主日礼拝 11/20

「神殿の垂れ幕」 出エジプト26:1~37

 今日の聖書の箇所は、幕屋そのものの構造について、掲示されているところです。

出エジプト25:8には、幕屋を作る目的が書かれています。

「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」

  ここに書かれているように、幕屋は、神様が、イスラエルの民と共にいてくださることを表すものでした。

 しかも、幕屋というのは、テントのようなものですから、イスラエルの民が旅をするところに移動することができました。そこに深い意味があります。

 私たちの神様は、この山や、あの山に行かなければ、拝むことのできないお方ではありません。神様は、私たちが行く先々に伴い、導きと守りを与えてくださるお方なのです。

 ヨシュア1:で神様は、モーセの後を継いだばかりのヨシュアに向かってこう言っています。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

  また、ダビデに向かってこうおっしゃっておられます。

Ⅱサムエル8:6

「ダマスコのアラム人に対して守備隊を置いた。こうしてアラム人もダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。」

  ここに「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。」  と書かれています。神様は、私たちの行く先々で、私たちと共にいてくださり、私たちを、守り導き、勝利を与えてくださるお方なのです。

 イスラエルは、シナイ半島を旅しましたが、いつも神様は、イスラエルの民と共にいてくださいました。そのことを目に見える形で、表されたのが、幕屋です。

 

 今日は、26章の幕屋の構造を通して、主の御声を聞かせていただきたいと思います。

 

(1)幕屋を覆う垂れ幕(1~13節)

1節

「次に、幕屋を覆う十枚の幕を織りなさい。亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げなさい。」

 幕屋は、幕屋を覆う10枚の幕を織ることが命じられました。そして、亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を用いて、この幕を作り、巧みにケルビムの模様を織り出したものでした。

 一枚の幕の長さは、28アンマ、(1アンマは、44.7センチですから、12m52㎝くらいです。)幅は4アンマ、179㎝くらいの大きな幕で、5枚ずつつづり合わせて、50の金の留め金で、ちょうど、幕屋の一番高いところで、結び合わせるのです。

 その10枚の幕は、すべて寸法が同じで、調和がとれていたところに注意したいと思います。なぜなら、これは、イスラエルの民が、互いに調和して、一致することを表しているからです。

 私たちも、キリストにあって、調和があり、一致と協力がなければなりません。

Ⅰコリント12:12~13

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

 このようにして、精巧に作り上げられた10の幕の上を、7~13節では、山羊の毛をもって造った11枚の幕で、片方を5枚、もう片方を6枚で造り、50個の青銅の留め金でとめて、余った一枚分は、後ろに垂らすように、命じられました。

 最後に、赤く染めた雄羊の毛皮で、天幕を覆い、さらに、その上をじゅごんの皮で覆いました。

 じゅごんの皮というのは、雨よけのために使われる、粗末なものであったそうです。

 このようにして、幕屋は、外側は、粗末なものにすぎませんでしたが、内部は何ともいえない美しいものに造り上げられたのです。

 これは、私たちクリスチャンのあり方を表しているのではないでしょうか。

 外側の見かけは、素朴で、見かけは悪くても、内側には、美しいものをもっているところに、クリスチャンの特徴があります。

 イエス様は、その反対の外側は美しくても、内側が汚れている、ファリサイ派や律法学者の人々に対して、こうおっしゃっておられます。

マタイ23:27

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」

  どんなに外側を、飾ったとしても、私たちの内側が清くなければ、神様に喜ばれることはできないのです。

 また、パウロは、Ⅰペトロ3:3~4節でこう言っています。

「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」

  私たち人間の美しさは、編んだ髪や、金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的な者にあるのではありません。むしろそれは、柔和でしとやかな気だてというもので飾られた、内面的な人柄にあるのです。

 今、新会堂建築が行われていますが、この聖書の箇所を読みながら、私たちの教会は幕屋に似ているなと思わされました。

 外側は、倉庫で、予算の都合上、外装まで、完全にきれいにすることは難しそうです。

しかし、内側は、きれいに改装が行われ、神様を礼拝するにふさわしい礼拝堂に作り替えられるのです。11月23日には、みんなで、棚の解体作業や掃除を行いたいと思います。そして、12月から、改装が行われ、3月中旬には完成の予定です。

