みなさんおはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と主の御声を聞かせていただけることを感謝します。
今日、礼拝後、新会堂建築懇談会が行われます。新会堂で、芋煮を食べて、新会堂の説明と懇談の時を持ちたいと思いますので、みなさん御参加ください。
先週から、土曜日の午前中に青年を中心に、棚の解体作業が行われています。トヨタの部品の倉庫でしたので、たくさんの棚がありますが、それを、解体して再利用をしようと毎週作業が行われています。
棚の解体だけでは無く、既存の物も、そのまま使いますので、掃除をしなければなりません。青年会だけでは無く、壮年会や夫人会の方も、御協力をお願いします。
私も、昨日は、青年たちと作業をしましたが、新会堂を建てあげていくのは、本当に愛着が湧くものです。
そして、何よりも主が住まわれる、聖なる場所としてふさわしい会堂が建てあげられるようにお祈りをしていただきたいと思います。
今日読んでいただいた聖書の箇所には、モーセが神様に命じられて、幕屋を建設することが書かれています。
今日の中心の御言葉は、8節です。
「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」
25章~40章まで、「幕屋建設」についてのことが書かれています。
これまで、イスラエルの民は、野外で神様に礼拝をささげていました。しかし、これからは、特別に建てられた幕屋の中で、神様を礼拝するように命じられたのです。
今日は、幕屋建築の記事から、3つの事をお話ししたいと思います。
(1)幕屋建設のための献げ物
幕屋建設のために、モーセはイスラエルの民に、神様に献げ物をささげるように勧めました。
1~2節
「主はモーセに仰せになった。2 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。
幕屋といっても、膨大な金額が必要でした。特に、彼らは荒野を旅していましたから、その持ち物には限りがあります。そのような、イスラエルの民が献げ物をささげるということは、大変なことであったに違いありません。
しかし、神様はその動機を見られます。2節の後半に、「あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。」と命じられています。神様が求めておられるのは、強いられてささげる献げ物ではありません。進んで心からささげる献げ物を求めておられるのです。
それは、新約の時代でも同じです。イエス様は、ルカ21:1~4(P151)で貧しいやもめの献げ物の事を語っています。
「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
神様は、動機を見ておられます。たとえ、多くの献げ物を献げたとしても、それが、多くの財産の一部の中から残り物が献げられたのであれば、その献げ物は神様に喜ばれものではないでしょう。また、人に認めてもらうために多額の献金を献げたとしたらどうでしょう。人は、素晴らしいと認めてくれるでしょうが、それは、もうこの世で報いを受けていますから、神様の祝福に与る事は出来ないのではないでしょうか。 イエス様は、この時、レプトン銅貨二枚をささげた、貧しいやもめのささげものを御覧になって、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」とおっしゃいました。なぜでしょうか。それは、金持ちは有り余る中から献金をしましたが、彼女は、貧しい中から、持っている生活費を全部入れたからです。
イエス様は、この貧しいやもめが、ささげた献げ物が、どんなに尊く、素晴らしいものであるかをご存じでした。神様は、喜んで献げる献げ物を喜ばれるのです。
パウロはコリントの信徒に対してこう言っています。Ⅱコリント9:7(P335)
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」
今日は、新会堂建築懇談会が、新会堂で行われますが、これまで、本当にみなさんが、新会堂のために祈って下さり、心のこもった献金や融資、予約献金をしてくださったことを感謝します。また、その献金を神様がどれだけ喜んでおられることでしょうか。
私たちは、新会堂建設の趣意書を、150通近く、私たちの関係教会にお送りしました。それを読んでくださった多くの教会から、また、兄弟姉妹から、たくさんの献金をいただいています。先日、そのお礼の電話をしました。すると「とんでもありません。何だか自分のことのように嬉しくて、献げたくなりました。」とおっしゃっておられました。そのような献金に支えられ、祈られていることを心から感謝します。
イスラエルの民は、幕屋建設のために自分たちが持っているあらゆる物を、おのおの進んで心からささけました。その献げ物が3~7節に書かれています。
「彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、4 青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、5 赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、6 ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、7 エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。」
