今日から、教会歴ではアドベント「待降節」に入ります。アドベントは、普通は4週間ですから、教会歴でいうと今年は、18日がクリスマスということになりますが、やはり、25日にクリスマスをお祝いしたいということで、多くの教会が25日にクリスマス礼拝を行っています。そして、私たちの教会でも、25日にクリスマス礼拝を行う事にしました。
アドベントは、イエス様の誕生を待ち望む大切な時ですが、もう一つ大切に意味があります。それは、再臨の主をお迎えする準備です。イエス様が天に帰られる時、白い衣を着た御使いが、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)と言いました。
その御言葉通りに、天に帰られたイエス様は、再びこの地上に来られるのです。その再臨のイエス様をお迎えする備えをしなければならないのです。聖書には「その日、その時は誰も知らない。」と書かれています。いつ主が来られても良いように、心の準備をさせていただきましょう。
今日の中心の御言葉は、イザヤ7:14です。ご覧下さい。
「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
ここにインマヌエルとあります。インマルエルというのはヘブル語で「神は私たちと共におられる」という意味です。
神様は、私たちを限り無き愛をもって愛しておられるお方です。そして、神様は何でもできる全能のお方です。そして、神様は私たちのことを全て知り尽くしておられ、私たちに最善の事をなして下さるお方です。この神様が私たちと共におられると言うメッセージがこのインマルエルと言う言葉の意味です。
まずこのイザヤ書7章の歴史的背景が1節に記されています。
「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。」
イスラエルはダビデの時代、紀元前千年頃には一つの国でしたがダビデの後をヤロブアムが継いだとき、レハベアムが反乱を起こし、イスラエルは北イスラエルと南ユダという二つの国に分裂してしまいました。
ちょうどその頃、アッシリアが、どんどん勢力を増していました。そして、このアッシリヤは、南にある北イスラエルと南ユダ、そしてアラムという小さな国を自分の勢力範囲におこうとしていたのです。
そこで、アッシリアに抵抗するために、南の3つの国で同盟を組もうとしましたが、南ユダの王アハズは、その同盟には加わろうとはしませんでした。そのためにスリアと北イスラエルの同盟軍がアッシリアと戦うために南ユダを血祭りにあげてしまえ。というわけでエルサレムに攻め上ってこようとしていたのです。
その時の南ユダのアハズがどのような気持ちだったのかが2節に書かれています。
「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」
「エフラエム」というのは北イスラエルのことです。スリアと北イスラエルが同盟を結んでいるということを聞いたとき「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」と書かれています。
北イスラエルとスリヤは小さい国ではありましたが、2つの国が同盟を結ぶと、南ユダよりはるかに大きな力がありました。そんな同盟軍がせめてくることを聞いたとき、大変大きな恐怖を覚えて動揺してしまったのです。
このようなことは、私たち日本人にも無関係なことではありません。先週は、地震が起き、津波が仙台港に押し寄せて、多くの人が5年前の東日本大震災を思い出して、震えてしまった言っていました。
また、国際的にもイギリスが、EUを脱会し、内向きな政策を取っています。また先日、アメリカの大統領選挙で新しくトランプ大統領が選ばれ、アメリカ中心の政治を掲げて、大きく世界が動いています。経済の問題、温暖化の問題、教育の在り方、などなどこのままで良いのだろうかと不安や危機感をもって動揺する出来事がたくさん起こっているのではないでしょうか。
「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」
南ユダの人々に多くの不安や危機感があったように、私たちにも不安や危機感があります。そのような中で私たちは何をすればいいのでしょうか。また、何を頼りに生きていけば良いのでしょうか。
預言者イザヤに語られたイザヤ書7章14節の御言葉を中心に3つのことをお話しします。
(1)インマヌエルの主は、預言された救い主
このイザヤ書は紀元前700年に書かれた書簡だといわれています。イエス・キリストがお生まれになる700年も前に書かれた書簡なのに14節には救い主がどのようなお方としてお生まれになるか3つの事が預言されているのです。
①「処女がみごもって」②「男の子を産み」③「その名を「インマヌエル」と名づける」
子供が生まれるということがわかるのは、早くても10ヵ月前です。けれどもイエス様の場合、イエス様がお生まれになる700年も前に処女が身ごもること、男の子が生まれること、しかも名前まで預言され、その子が救い主となると預言されていたということはずごいことではないでしょうか。
山形南部教会の55周年記念証し集に、9人の子どもたちの写真が載っています。それも、何故か男の子ばかりです。