 たとえ、外側が、元倉庫であったとしても、その内側が礼拝する場所に作り替えられ、心からの礼拝がささげられ、山形南部の祝福の基となっていくのです。何と素晴らしいことでしょうか。

 そして、何よりも、私たちの心が清められなければなりません。

 イエス様を心の王座にお迎えして、私たちの心を清めていただきましょう。

 アメリカ西部開拓のころに起こったできごとが書かれていました。

 その小さな村は、女性が一人しかいませんでした。男ばっかりですから、そこに住んでいる人達は荒っぽく、お酒を飲んだり、暴力が行われたり、あら果てていました。

   ところが、そのたった一人の女性が、出産をして、赤ちゃんを残して死んでしまったのです。残ったのは、赤ちゃんだけです。

 その赤ちゃんを育てなければなりません。小さな箱の中に赤ちゃんは寝ていましたが、だんだん大きくなっていきます。ベッドが必要だというので、140㎞も離れた町にベビーベッドを買いに行きました。また、タオルも油で汚れたタオルしかありません。赤ちゃんを寝かせるために、ふとんや新しいタオルを買いました。

 そして、赤ちゃんの寝ている部屋を、ピカピカに掃除をしました。

 その炭坑夫達は、仕事に行く前に、赤ちゃんをだっこしたいと思いましたが、手が汚れています。これでは駄目だというので、手を洗い、身体を洗って、きれいにしたそうです。そして、その家の周りは、花できれいに飾られ、その村が変わっていったのです。

 一人の赤ちゃんが、炭坑夫達の心と生活を変えました。それだけではなく、その村全体を変えたのです。

 それと同じように、イエス様を心の中にお迎えする時、私たちの心と生活が変わります。そして、私たちが、キリストの香りを放つことができるのです。

 このお方を、信じて、心の中にお迎えして、心を清めていただきましょう。

 あの幕屋の内側には、亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って、ケルビム(天使)の姿が、縫い上げられていました。私たちも、心を清めていただき、イエス様を心の王座にお迎えしましょう。

 

(2) 幕屋の壁板と横木(15~30節)

15節

 「幕屋の壁板をアカシヤ材で作って立てなさい。」

  幕屋の壁板は、アカシヤの木で造るように命じられました。

 一枚の壁板は10アンマ(4m47㎝)、幅は1.5アンマ89㎝、それらの壁板が幕屋の両側に20枚ずつ、また、その後ろ側に8枚が、備え付けられました。

 また、26節以下には、このアカシヤ材で、横木を造ることが命じられています。幕屋の壁板に5本、もう一方の壁板に5本、後ろ側の壁板にも5本の横木が用いられました。

 これは、幕屋だけでは、風に吹き飛ばされる恐れがあるので、板で覆うように命じられたのです。このようにして、幕屋は、美しいだけではなく、頑丈なものへと建てあげられていきました。

 わたしたちのクリスチャン生活もこれに似ています。私たちは、イエス・キリストの十字架と復活の命をいただき、イエス・キリストの血潮によって聖めていただきました。しかし、救われたから、聖められたから、それで終わりではありません。その救いと聖めの信仰が、強められ、成長していかなければならないのです。

 パウロは、エフェソの教会に、神の武具を身につけるように命じています。

エフェソ6:10~13(P359)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」

 今から400年くらい前の話しです。イギリスにクロムウェルという政治家(1599~1658)がいました。クロムウェルは、自分の兵隊ひとりひとりにポケット聖書を与えるほど、熱心なクリスチャンでした。

 ところが、その兵隊の中にどうしても、神様を信じない兵士がいました。

 ある日の事です。その兵士が、敵に鉄砲で撃たれてしまったのです。ズドーンという大きな音が聞こえました。鉄砲の弾の当たったその兵士は、馬から真っ逆さまに落ちてしまったのです。

 すぐに病院に連れて行かれましたが、誰もがもう駄目だろうと思いました。

 ところが、しばらくするとその兵士が、急に立ち上がっったのです。そして、あたりをキョロキョロ見渡して言いました。

「俺は、確かに鉄砲の弾を受けたのに、どうして生きているんだ?」

 そして、鉄砲の弾の当たった胸のあたりを、こわごわと触ってみました。すると聖書があったのです。その聖書を開いてみると、鉄砲の弾は、ちょうど真ん中のあたりで止まっていて、伝道の書12章のあたりで止まっていたのです。