イスラエルの民は、これらの物を、おのおの進んで心から献げました。私たちも、おのおの進んで喜んで献げさせていただきましょう。なお、すべての必要が満たされるようにお祈りをお願いします。
(2)わたしは彼らの中に住む
8~9節
「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。9 わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。」
幕屋を建設する目的が、8節に書かれています。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」
神様が、幕屋を造られる目的は、神様のために聖なる所を造らせるためでした。イスラエルの民は、幕屋の中で、聖なる神様を礼拝し、聖なる神様との豊かな交わりが与えられたのです。
また、8節の後半に「わたしは彼らの中に住むであろう。」と書かれています。神様がイスラエルの民が造った幕屋の中に御臨在下さるのです。
このことが、一番大切なことです。いくら素晴らしい幕屋が出来たとしても、また、どんなに大きな幕屋であったとしても、そこに主が御臨在下さらなければ、それは空しいものになってしまいます。しかし、神様は、「わたしは彼らの中に住むであろう。」と約束しておられるのです。
この幕屋というのは、今の私たちにとって、3つの意味があります。
一番目は、私たち自身が神の宮であるということです。
Ⅱコリント6:16
「神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。」
二番目は、神様が、わたしたちの教会に宿ってくださるということです。
エフェソ2:21~22
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
そのために、一番大切なのは、私たち自身が、神の宮として心の王座に主をお迎えし、私たちの心と生活をもって証しをすることです。
パウロは、ガラテヤ2:19~20でこう告白しています。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださいましたが、その十字架と一緒に、私たちの罪も十字架に釘づけられたのです。
そして、私たちの内に生きているのは、もはや、「わたし」ではありません。キリストが私たちの内に生きておられるのです。
20節
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
この御言葉のように、私たちの自我に死に、キリストを私たちの心の中にお迎えして、キリストが私たちの内に生きておられる、そのような者へと造り変えていただきましょう。
そして、三番目に究極的には、私たちの人生のゴールである天の幕屋です。
ヘブライ9:24
「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」
平島望先生が、キリスト塩釜ともしびチャペルを牧会しておられた時のビジョンは、「神の国のモデルハウス」でした。
家を購入する時に、モデルハウスに行きます。モデルハウスを見学すると、やがて出来る自分の家を体験できるわけです。
そのように、教会は神の国のモデルハウスでなければなりません。天国に行くと、神様と顔と顔を合わせてみることが出来ます。そして、そこには、闇や罪は一切無く、ただ神様の愛と聖さに覆われているのです。
教会は、そのようなモデルハウスです。そして、誰かが来られた時、ここには、聖なる神様の御臨在があり、キリストの愛と赦しがあり、永遠の命への希望に満たされ、天国を会見ることができるのが教会です。そのような「神の国のモデルハウス」として私たちの教会も用いていただきましょう。
(3)聖所に置かれた3つのもの
幕屋は、聖所と至聖所の二つに分かれていました。その至聖所と聖所に納められた物が、10~40節に3つ書かれています。
①箱(10~22節)
10~11節
「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。11 純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。」
この箱は、アカシヤ材で造り、縦は2.5アンマ、横が1.5アンマ、高さが1.5アンマ(一アンマは、約44,7㎝)で、内側も外側も全部純金で覆われ、その中にモーセの十戒を刻んだ石の板が納められたのです。この箱は、神様の御臨在を現すものです。この箱の進むところ、神様のまた進まれたのです。イスラエルの民は、この箱と共に旅をし、箱に従ってヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ることが出来たのです。
また、この箱の上に、贖罪の座を造られることを命じられました。
17節
「次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。」