ところが、一牛真理ちゃんの所に、長女「えみり」ちゃんが生まれた時から、及川家に双子の「あきな」ちゃんと「ゆいな」ちゃん、そして、佐藤 愛(まな)さんの所から長女の「すみれ」ちゃんがホサナに集うようになり、11月17日には、に、「こはる」ちゃんが誕生しのした。最近は女の子ばかりが生まれています。
神様がバランスを取っていらっしゃるような気がしますが、だいだい、男の子か女の子かが解るのは、妊娠5ヶ月を過ぎてからだそうです。それまでは、自分のお腹の中にいる子どもなのに、男の子か女の子かも解らないのです。
けれども、イエス様は、700年も前に男の子である事がわかっていたのです。そして名前までも決まっていました。しかも、処女から生まれるという不思議な預言でした。そして、この預言の通り、この預言がなされた700年後、今から二千年後の救い主が乙女マリヤより生まれ、救い主としての生涯を過ごされたのです。
このことを旧約聖書の時代から預言されていたのです。クリスマスにお生まれになった、このひとりのみどり子こそが特別に選ばれた、わたしたちの神の子キリストです。
(2)インマヌエルの主は、見上げるべきお方
4節をご覧ください。
「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」
ここに「落ち着いて」とあります。気を動揺させる事なく「落ち着いて」「静かにしていなさい。」そして、真の助けがどこからくるのかを考えなさいというのです。
わたしたちが「落ち着いて、静かにして」心を主に向けるならば、恐れは取り除かれるのです。なぜなら、この世のどんな大きな力よりも、全知全能の主の力は、はるかに勝っているからです。
「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。……心を弱くしてはならない。」
このイザヤを通して恐怖のどん底にある人々に語られた御言葉は私たちにも語られているのです。
私たちの回りには、この世の力や罪の力が働いていて、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」とあるように動揺してしまうことがあります。けれども、そのようなときにこそ、「落ち着いて」神様に心を集中させなさい。「恐れることはない」と語られているのです。
アメリカの大統領の中には、神様を畏れ敬う素晴らしいクリスチャンの大統領が、たくさんいますが、その一人に、アブラハム・リンカーンをあげることができます。
当時、アブラハム・リンカーン大統領は人気もありましたが、随分ひどい中傷もされたそうです。彼らはリンカーンを魅力のない独善家、学のない人、無謀な者と言って攻撃しました。
けれども、リンカーンはそのように言われた時も、絶対、言い返したりはしませんでした。しかし、あまりにもひどい攻撃を受けた時、ホワイトハウスにある祈祷室で夜通し声を出して祈ったのです。
また賄賂などの誘惑も多くあったようですが、彼は一度たりともそのようなお金を受け取りませんでした。彼が誠実に生きられたのは「盗んではならない」という母親からの訓戒でした。彼の執務室には聖書のことばかかげられていました。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:9)。
リンカーン大統領はこの聖書の言葉を通して、日々神様を見上げて力を頂いていたのです。こうして、リンカーン大統領は周囲からの様々な攻撃や誘惑に打ち勝ち、正直さと忍耐をもって生き抜いたのです。
このように神様を信頼し、神に徹底的に頼る彼の姿勢が南北戦争の勝利と奴隷解放をもたらし、今日、リンカーンは最も偉大な大統領の一人とされているのです。
私たちにもいろいろな戦いがあります。その中でしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス・キリストを見上げることです あなたの人生が、どのように進んだらいいのかわからない八方ふさがりのような状態になることがあるかもしれません。
悲しみに打ちひしがれて、その悲しみは誰にもわかってもらえないというようなこともあります。
また、大きな苦しみのなかでもう生きていく気力もなくなったということもあるかもしれません。
けれどもそのような時にぜひ覚えて下さい。どんなに行きずまって八方ふさがりになっても上を見上げるならば、そこには必ず窓が開かれていて、そこで神様が両手を広げて待っておられるのです。
4節「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・・・心を弱くしてはならない。」
落ち着いて、静かにし、恐れること無く、心を弱くすることなく、私たちの主を見上げましょう。そこにこそ、インマヌエルの主が待っておられるのです。
(3)インマヌエルの主は、勝利の主
イヌマヌエル「主は私たちと共にいます」というこの約束は南ユダの王であるアハズ王に与えられた勝利のしるしでした。
けれどもこれは、北イスラエルとスリヤの同盟軍に勝利を得るという事だけのことではありません。全人類の救い主であるイエス・キリストがお生まれになるという預言の言葉なのです。