 そこには、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(伝道の書12:1口語訳)と書いていました。

 それを読んだ、兵士は、今までの自分の不信仰を悔い改めて、聖書を一生懸命読むようになり、イエス様を救い主と信じたのです。

 聖書の御言葉こそが、私たちに与えられた、最高の神の武具です

  幕屋がアカシヤの木で守られたように、私たちも神の武具を身につけて、その偉大な力によって強めていただき、悪魔の策略にうち勝つ者とさせていただきましょう。

 

(3)至聖所の垂れ幕(31~37節)

  31~32節

「次に、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸を使って、意匠家の描いたケルビムの模様の垂れ幕を作り、32 金箔で覆ったアカシヤ材の四本の柱の鉤に掛けなさい。鉤は金、四本の柱の台座は銀で作る。」

  幕屋は、聖所と至聖所との二つに区分され、その間には、青、紫、緋色の毛糸、そして、亜麻のより糸を使って、意匠家の描いたケルビムの模様の垂れ幕で区切られていました。

 そして、至聖所には、十戒を納めた箱が置かれ、その上に、両側にケルビムが飾られている贖罪所が置かれていました。そして、聖所には、備えのパンを置くつくえと、燭台とが、置いてありました。

 この幕屋の前庭までは、イスラエルの民は、入ることが許されていましたが、聖所には、祭司だけが入ることができたのです。そして、至聖所にいたっては、ただ大祭司のみ、一年に一度、入ることが許されていたのです。

 しかし、イエス様が、あのカルバリ山で、十字架上で、息が絶えたとき、エルサレム神殿にあった聖所と至聖所の隔ての幕が、上から下まで真っ二つにさけたのです。

マタイ27:51~52(P58)

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」

  イエス様が、十字架で息を聞き取られたとき、エルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けたように、イエス様は、あの十字架の購いによって、神様と私たちに存在する、すべての隔てを取り除いてくださったのです。

ヘブル9:11~12(P411)

「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

  ここに描かれているとおり、イエス様は、御自身の血によって、神様と私たちとの間にある隔てを取り除いてくださり、救いの技を成し遂げてくださったのです。

 内村鑑三は、札幌農学校在学中に唯一の創造主を信じ、神様を礼拝する喜びを知りました。けれどもその頃の内村鑑三は、自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかられたということを信じ受け入れてはいませんでした。

 卒業後、結婚生活がうまくいかず、離婚をしてしまいました。それに仕事もうまくいきませんでした。そのような中、旧友が活躍する姿に焦りを感じるようになったのです。そして、自分の人生を何とかしなくてはと思い、アメリカに行ったのです。

 内村鑑三は、この時自分の罪について本当に悩みました。そしてそのときのことを「わが内なる暗黒に圧倒され、打ちひしがれて、わたしは言いようのない苦悩にもだえた」と告白しています。

 まず、はじめに精神病院で働きましたが、人を愛すことも仕えることも出来ない自分を思い知らされ、そこを去って、アマスト大学で学び始めました。

 そこで、クリスチャンのシーリー学長に出会ったのです。内村鑑三は、自分の罪について、シーリー学長に相談しました。

 すると、学長はこう言ったのです。「内村君、君は自分の内側だけしか見ていない。どうして十字架の上で君の罪を贖われたイエスを仰ぎ見ないのか。君のしていることは、木を植木鉢に植えて、毎日その根を抜いて見ているのと同じだ。信仰の成長も神様におゆだねすればいいのだ。」

 内村鑑三は、この言葉に目が開かれ、初めて全身全霊をもって、十字架の救いを受け入れたのです。

 内村鑑三は、1889年3月8日の日記に、「わが生涯に大きな意味のもつ日。キリストの罪の赦しの力が今日ほどはっきりしめされたことはなかった。今日までわが心を悩ませていたあらゆる疑問の解決は、神の子が十字架にかけられたことの中にある。」と記し、深く感謝しています。

 この時から、神様と内村鑑三の「神殿の垂れ幕」は取り除かれ、心に本当の平安が与えられたのです。

 イエス様の十字架だけが、私たちと神様との隔てを取り除く唯一の道です。「神殿の垂れ幕」取り除いていただいて、いつも主との豊かな交わりのうちに歩ませていただこうではありませんか。

 

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Illustration by c-awase