十戒を納めた箱の上に、贖罪の座が置かれました。そして、贖罪の座の両側には、ケルビム(神の使い)が、互いに向かい合って置かれました。
17節に、贖罪の座の大きさが書かれていますが、贖罪の座と、契約の箱の大きさが同じであることに気づかれたでしょうか。したがって、贖罪の座は、ちょうど良い具合に、箱の上に置くことが出来たのです。
この十戒を納めた箱の上に、贖罪の座が置かれたところに、深い意味があります。
神様は、この律法を完全に守ることによって、救われるように定められました。ですから、イスラエルの民にとって、この律法は非常に大切な物でした。しかし、私たちはこの律法を完全に守ることは出来ません。ですから、神様の御前に律法によって義と認められることは出来ないのです。
しかし、十戒が納められた箱の上には、贖罪の座が置かれ、大祭司が年に一度、至聖所に入って、贖罪の座にいけにえの血を注いで、罪祭が取り行われました。
このことは、律法によって義とされることのできない私たちが、キリストの血によって贖われるという深い意味があります。私たちは、キリストを信じ、キリストの贖いの血によって、神様の前に義と認められるのです。
ハバクク2:4(P1465)
「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
「神に従う人は、信仰によって生きる。」ただ、キリストを救い主と信じる信仰によって救われるのです。
この幕屋が出来たこの時代から、このようなことが現されていたとは、何と大きな恵みでしょうか。
②机(23~30節)
23~24節
「アカシヤ材で机を作りなさい。寸法は縦二アンマ、横一アンマ、高さ一・五アンマ。24 純金で覆い、金の飾り縁を作る。」
最も聖なる「至聖所」の手前の部屋は「聖所」と呼ばれ、ここにはアカシヤ材の机が置かれました。この机も純金で覆われ、その付属品である、スプーン、杓、杯もすべて金で覆われていました。
大切な事は、この机の上に、絶えず供えのパンが置かれたことです。30節には、「この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。」と書かれています。このパンが絶えず供えられるということには、二つの大切な意味があると思います。
一つは、神様から日ごとに与えられる糧への感謝です。
神様は、荒野でマナを与え、イスラエルの民のために日ごとの糧を備えられました。パンを机の上に供えるのは、そのような神様に対する感謝を現しています。
主の祈の中でも、「日ごとの糧を今日も与えたまえ。」と祈りましたが、神様が、私たちに日ごとに必要な糧を与えて下さっていることをいつも忘れずに感謝の生活をさせていただきましょう。
もう一つは、まことのパンとなって下さったイエス様への感謝です。
ヨハネ6:55~56(P176)
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
神の子であられるイエス様が、私たちの罪のために十字架にかかってくださり、その肉が裂かれました。私たちは、聖餐式を行う度に、パンをいただきながら、そのことを思い出し、感謝をささげていますが「この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。」
と書かれているように、絶えず十字架の主を見上げて感謝をささげましょう。
③燭台
31節
「純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。」
これは、6つの枝の燭台で、その中心のものを加えれば、一度に7つのともしびを灯すことが出来ました。また、付属品の心切りばさみと、火皿も純金で造られました。
この7つのともしびは、一週間7日間、世の光りとして輝くようにということを現しているのではないでしょうか。
イエス様は、山上の説教の中で、私たちが世の光であると言われました。
マタイ5:14~16(P6)
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
燭台が、幕屋全体を照らしたように、私たちも暗い世を照らす世の光りとして、輝かせていただきましょう。
また、ヨハネの黙示録2:5(P453)で、エフェソにある教会にこうおっしゃいました。
「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」
私たちは、暗いこの世を照らす燭台のようなものです。燭台の役割は、絶えず、周りに光を輝かすことです。
燭台が、幕屋を照らしたように、私たちも、暗いこの世を照らす「世の光」として用いていただきましょう。
最後に8節をご一緒にお読みしましょう。
「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」
神様が、私たちの心の内に住んで下さる時、私たちは、十戒を納めた箱のように、神様の臨在の中を歩むことが出来ます。また、パンを供えた机のように感謝の心に満たされます。そして、燭台のように、暗いこの世の中で「世の光」として、輝かく事ができるのです。私たちの心を、私たちの教会を聖なる場所として清めていただき、愛する主を心の王座にお迎えしましょう。
コメントをお書きください