マタイによる福音書1章20~23節(P1)をお開き下さい。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」
これは、ヨセフがまだ、結婚もしていないのに、いいなずけのマリヤが聖霊によって身ごもってしまったと言うことを聞いて大変悩んでいたときに、主の使いによって語られた御言葉です。
21節に「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
ここに、「この子は自分の民を罪から救うからである。」とあります。この御言葉の通り、イエス・キリストはすべての人類のために十字架に架かられ、救いの完成を成して下さいました。そればかりではなく、神の子であるイエス・キリストは罪に打ち勝ち、死に打ち勝って三日目によみがえられたのです。
私たちの信じる神様は勝利の主です。
23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」
勝利の主が私たちと共にいて下さるのです。
西村 隆さんが書いた「神様がくれた、弱さとほほえみ」という本があります。
隆さんが、最初にイエス様のことを知ったのは、小学校4年生の時でした。腎臓の病気になって、1年半入院をした時に、たまたま同室のお見舞いに来た、YMCAのチャプレンが、トラクトを渡してくれたのです。
退院をして、中学校になった時、教会に通い始めました。そして、高校2年生の時に、イエス様を信じて、心の中にイエス様をお迎えしたのです。
そして、この神様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと牧師になる決心をして、関西学院大学の神学部に入ったのです。
でも、「言葉で神様の愛を伝えることも素晴らしいことですが、目の前にいる人達を助けたい」と思って、福祉に進路を変えて、神戸の聖隷福祉事業団に就職しました。
そこには、体にハンディーをもっている人達がたくさんいましたが、ある人が、こんな質問をしたのです。「神様がいるなら、なぜ、ぼくにこんなに重たいハンディーを与えたの?」その悲しそうな顔を見た時に、隆さんはどう答えたらいいのかわかりませんでした。
やがて、隆さんは結婚をして、二人の子供が与えらて幸せな生活をしていましたが、そんなある日、缶ジュースを買って開けようとしても開けられなくなったのです。それから、つまずいてもいないのに転んでしまって大けがをしてしまったのです。病院に行くと、筋肉が弱ってしまう筋萎縮症という病気だということが解りました。「歩くことも、食べることも、話すことも」難しくなってしまいました。そして、ついに声が出なくなってしまい、パソコンでしかお話しが出来なくなってしまいました。
そして、追い打ちをかけるように、病気になって2年たって3番目の子供が生まれましたが、その子供もハンディーをもって生まれたのです。
確かに、病気と戦うのは大変でしたが、心の中にはいつも変わらない希望がありました。どうしてでしょう。それは、隆さんの心の中に、インマヌエルのイエス様が共にいてくださったからです。
そして、家族みんなで、助け合って、隆さんを助けてくれたのです。そして、自分の病気を恥ずかしがらないで、病気の人の立場から、論文を書いたり、本を書いたりしたのです。そして、今も前向きに生きて、笑顔でみんなを励ましています。
この西村隆さんが、こんな文章を書いています。
「病気は確かに、いのちを含めて多くのものを奪い続けています。にもかかわらず、全く失っていないものがあり、なお、病気になって得たものも確かにあります。「何で神様はハンディーを与えたの?」とかつてわたしに聞いた若者に、今なら応えられるような気がします。この本も答えの一つのつもりで書きました。この病気で、神様が身近に感じられるようになりました。苦しみにあったことは本当に幸せでした。」
この最後の「苦しみにあったことは本当に幸せでした。」というこの言葉は、本当に重たい言葉です。だんだん体か弱って、いつ死んでしまうかわからないのに、「苦しみにあったことは本当に幸せでした。」と言えるなんて本当にすごいと思います。どうして、こんな事が言えるのでしょうか。それは、イエス様が、隆さんといつも共にいてくださるからです。そして、たとえ、この世の命が終わっても、永遠の命が約束されているからです。
パウロは、このインマヌエルの主について、こう言っています。
Ⅱコリント4:16~18(P329)
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
イエス様を心の中にお迎えするならば、たとえ私たちの「外なる人」は、衰えたていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされて、この世の艱難とは比べものにならないほど、素晴らしい永遠の栄光をいただくことができるのです。
「インマヌエル」「神はわれわれとともにおられる。」
イエス様が、私達と共にいてくださるということは本当に素晴らしいことです。
インマヌエル「神は私たちと共にいます」神様は私たちと共にいて下さるお方です。どうか、このインマルエルの主を見上げて下さい。そして、この主を心の中にお迎えして、主と共に勝利の人生を歩みだしましょう。
コメントをお書きください