祈りをささげていました。その祈りに神様は答えて、弟子たちに聖霊が注がれて、めざましい聖霊のみ業が行われたのです。
神様は、しばしば、著しい恵みを私たちに与えられる前に、わざとしばらくの間、待ち望むように導かれることがあります。
その間に、神様は私たちを恵みを受けるにふさわしい者へと整えて下さるのです。その間に、私たちは神様に背いていた罪を知らされ、深い悔い改めに導かれ、自己中心から神中心の者へと造り変えられます。そして、すべてを神様に委ね、確かな献身へと導き、更に大いなる恵みを受けるにふさわしい者に整えられてから、素晴らしい恵みを与えられるのです。
ですから、モーセが6日間神様の臨在の中でその啓示を待ち望んだように、また、弟子たちが聖霊を待ち望んで10日間、「心を合わせて熱心に」祈り求めたように、私たちも、「心を合わせて熱心に」祈り求めましょう。神様は、その熱心な祈りに必ず答えて、私たちの考えや願いをはるかに超えた素晴らしい御業をなして下さるのです。
モーセは、主に呼びかけられた時、更に主の臨在の中を40日40夜、とどまり続けました。その事が18節に書かれています。
「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」
預言者エリヤは、40日40夜、神の山ホレブに登り、神にまみえたと(列王記上19:8)にあります。
また、イエス様も、公生涯の始めに、荒野に行き、40日40夜、断食されてサタンに勝利されたことが書かれています。
何も40日40夜に限ったことではありません。けれども時には、数週あるいは、数日でも、特に自らの成長のため、また人の救いのため、その他重大な課題のために神様に祈り、その導きと力をいただく事は大切なことではないでしょうか。
新会堂建設のために祈りましょう。
今、新会堂の設計が、かわかみ設計事務所で行われています。業者が決められ、予算が出され、予算調整が必要です。また、銀行の融資の手続きも行われています。また、すべての必要が満たされるように。祈りなしには進むことが出来ません。
そして、ぜひ、内なる教会が与えられるように祈ってください。天に召された内越言平先生は、新会堂が建てあげられるために必要なのなのは祈りだとおっしゃいました。
神様の御業がなされる時サタンの働きます。どんなに素晴らしい教会堂が与えられたとしても、教会か分裂してしまったら、神様がどんなに悲しまれることでしょうか。どんな素晴らしい会堂よりも、神様にとって一人一人の魂の方が大切なのです。
2005年5月15日に、内越言平先生が、山形南部教会で建築講演会で話してくださいました。その講演の一部をお読みします。
「新会堂建築のために、まず一番目に何をしたらいいか。祈る事ですね。これが何よりも第一番目。祈るという事です。これが今日の中心の御言葉になりますけど、第一ペテロの5章の6節から11節までになりますけども。特別にこの5章の8節を一緒に読みましょうか。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が吠えたける獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っています」
という事はサタンは会堂建設が大嫌いです。私が会堂建設のために祈り始めるとサタンは起きあがって徹夜して祈るんですね。というのは、会堂というのはイエス様を見える形で表しますから、サタンにとってはそれは一番嫌です。サタンも熱心に祈りますから、それに打ち勝つ祈りをしなくてはならないという事です。
サタンはどういう事をして会堂建設を妨げるかというと、まず私達に恐れを抱かせます。本当に出来るのかという恐れですね。
それからさまざまな障害を起こします。
三番目には内部的に分裂分派を起こします。この三つをサタンはねらっています。だから私達は祈らなければこの会堂建設はありえません。サタンは目に見えないけど生きて働くんですよ。ここに書いてあるように「食い尽くすべきものを捜し求めている」というように、私達は祈らなければならない。どう祈りますか。当然祈り会に来て祈らなければならないですね。それから連鎖祈祷という祈りも必要です。それから最後に断食祈祷をして祈る。このような事をしなければサタンに負けます。」
サタンの打ち勝つ力は祈りです。そして、祈る時に、私たちに謙遜、一致、愛が与えられ、主に喜ばれる「愛の教会120人教会」が建てあげられていくのです。
17~18節
「主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」
モーセがシナイ山で祈った時、主の栄光が、山の頂で燃える火のように見えたと書かれています。
私たちも、祈りによって、キリストの手紙にふさわしい者として輝かせていただきましよう。
そして、モーセが、40日40夜、シナイ山で神の臨在の中で過ごした祈りが、モーセとイスラエルの民に非常に大きな影響を与えたように、私たちも周りにもキリストの輝きをもたらように祈りをささげましょう。
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